第三章 1983年~1990年 

        (営業部長時代)

 

 (34)各種開催イベント

 

とにかく「人寄せ」の好きな

トキワだった。

それは後にしっかりと

私も引き継いでいる(笑)

 

このように各種イベントを

開催できるのも

「アイデア」、まめな「事務処理」、

人脈や平素のお付き合いによる

「集客力」、

そして最も大切なことは、

参加者に対して

「気配りあるお世話」が

出来るか否かだと思う。

これはある意味、

性格と共に一種の長けた能力

だと私は思っている。

 

参加者が「楽しかった」と

思っていただけないような会は

けして長続きはしない。

ましてや招待でなく、

会費をいただく会であれば尚更。

次回からは来ていただけない。

 

しかしこの根幹にあるのも又、

主催者の

「人を喜ばすことが好き」

という精神。

 

私の知る限り、

創業者の祖父、2代目の父と叔父。

僭越ながら私もこの精神を

共有していると思っている。

 

前項の「招待会」とは異なる

トキワが開催してきたイベントに

かつて

『将棋大会』、『ボーリング会』

そして『ゴルフ会』があった。

 

まず『将棋大会』

創業者が亡くなった直後の

1969(昭和44)年頃に

始められた会で、

トキワの本社ビル4階で

休日の日曜日に開催された。

 

当時、

社内では昼休みの余暇として、

役員社員が将棋を指していた。

それをきっかけに、

対外的な人にも声を掛け

「大会」へと発展したようだ。

 

この将棋大会は、

私が中学生の時代で、

資料も残されていないので

何度か遊びに行った

私の記憶に頼って綴る。

 

朝に始まり夕方まで、

トーナメント方式で行われた。

途中の昼食は「稲荷寿司」と

「海苔巻き」。

私が店に取りに行った事も

あったので、

はっきりと覚えている。

 

将棋盤を挟んで相対し、

1列10名、計20名くらいの

参加者?

優勝者への賞品は?

残念ながら実質的に

参加をしていない

私の記憶にはない。

 

ただ鮮明に覚えている事がある。

それは、

この将棋大会の会場となった

トキワの本社ビル4階。

ここは畳敷きの大広間で、

平素は祖父の思い入れから

他府県から上京された取引先を

お泊めする部屋で、

そこには何と岩風呂まであった。

 

平素は見ることのない

このスペースに、

将棋大会で初めて訪れる

都内近郊の取引先は皆

とても驚く。

 

それは凝り性の祖父が設計した

自慢の部屋で、

柱に使用した材木は全て

無垢の「桜」材、

日本間特有の床の間や欄間、

なげし、障子が設置され、

部屋の片隅には

自らが1年以上かけて

大木をくり貫いて作った

「火鉢」があり、

冬はそれで暖を取る。

前述の「岩風呂」の石も、

祖父自らが積み上げたものだった。

 

この祖父自慢の部屋で、

祖父没後にイベントを開催。

まるで創業者の祖父を偲ぶ会

のようだった。

 

因みにこの4階のスペースは、

後に時代の変化を考慮して

父が、

社長室と会議室、展示スペース、

女子更衣室へと大改造した。

 

『常盤ボーリング会』

1971(昭和46)年3月の発足で

ボーリング全盛時代から衰退までの

約3年間にわたり

その開催は15回を数えた。

 

平日の就業後、

都内のボーリング場で

2ケ月に1度の開催。

高校生の私も毎回参加させて

もらっていたので

こちらも資料は残されていないが

書き残す事はできる。

 

もはや現代の人には

想像もつかないと思うが、

当時の「ボーリングブーム」は

半端なく、

休日ともなるとボーリング場は、

5時間、6時間待ちは当たり前。

早朝フロントで予約名簿に署名、

一度家へ帰り、

スタート時間を想定して

再びボーリング場へ戻りプレーをする。

マイボールやマイシューズを

持つ人も多く、

テレビではトーナメントが

頻繁に放映されていた。

そこには男子プロ、女子プロの

競い合う姿が見られた。

 

そこですぐブームに乗る

トキワ(笑)

 

参加は会費制。

2ゲームのトータルスコアで争う。

毎回30名を超える参加者で

プレ-後には、

表彰式を兼ねた軽食パーティが

ボーリング場内レストラン個室で

行われた。

 

ボーリングブーム真最中、

当番幹事は、

まず会場をおさえるのに

ひと苦労だったようである。

 

