第四章 1990年~1996年 

   (社長業駆け出し時代)

 

(43)社会貢献の目覚め

 

社長就任後、

新規事業として立ち上げた

「イベント企画制作事業」

家業を継ぐために、

心半ばに退職した前職、

芸能プロダクションでの

プロデュース業。

当時私がしていた仕事である。

 

コンサートや学園祭の

「仕込み」と呼ばれる

タレントや音響・照明の手配、

それが自主興行だと

宣伝などの集客活動や

当日の進行まで行う。

 

「昔取った杵柄」。

新事業として、

私がトキワの中でした事は、

「ゴルフ会」や「各種パーティ」の

主催。

あるいはクライアントから請負った

パーティや各種会合、講演会の

仕込みだった。

会場の手配に始まり、

賞品や備品の調達、

タレントや芸人、講師の斡旋、

あるいは当日の進行。

この仕事で求められたことは

「人脈」そのものだった。

 

幸いこれまで多士済々な方と

お付き合いをしてきた私は

色々な場面で協力者に

恵まれた。

特にイベントにおける

成功のカギを握る「会場設定」は

各会場の担当者にも恵まれ

トキワならではの

数々の「恩恵」を受けた。

 

事業である以上、当然営利が目的。

しかし、

私がその途中で目覚めた事は、

営利目的のイベントというよりも

「社会貢献」を目的とする

チャリティイベントの開催だった。

 

そのきっかけは、

私が主宰する「マルチクラブ」

という会が毎年開催していた

クリスマスパーティーの

プログラムの中で、

初めて行った

「チャリティオ-クション」。

それは1991年12月22日

のことだった。

 

父が長年行っていた

ボランテア活動に

あの渋沢栄一氏の姪にあたる

渋沢多歌子さんが創設した

「タカラクラブ」という

ボランテア団体の

「ワン・トゥ-・ワン運動」

という、

ボランティア活動があった。

 

児童養護施設で暮らす

身寄りのない子ども一人を

スポンサーとして受け持ち、

その子どもの誕生日に

プレゼントを贈るなどの

支援活動。

父が受け持つ子が暮らす

養護施設「太陽寮」は、

あの雲仙普賢岳のある土地、

長崎県島原市にあり、

1991年6月2日の

雲仙普賢岳の噴火災害により

非難を余儀なくされた。

 

父からせっつかれた事もあり、

その養護施設のために

何かできないか…と、

1991年に開催した

同クラブのクリスマスパーティーで、

養護施設の救済を目的とした

チャリティオークションを行った。

この時のオークションが

後に私の「生き方」まで

変えることになる。

 

趣旨に賛同して

出品下さった著名人たち。

「窓ぎわのトットちゃん」

の舞台となった「トモエ学園」で

母と同窓生だった黒柳徹子さんや

当時、私の飲み友達で今は亡き

女優の太地喜和子さんらが

平素ご自分が身に付けている物を提供、

又、当日パーティに参加してくれた

大相撲・水戸泉関や

元大関・朝潮の若松親方(当時)、

プロ野球・元阪神タイガースの

長崎慶一氏や千葉ロッテマリーンズの

上川誠二選手らも

貴重なグッズにサインを添えて

出品してくれた。

 

 出品されたオークショングッズ

 

お金では買えない貴重な品を

当日パーティに参加する方々が

競り落とす。

このチャリティを養護施設に

寄付をしたところ、

早速、寮長や子供たちから

感謝の熱い手紙が届き、

その文面は私の心を強く打った。

 

ただでさえ、

人に喜んでいただく事が好きな私は、

これがきっかけで

毎年このクリスマスパーティーの中で

プログラムの一環として

「チャリティオークション」を

恒例とした。

 

2年後には、

その養護施設の寮長が

この日のために遠路長崎からかけつけ、

参加者にお礼のご挨拶を。

 

     当日の模様を報じる「台東区民新聞」

 

