第五章 1997年~2007年 

   ( 社長業第二期 )

 

(51)『感謝の夕べ』


ミレニアム西暦2000年は、

会社創業70周年。

そして、私個人も

社長に就任して10年という

節目の年だった。

 

前述のように、

この近年「特許」や「商標権」

の取得、ヒット商品も誕生。

人材にも恵まれ、

会社は運気に乗っていた。

 

私は「自発型人間集団」作りを

するべく、

タイムレコーダーによる

時間管理をまず撤廃した。

そして勤続年数も

年齢も男女も関係なく、

中途採用であっても

能力のある社員には

やりがいのある

先が見えやすい、

出来高払い付きの

「年俸制度」を全社員に

導入した。

 

結果、

社員の仕事に対する意識が

確実に変化してきたことを

実感としていた。

当時の資料を紐解くと

その直近3年間だけで、

119社の新規顧客を

開拓している。

 

長年、取引先の中心だった

「問屋業」は急速に陰りをみせ、

新しい市場への進出を

余儀なくされていた。

当時の新規顧客も

これまでのトキワにない市場の

顧客が多かった。

 

ところで私が入社してからの

創業50周年、60周年の

節目の年には会社の行事として

記念祝賀会を開催していた。

そこで私は、これまでの慣例に従い

70周年の記念祝賀会を

開催しようと計画をした。

 

ただ、私の中には

これまでのような会とは異なる

もっと趣旨を明確にした会に

したいと思っていた。

 

それは、

まず長いお付き合いの取引先には

感謝の気持ちを込めて、

前出の新規取引先には

トキワという会社を理解して

もらうために、

更に私の個人的友人たちにも

私が導入した新規事業

「イベント企画制作事業」に

日頃協力していただいている

お礼を込めて、

そして何と言ってもこの10年間

私を支えてくれた社員と

その家族にも感謝の気持ちを、

会社からも、私個人からも

伝えたい。

それらの趣旨が盛り込まれた会を

是非、実現したいと考えていた。

 

創業70周年記念「感謝の夕べ」

 

2000(平成12)年1月18日。

上野・精養軒に於いて、

北は青森、南は福岡より

112名の方々に

遠路ご足労いただいた。

趣旨に則り、

招待客からのお祝いは一切辞退。

逆に私個人から

特にこの10年間会社に貢献をした

役員や社員(3名)に金一封を、

更に参加してくれた

社員の子供達には、

(嬉しい事に全員が参加してくれた)

お年玉ならぬ「お小遣い」を

させてもらった。

 

 

会場内にはブースを設け、

これまでの70年間の

会社の歴史が分かる資料や製品を展示、

更にテレビショッピングで放映された

「特許サイクルケース」付きの製品

「ファミネットレインサイクル」が

紹介されたテレビ番組の模様を

ビデオで流した。

 

司会者は式典、余興ともに

これまで私の時代に開催して来た

イベントや父の本葬など

いつも私のかゆいところに

手が伸びる進行役

スポーツキャスターの高山 栄アナ。

そして今回、

私が長年あたためていた構想の

男女2人によるツイン司会。

その女性の司会者には、

高山 栄さんの教え子で

フリーアナウンサーの塙野ひろ子さん。

塙野さんはこの会をご縁に、

その後、私の様々なイベントで

司会を務めてくれた。

 

冒頭の私の挨拶では、

参加者への感謝の気持ちを表明した後、

社業の経営理念について

述べさせていただき、

更にトキワの現況や今後のビジョンも

発表した。

 

宴席の余興では、

平素イベント企画制作部で

お世話になっている

私の著名人の友人たちに

ご登壇いただき、

落語家には「小話し」、

空手家には「演武」を、

又、大相撲関係者やプロ野球選手には、

「インタビュー&クイズ」で、

場を盛り上げていただいた。

 