優勝者から3位までに与えられる

大トロフィーは持ち回りで、

年に1度、そのトロフィーの

取り切り戦が新年会を兼ねて

行われる。

その時の新年会は

別会場(料理屋))で行われ、

費用は全てトキワが負担していた

と聞く。

 

多くの取引先に喜んでいただいた

この『常盤ボーリング会』も

ボーリングの衰退と共に自然消滅。

 

私がこれまで知る世の中の出来事で、

ブームと衰退がこれほど短期間に、

しかもその落差の激しい出来事も

なかった。

 

このボーリング大会のみならず、

「ブームに乗り

 何かをすぐに企てる」

この行動に一番敏感だったのは

叔父である専務だった。

父曰く

「専務は遊ぶこと好き

 だからな~(苦笑)」

 

この『常盤ボーリング会』に

毎回参加をしていた

当時高校生の私。

前述のように、

後に家業に入るとは

思ってもいなかったが、

このボーリング大会のおかげで

いざ仕事に携わった時には

既に面識のある方も多く

「後付け」の話ではあるが、

とてもプラスになった。

 

そしてやはりブームに乗って

始められた『トキワゴルフ会』

 

こちらは私の入社後で、

毎回、幹事として携わっていたので、

資料もしっかりと残している。

 

1984(昭和59)年5月に

第1回目が開催された。

この会は、

これまでトキワが開催して来た

会とは異なり、

販売先には一切声を掛けなかった。

 

当時はゴルフブーム真最中。

ゴルフ会はあちらこちらで開催され、

世の中の景況感も手伝い、

平日堂々と参加。

しかも仕事で利害関係のある先が

主催とあれば、

会社の経費で参加。

つまり誰もが参加を望む会合。

 

販売先ともなると、

あちらに声を掛け、

こちらには声を掛けない

と言うわけにはいかないと

父は判断。

参加者を限定した会だった。

 

その限られた参加者は、

主力の仕入先や

取引金融機関の支店長、

業界報道関係者。

更に毎回ゲストとして

父が個人的に応援をしていた

大相撲関係者と落語家さんを

招待。

トキワからは社長、専務、

そして私の3名が参加した

5組20名ほどの会で、

平素の仕事繋がりから

(当時キャディーさん向け

  レインウエアを

 大手取引先経由で

 トキワはかなりの量を

 納入していた )

本来であればスタートの取りずらい

名門コースも

その大手取引先にお願いをして、

予約、開催をした。

 

父は大相撲の当時高砂親方、

(第46代横綱・朝潮)とは

プライベートで海外旅行も

ご一緒するほど仲が良く、

その親方の趣味がゴルフなので、

親方には当初より

ゲストとしてこの会に

参加していただいた。

 

今の人は知らないと思うが

この会の参加者は、

現役時代の横綱・朝潮が

栃錦、若乃花(初代)、大鵬、

柏戸と同じ時代に活躍をしていた

雄姿を知る世代。

その超有名人と同じゴルフコンペに

参加できることそのものが自慢と、

異口同音に言っていた。

もちろん開催ゴルフ場も又、

驚いていた事は言うまでもない。

 

ゆえに父も親方には、

毎回参加していただきたく、

親方が確実に参加できる日程、

それは大相撲が東京で開催される

5月、9月の、しかも千秋楽を終え、

相撲界が休みに入る1週間の中の

水曜日に、このゴルフ会は年間2回

開催した。

 

参加者は毎年新年に、

新しい手帳を手にすると

既に日程の決まったこの会を

まず最初に手帳に書き込む

というように

それは楽しみにしてくれた。

 

又、やはりゲストの落語家さんには

プレ-後の表彰式を兼ねた

パーティーで、面白おかしく

司会進行をしていただき

参加者に喜んでいただいた。

 

この『トキワゴルフ会』は、

7年間にわたり13回開催された。

 

第1回トキワゴルフ会の模様が掲載された

    「ゴム報知新聞」

 

このように「人寄せ」が好きで

得意としていたトキワは、

それが会社の特徴でもあり、

しいては会社の成長に繋がったと

私は確信している。

 

人との出会いや縁を大切に、

人への配慮を心がけ、

人を喜ばすことが好きという

この代々続くトキワ文化は、

このような「人寄せ」が

証明していたのかもしれない。

 

(つづく)