貴重な品物を出品してくれる

著名人の出品者と、

それをセリ落とす当日参加の落札者が

「チャリテイ」という社会貢献を目的に

心がひとつになる。

セリ値が高騰していく様子は

ゲーム感覚。

この光景に私はすっかり「虜」となり

以来、会社主催のイベントの大半は

営利目的でなく

チャリティ目的での開催となった。

 

そこへ拍車をかけたのが、

「 自らの主催でゴルフ場を貸し切り

  前夜祭付きのゴルフコンペを

  開催する」

この私の長年の夢が実現、

そこにチャリティをブッキングした。

 

1995年12月5日。

参加者160名、協賛スポンサー36社。

プロ野球がシーズンオフだった事から

15名ものプロ野球選手やコーチが、

更に大相撲界や芸能界からも

多くの方に参加していただき、

盛大に開催することが出来た。

 

39歳。

夢が実現した瞬間だった。

 

そのゴルフ会の中で行った

チャリティイベントの収益金を

その年の1月17日に勃発した

「阪神淡路大震災」の被災地へ

義援金として日本赤十字社を通じて

贈呈した。

これが今も続く

私と「日本赤十字社」との

最初の繋がり、出会いだった。

 

以後、チャリティゴルフ会は

貸し切り規模での

大型イベントの6回を含み、

計22回を開催。

その間には、

やはりチャリティを目的とした

各種パーティも開催。

私は友人知人を始め

多くの協力者のおかげで

31年もの長きに亘り、

「チャリティ活動」を

続けることができた。

 

そのチャリティ活動は、

いつの間にか

「社会貢献」として

私にとっても、

会社にとっても

大きな位置付けとなった。

ゆえに、

今回のこの項だけでは

とても書き切れるものではない。

しかし、

私にとっても、会社にとっても

とても重要な事、

是非書き残しておきたいので

出来る限り要約はするが

長文をお許しいただきたい。

 

その後、私が日本赤十字社最大の

支援団体「日赤紺綬有功会」に、

入会したのは1998年。

以来、事あるごとに

事務局へ言い続けて来た事、

それは、

「 私は他の役員さんや

    会員さんのように、

    個人や会社で多額の寄付は

  出来ませんが、

  私には多くの協力してくれる

  友人知人がいます。

  これまで日赤に

    関心の無かった人たちが

  私の開催する会へ参加した事が

  きっかけで、

  日赤に対して理解を示す人が

  増えました。」

 

協力してくれる友人達も又、

「 改めて社会貢献と思っても

  何をしたら良いか?

  今まで分からなかったけど、

  こうして萩原さんが開催する

  チャリティイベントに参加して

  自分も多少なりとも社会貢献を

  していると実感。

  むしろ感謝していますよ。」

異口同音に言ってくれた。

 

このように多くの友人知人の

協力無くして、

私や会社のチャリティ活動は

成り立たなかった。

本来、

「善意に優劣を付けてはならない」

しかし、特にこれまで

私の開催イベントに

格別な協力をしてくれた友人、

それはどうしても

オークションへの出品や

参加者に喜んでいただけた

という観点から

著名人に偏ってしまう。

ここで改めて感謝の気持ちを込めて

紹介しておきたい。

 

私がチャリティ活動を始めた

1991年から今日まで、

他の仕事やスケジュールが入っても

私が主催する会への参加を最優先、

更に毎回貴重な品を出品してくれた

大相撲元水戸泉の現錦戸親方、

元大関朝潮の当時若松親方。

(その後:高砂親方)

 

2000年から2005年までの6年間。

「萩原杯マリーンズゴルフ」と題した

千葉ロッテマリーンズの優勝を祈願、

コーチや選手を激励する

チャリティゴルフ会を開催した。

ロッテ球団にも働きかけ、

グッズや参加選手の調達をしてくれた

千葉ロッテマリーンズと

オリックスバファローズで監督を務めた

西村徳文氏。

 

