第四章 1990年~1996年 

   (社長業駆け出し時代)

 

 (45)激動の4年間 ②

 

母が亡くなり、

父は目に見えて弱っていった。

ついに人工透析が始まり、

週3回、私が会社へ行く朝、

車で病院へ送って行き、

夕方は家内が迎えに行く。

そんな生活が始まっていた。

 

この頃、初めて家内に

父の余命を打ち明けると、

最初はとても驚いた様子の家内も

父の性格を考えると

本人には絶対に言わない方が良い、

どこから漏れるか分からないから

身内といえども伏せた方がと、

考えは一緒だった。

 

医者の言うこれからの

3年?もの長い期間、

仮に身内に話しをしたところで

大変申し訳ないが

何をしてもらえるわけでもない。

それより父が悟った場合、

自分の残された命を

日々どのようなことを考えて

暮らすのか…。

そう考えると、

私は父に知られることを

一番恐れた。

 

家内には、

これまで伏せていた事を詫びた。

素直な家内のことだから(笑)

父の前で態度に出てしまう?

母も私もそれを恐れたと説明、

もちろんいづれは話すにしても

今の時点ではと。

そして家を新築するに至った

経緯も説明をした。

 

父の余命を徹底的に伏せた事は、

父が亡くなった後、

何人かの親戚に責められたが

父が真実を知らぬまま、

(私は確信している)

亡くなったことからも

私は今でも全く後悔はしていない。

それよりその約3年間、

家内以外の誰にも伏せて

公私に亘る様々な事に対処した

自分自身をむしろ褒めてあげたい。

 

さて、母亡くなりし後、

それでも父の願いである

自宅の新築計画は続行すべきか?

悩みに悩んだ末、

私は父の気持ちを最優先、

予定通り実行する決意をした。

 

これも数年後に

耳にしたことだが、

「 お母さんが亡くなって、

  なぜすぐに、

  これまで長いこと住んでいた

  家を建て直したのか?

  だからお父さんも

  後を追った。」

と、近所で噂をする人も

いたという。

 

真実も、人の気持ちも、

知らないで

人は勝手な事を

言うものである。

 

年が明け、

家内が探して来た仮住まいへ

引越し。

建築現場からは歩けば約30分、

車なら10分もかからない、

家族6人が一緒に暮らせる

荷物も預けることなく入る

便利な一軒家だった。

 

ところが、

体力的にも精神的にも

父は更に弱っていき、

思うようにならない自分の身体に

イラついて、

あれだけかわいがっていた

孫たちを怒鳴るようになった。

 

その光景を見ているだけで

私はとてつもなく落ち込み、

父と顔を合わせるのを避けて

父が寝た頃を見計らい

家へ帰るという日が

続いてしまった。

留守を預かる家内には

本当に申し訳なかったと

思っている。

 

そんな私生活と時を同じくした

この1994(平成6)年は

バブル経済の崩壊から

多額の不良債権を抱えた銀行の

「貸しはがし」、「貸し渋り」が

始まった年だった。

 

これらはいずれも

銀行が財務状況が悪化した時、

その改善をするために

融資額を減らし

「自己資本比率」を

上げるために行う。

後年、

金融機関の破綻が

相次いだ時代があったが、

これも金融庁が設定した

自己資本比率を期限内に

金融機関がクリアすることが

出来ず、

金融庁主導で破綻に追い込まれる

事態となった事からも

銀行や信用金庫、信用組合の

「自己資本比率」は

金融庁に対して、

重要な係数だった。

 

ゆえにこの時の銀行も

恥じも外聞もなく、

ほんの1ケ月前に口約束をした

案件でさえ反故にして、

態度を豹変して来た。

 

それまでは「折り返し融資」、

「借り換え融資」を

二つ返事でしてくれていた銀行、

いやむしろ借りてほしいとさえ

言っていた銀行が

融資した貸付金の回収に

回るという事態だった。

特に短期の融資(短期借入金)は、

「貸しはがし」の標的となった。

 

父の「資金繰り」が

この頃の私からすると

見様見真似唯一の手本で、

これまで資金ショートをした場合、

一時的に銀行から融資を受けて、

運転資金に充当していた。

 

そんなある日、

まず都市銀行の M が

短期で融資した借入金を

今回は折り返しなしで、

返済してほしいと言ってきた。

時を同じくして A 銀行も。

更に地方銀行の H も…。

それは申し合わせたようだった。

いづれも父の時代から続く

借り換えの短期借入金だった。

 

当時、社会問題にもなった

前述の銀行による

「貸しはがし」である。

 