会場で用意された料理のみならず

大相撲・中村親方(元富士桜)の

ご好意により

中村部屋の力士たちの手による

本場「ちゃんこ鍋」の屋台を出店、

参加者は列を作って、

召し上がってくれた。

 

「帰り土産」の中には、

家内が平素料理を教えている

生徒さんたちに手伝ってもらい

ご来場者全員に、

手作りケーキをお持ち帰りいただく

という、構想通りの

「手作りの温かい会」

実現した。

 

とにかく私からすると、

これまでほとんど営業しか

携わっていなかった私が、

同族のお家騒動から

急遽社長になり、

取引先の約3分の1を叔父に譲渡。

理不尽な独立条件を飲まされ、

引き続きお取引いただいた先には

「ある事ない事」言われ

同業者には、これまでとは異なる

手の平を返したような態度を取られ、

更に前述の「激動の4年間」の中で

父と母を見送った。

 

それらの艱難辛苦を何とか乗り越え、

会社がやっと

軌道に乗り始めた感謝の気持ちを

対外的な人たちにも

社内の役員社員にも

そしてその家族にも伝えたかった。

 

宴席に入る前の式典では、

来賓を代表して、

お一人にだけ、ご挨拶を頂戴した。

 

その方は…。

もちろん、

都民信用組合の治山孟理事長。

あの私の激動の4年間の中で

バブル経済崩壊後の

銀行3行から受けた

「貸しはがし」の危機を

「鶴の一声」で

救済してくれた方である。

 

本来はもっともっと

ご挨拶を頂戴しなくては

ならない立場の方が何人も

ご列席していただいていたが、

その方々には「乾杯」の折、

1人1人ご紹介しながら

グラスを持って登壇、

ご発声をいただいた

地元・上野警察署長と共に

12名の方々一同に

「乾杯」をしていただくという

私の苦肉のアイデアで

お許しをいただいた。

 

それほど私は、

何としてもこの治山理事長だけに

ご挨拶をしていただきたく、

事前に都民信組本部に

理事長を訪ね、

その旨を申し上げていた。

そしてその治山理事長には、

誰にも増して現在のトキワを

見ていただきたかった。

 

こうして私が「全量投入」した

こだわりの会「感謝の夕べ」

大盛況の中で無事に終え、

多くのご列席者から

後日「感動のお礼状」を頂戴し、

更に当日に辞退していた

お祝いの金品を

改めて贈って下さる方もいた。

 

そして私は再び

都民信組の治山理事長を訪ねた。

平素は多くの要職を兼任する

多忙な方。

お会い出来ることは中々なく、

その機会に恵まれたとしても

一般の応接室に理事長が出て来られ

ごくわずかの時間…、

というパターンだった。

それでも私はどうしても

今回のお礼の挨拶を

一言したかった。

 

ところがこの日は、

秘書が私を理事長室に通してくれた。

4年前、

父の葬儀委員長をお務めいただいた

お礼のご挨拶にお伺いして以来、

私にとって2度目の理事長室だった。

 

5分くらい待ったであろうか…。

突然ドアが開き、顔を見せるなり

「いや~先日は実に立派な会でした。

 改めておめでとうございます。」

当日の会の様子がしばし話題に上った。

 

そして理事長はいきなり

私に顔を寄せて来られ…、

人差し指でご自分と私を交互に指差し、

隣室にいる秘書に聞こえないような

小声で。

「今ここに二人だけだから言えるが、

 若(私の事)は大したものだよ。」

 

メインの取引金融機関として、

祖父、そして父の時代からの

会社の内情を全て知った上で

私のこの10年間の社長業を

労ってくれた言葉と、

私は解釈した。

 

そしてこの時の治山理事長の言葉は

その後もずっと、

私にとって大きな心の支えだった。

 

    当日の模様を報じる「ゴム報知新聞」

 

この会から22年が過ぎた現在、

これまで数多くの会を

開催してきた私だが、

これほど、いつまでも余韻が残り

全ての面で満足した会はなかった。

 

(つづく)