   石原慎太郎(当時東京都知事)氏より頂戴した感謝状

千葉ロッテマリーンズのコーチ・選手から頂戴した寄書サイン大ボール

 

又、このゴルフ会のみならず

私が主催するチャリティイベントには

弟子たちに参加を呼びかけ、

更にスポンサーに

「サッポロビール」や「大塚製薬」

といった大手企業を紹介してくれた

極真空手の盧山初雄師範。

 

2009年から2015年まで

毎年計7回。

一般人3人の中に1人、

プロ野球関係者に入ってもらい、

一緒にプレーをするという

参加者にとても好評だったゴルフ会

「萩原杯チャリティゴルフ」

 

その会に毎回欠かさず参加、

貴重な野球グッズを

提供してくれたプロ野球

東京ヤクルトスワローズ(当時)の

宮本慎也氏。

 

名古屋から遠路参加、

参加できない時には、

やはり自身の野球グッズを

毎回提供してくれた

中日ドラゴンズ(当時)の

和田一浩氏。

 

当時、

ゴルフはしていなかったので、

(今はしている・笑)

参加はできなくとも、

毎回出品をしてくれた

阪神タイガースや広島カープに

在籍した新井貴浩氏。

 

ここで是非、

付け加えておきたい逸話が…。

 

宮本慎也氏。

 

ある時彼は、

この会を予定していた後に、

どうしてもその日のうちに大阪に

入らなくてはならない所用ができ、

いつものように自分で車を運転して

参加することが不可能になり、

手弁当でハイヤ-を手配して自宅を出発、

ゴルフ場でハイヤーを終日待たせ、

終了後にはゴルフ場から

新幹線に乗るための東京駅へと

ハイヤーを飛ばし、

参加をしてくれた事があった。

 

手弁当と言えば、

この著名人たちを

この様なイベントに呼ぶためには

当然「ギャラ」なり「お車代」が

本来は必要となる。

 

しかし彼らは、

平素の私とのお付き合い、

そして「チャリティ」という

イベントの趣旨に賛同して、

誰もがそのようなものは不要と

ノーギャラで快く参加してくれた。

 

更に、

イベントには欠かせない

MC(司会者)。

これまで務めてくれたのは、

元NHKの緒方嘉治氏

元日本テレビの山下末則氏

元TBSスポーツキャスターの

高山栄氏

フリーランスの塙野ひろ子さん。

このアナウンサーの方々はみな、

事前打ち合わせに始まり

長時間、拘束をしてしまった。

 

私とは長いお付き合いの

人達ばかりだが、

彼らの素晴らしい人間性のおかげで

私の行うチャリティ活動は、

いつも無事、

成功を収める事ができた。

彼らなくして有り得ない

社会貢献である。

本当に感謝してもしきれない。

 

ここで名前を出せなかった

多くの一般人の方々も

全く同様である。

 

「 チャリティを進化させ、

  いつの時代もコンスタントな

  社会貢献 」

このトキワのCSR

(企業の社会的責任)

を続けるためには…、

 

特定の被災地への

「義援金」寄付ではなく、

継続的な支援をするには

国内外における災害救護を

はじめとして、

苦しむ人を救うために日夜、

幅広い分野で活動をしている

日本赤十字社の活動を

支援する事が

わたしたちにできる

最善のチャリティ、

社会貢献と考えている。

 

このような「日赤活動」だけでも

こんにちまで

多くの方々のおかげで

27年間も続けることができた。

 

当初は会社の新事業として

営利目的で始めたイベント事業。

しかしある時からそれは

チャリティありきの

「社会貢献」としての

イベント開催となり、

それはこんにち、

私のライフワークとして、

会社にとっては

社会的信用にも繋がる

「日赤活動」となった。

 

人生の展開とは、

本当にわからないものである。

 

(つづく)