そしてその年の7月。

この3行の銀行の返済が集中、

私は月末までに

気が遠くなるほどの

多額の資金を用意しなくては

ならなくなってしまった。

既に3ケ月ほど前から

資金繰り上この事態は、

ある程度想定できたことで、

毎日眠れぬ夜が続いていた。

 

この間、

新築中の自宅は待ったなしに

建ち上がっていく…。

父の事を考えての新築だったが、

私自身は家の建て替えどころでは

なかった。

本来、生涯で1度あるかないかの

誰もが心待ちにする

「我がお城の建築」。

しかし私は、

「この家に入る事なんて

 本当に出来るのだろうか?」

と、建築中の現場に

怖くて行く気にもなれなかった。

 

現在の健康状態からして

父に相談するわけにもいかず、

私は唯一「貸しはがし」を

未だ言ってこない取引金融機関の

都民信用組合の小林一夫常務理事に

相談の連絡を入れてみた。

 

この小林常務こそ8年前、

新任の北支店長時代に

私を北昭栄会の会長に

大抜擢した方で

その後、本部の部長を経て

常務理事へと出世していた。

 

小林常務は事のあらましを

私から聞くと、

取引支店の支店長を

会社に行かせるので

更に詳しい説明をしてほしい

と言った。

翌日すぐに神戸秀雄支店長が来社、

理事会でその案件を審査するために、

様々な資料提出を私に求めて来た。

 

この神戸支店長は、

営業店の支店長を兼務する理事で、

(後に専務理事)

理事会へ出席する人だった。

 

私は提出を求められた資料作成に

約1週間を要したが、

父の時代から仕える経理総務の

今井君の存在は大きく、

彼には本当に助けられた。

 

そしていざ理事会が終わり、

神戸支店長がすぐに、

その報告に来社した。

 

「 社長、こんなこと

  私も初めてでしたよ。

  未だに信じられない…。

  ほとんどの理事が

  どうしたら良いものかと

  頭を抱える中で、

 理事長が

 「 萩原の若を

  ( 治山孟理事長は

        平素、私の事を

        このように呼んでいた)

   助けてあげなさい。

   その3行からの借入金の

   全てをうちから融資して

   返済させて、

   その融資は長期で組み

   無理のない返済を

   してもらいなさい。」

 そう、言ったんですよ!

 これには理事全員

 驚きの顔でした。」

 

「助かった…。」

私は心の中でそう呟き、

神戸支店長に深々と頭を下げると共に

理事長による信じられないご好意に、

ただただ感謝あるのみだった。

 

これまでこの都民信組の様々な会合に

積極的に参加して

活動をして来たその実績も

今回の融資に繋がったのかと察するに、

かつて、この都民信組との付き合いを

私に重んじるように進言した

父の言う通りだと思った。

 

もちろんそれ以前に、

長いお付き合いの

治山理事長の

父に対する信用と評価あればこそ

と思った。

 

この出来事から

28年経過した今でも

あの時の苦しみ、そして感謝を

私はけして忘れることはない。

 

そしてその翌月、

1994(平成6)年8月26日(金)。

なんとか無事に建ち上がった新居へ

引越しをすることが出来た。

 

この「生みの苦しみ」

新築された我が家。

もちろん父の意見も尊重され、

代々続く「人寄せ好き」な

萩原家ならではの?

毎日住む家族よりも

たまに来るお客様を重んじた

「お客様仕様の家」(大笑)

 

しかし後に、

この家とお客様をもてなした

料理上手な家内のおかげで

私はどれだけ多士済々な

人脈を作ることができたか

計り知れない。

 

一方で、

そこに毎日暮らす家族にとっては

迷惑極まりないことが

多々あっただろうと

反省もしている…。

 

このように当時私が

最悪の状況の中で

家を新築したなどとは、

今日まで家内を除き

誰一人知らない。

 

いや、

都民信組の幹部は

「 よくもまぁ、この状況の中で

  家を建てる。」

と呆れていたに違いない。

父の余命とその願いの事は、

家内と私しか知らないから…。

 

私は28年前に仮住まいで

6ケ月間暮らした場所に

その後、

一切訪ねる事はなかった。

仮に行けば…、

あの当時の会社の事、父の事、

それは苦しかった日々が

甦ってしまう。

 

仮住まいのあの場所は

残念ながら私にとって、

思い出の場所には

ならなかった…。

 

(つづく)

 

追 伸:

本日は、くしくもトキワの

第66回目の設立記念日。

これまでには、

このような出来事も

ありました。