第五章 1997年~2007年 

   ( 社長業第二期 )

 

(53) 最大の事件 ①

  (経緯から全貌)

 

社長業をしていると

次々に想定外の

突発的な出来事が起こり、

その対応に「待ったなし」で

追われる。

誰にすがるわけにもいかず、

代わりの利かない立場ゆえに

それらと正面から向き合って

対処していかなければならない

「社長業」。

 

その出来事が他の人や事柄に

どの程度の影響を及ぼすのか?

解決までどの位の時間を

要するのか?

それによって対処の仕方は

大きく変わる。

 

この出来事は間違いなく

私の社長業の歴史の中で

最も予期せぬ衝撃的な、

そして公私ともに

大きな影響を及ぼした

事件である。

 

2001(平成13)年12月。

これまでこのブログに

何度も登場した、

私の公私に亘る物心両面の

支えだった都民信用組合。

(以下、都信)

その取引窓口の

上野支店のY 支店長が

朝一で突然来社された。

 

そして青ざめた顔から

発した言葉が…。

「 社長、

  うち危ないかもしれない! 」

 

先週には私が会長を務める

都信上野支店の外郭団体

「昭栄会」の忘年会を

開催したばかりだった。

まだ一般のお客さんには

伏せているようだが、

都信が破綻の危機に

追い込まれているという。

 

さて、

この頃の日本の金融業界の情勢を

整理してみよう。

小泉純一郎総理大臣が

当時盛んに言っていた

「痛みの伴う構造改革」

多くの金融機関が

不良債権処理による特別損出を

計上した結果、

自己資本比率が著しく低下。

これらの地方銀行、信用金庫、

信用組合を統廃合して整理。

金融体制を改革するという

狙いだ。

その金融機関の整理に

小泉総理と共に着手したのが

竹中平蔵金融担当大臣。

 

各金融機関には期限を付けて、

自己資本比率を何%にしないと、

他行に吸収合併させるという

「早期是正措置」を

金融庁が発動したという。

(後に聞いた内部情報)

 

それらの金融機関は、

この自己資本比率を

短期間で高める為には、

顧客から「出資金」を

集めなくてはならない。

企業で言うならば

「株」の増資である。

それによって資本の部(総資本)の

出資金と累積利益の占める割合、

つまり自己資本比率が

高まることになる。

 

実はこの動きは約半年前からあった。

都信の取引窓口の上野支店から

出資金のお願いが来たので

前述のように、

それは大変お世話になっている

ことから、

会社として600万円の

お付き合いをしていた。

 

更に個人取引をしている

私の自宅管轄の北支店のT支店長も

同じお願いに来た。

既に会社でお付き合いをしたからと、

断る私のところに何度も来宅され

根負けした私は

個人でも100万円の

お付き合いをしていた。

 

後日この都信で知り合った

友人知人に聞くと

その時の出資金の集め方は

それは強引だったという。

 

私がこの都信の「昭栄会」で

知り合い、

お付き合いをしている

親友の I 社長などは、

当時、会社で組んでいた

定期預金の2000万円を

解約して良いから

全て出資金に振り替えてほしい

と頼まれ、振り替えたという。

しかもその振り替え後に

別件で融資を申し込んだら

断られたというから

尋常でない。

 

自己資本比率を

早急に高めようとする

金融機関からすると

融資はバランスシ-ト上、

かつての「貸しはがし」に

見られたように逆行する。

 

I 社長やトキワを含め、

都信から融資を受けていたり

日頃、深いお付き合いをしている先は

立場上、その出資金のお願いを

断るわけにはいかない。

又、お願いする方も

そのような会社や個人に

優先的にお願いをしていた。

 

ただ今思うと、

支店長とは言え所詮雇われの身。

本部からの命令に

必死になって動いたと思う。

 

とうとうその年の暮れ、

都民信用組合は破綻した。

 

東京の信用組合の中でも

中堅上位にランクされ、

治山理事長は

「全国信用組合中央協会」の

会長までしていた信組のトップ。

それまでは逆に、

経営の傾いたいくつもの信用組合の

受け皿にもなっていたほどである。

 

当時、都信だけではない。

数多くの地銀、信金、信組が

小泉政権が誕生してから

2年間で57もの金融機関が

経営破綻をした。

いや、破綻させられたのである。

 

「永代信用組合」などは

都内信組の中でも

2番目に大きい規模の信組で、

金融庁から強制的に

経営破綻させられたと、

国を相手取って

裁判にまで持ち込み

争ったほどである。

(結果は敗訴)

 

現在でも当時の都信の役員と

お付き合いのある私は、

彼らから当時の話しを聞くと

金融庁の態度は、

途中から豹変したという。

 

「 最初から標的を定め、

  そのハードルを高くした

    結論(破綻)ありきの

    期限付き「自己資本比率改善」

    の発動だったと思います。

    我々は単独で生き残る為に

    必死になって動きましたが、

    この政策の一番の被害者は、

    最初から出来レースとは知らず、

    否が応でも出資金に協力して、

    数か月後には、その出資金が

   『どぶに捨てたお金』

    になってしまった中小企業や

  個人のお客様ですよ!

 ただ謎は、

 金融庁が選択した標的の根拠は

 いったい…?」

 

39年前。

父はトキワの本社ビルを建設する際、

当時他行に断られた融資を

実行してくれた恩から、

都信にそれは力を入れていた。

後に、祖父、父、私と

親子三代にわたり「総代」。

(取引先の代表)

これは同信組において

唯一だったという。

そして父はその後「理事」に、

私は二世の会「昭栄会」の会長に、

更に母までが「 T L クラブ」という

女性の会の代表幹事と、

それは会社にとっても

我が家にとっても

公私ともに切っても切り離せない

繋がりで、

それぞれの活動は

ライフワークと言っても

けして過言ではなかった。

 

これまで都信の縁から

多くの方々と出会い、

お付き合いをさせていただいた。

都信破綻後、

改めて個人住所録を見ると

都信で知り合い、

毎年年賀状のやり取りを

している方だけでも

ゆうに100名を超えていた。

 

それほど、

私にとってウエイトの高い、

中身の濃い関係だった。

 

そもそも金融機関が破綻(倒産)

するなどとは、

夢にも思わなかった…。

亡き父も

天国で天と地がひっくり返るほど、

驚いていることだろう。

 

次項では、

この私の社長業最大の

衝撃的事件が生んだ

「人間模様」を綴ってみたい。

それは「人間の本能」を垣間見た

私にとって、

その後の人生においても

教訓となった出来事でもあった。

 

(つづく)