第三章 1983年~1990年 

         1(営業部長時代)

 

         (32)製 品 ③

          (ビバレイニイ)

 

私の入社後に上市された製品の中で、

これほどヒットして

会社の成長に寄与した製品もなかった。

 

 

それは業界でも大きな話題となり、

次々に類似品が発売された。

価格だけなら

既に輸入品が出回っていた時代、

いくらでも安価な商品もあったが、

国内生産のこの商品が

「プライスリーダー」に

なるほどだった。

 

商品とは、

誰にも先駆けて発売すること。

(アイデア)、

そしてブランド力が重要だという事を

(ネーミングの認知)

この商品が教えてくれた。

この商品は、これまで業界が

長年課題とされて来た事が

克服された商品でもあった。

 

前述の「東京ディズニーランド事件」

に見られたように、

これまでの業界最大の課題は

レインウエアの裏面から縫い目に施す

防水目止めテープの剥がれによる

漏水問題。

当時、原反メーカー各社が

(東洋ゴム、アキレス、オカモトら)

この問題の解決に研究を重ね

改良を試みたが、

この問題は原反メーカーだけでなく

目止めをする機械、

更にそれを施す工員の技術も

絡んで来ることから

長年続いた業界最大の課題だった。

 

※ アキレスに関しては当時の社名は

    興国化学工業(株)であるが

    ここでは全てアキレスと称する。

 

このビバレイニイは、

その防水目止めテープを

完璧にシールするために

現在では当たり前の

生地裏面の防水樹脂の主原料を

これまでのようなゴムや

ポリウレタンの樹脂ではなく

PVC(ポリ塩化ビニル)に変え、

それにすることによって、

テープ(ビニル製)シールを高周波ミシン

(ウエルダー)

で電気溶着することを可能にした。

(注:ウエルダー加工の基本は、

 素材がビニルとビニルなら

 溶着可能)

 

この原反と機械、

2つ1セットでこれまでと異なる

製造方法をしたのが

このビバレイニイで、

以後、

目止めテープの剥がれは皆無だった。

当時我々営業マンは販売先に、

「絶対に雨が洩らないレインウエア」

とまで言って、

セールスアプローチをした。

 

取引先はこの安心感から

それまで取り扱っていた

他のレインウエアを次々に

この商品に切り替え、

ビバレイニイはたちまち

爆発的なヒット商品となった。

 

特にそのターゲットは、

当時建築ラッシュの始まりで、

その建築現場で働く労働者や

バイク利用者。

つまり雨天であっても

活動しなくてはならない人たち。

彼らにとっては、

デザインよりも漏水問題の方が

重要で、ビバレイニイは

デザインこそシンプル

いや、この製造方法からは

(専門的になるので割愛する)

シンプルなデザインしか出来ないものの

素材と目止め方法が生んだ

「絶対に雨の洩らないレインウエア」

として、消費者のニーズに

大きくマッチしていた。

 

特に作業用の商材を扱う作業用品店、

いわゆる「ワークショップ」では

かなりの量が販売された。

ビバレイニイは

我々営業マンにとっても

新規開拓をする上で、

格好の商材だった。

 

ところで、

これまでレインウエアの原反を

生産するメーカーは、

生地の片面に施す合成樹脂の

主原料がゴムだったことから、

いわゆるそのメーカーは、

「ゴム屋さん」。

タイヤがメイン事業の東洋ゴム、

スキンを扱うオカモト、

ゴム靴を扱うアキレスらが

その主たるゴムメーカー。

 

しかし前述のように、

この画期的な目止め方法をするには

その合成樹脂の主原料は

ゴムでなくPVC(ポリ塩化ビニル)、

通称ビニールでなくてはならない。

 

ゴムメーカーの中でも

多角経営のアキレスは、

ビニール製品も取り扱っていたことから

これまで東洋ゴムが

メインの仕入先だったトキワに、

盛んに売り込みをかけて来た。

 

当時その営業を仕掛けて来たのが

アキレスの関谷課長で、

関谷課長は自社のビニール引布の

原反を売り込むために、

その製品の縫製をする工場まで探し、

トキワに提案をして来た。

この画期的な目止め方法を

これまでのレインウエア工場で

行うには、

機械の設備投資と技術者の養成が必要。

関谷課長はそこまで見据えた

トキワへの見事なアプローチだった。

 

その話しに乗った父は、

早速、

当時のアキレスの担当者

木寺係長と工場のある大阪の岸和田へ

飛んだ。

後に取引が始まり、

数年後、その工場の社長曰く

 

「 あの時、トキワさんの社長の

  紳士的な言動は、

  あちらこちらから

  仕事の話しが来ていた中で、

  最終的に選択する

  決め手となりました。」

 

このビバレイニイのネーミングは

アキレスが持つ多くの商標の中から

父が選択したものだった。

 

表に使用するナイロンは「東レ」。

1978(昭和53)年7月、

「東レナイロン ビバレイニイ」

の誕生である。

 

    (当時、化粧箱やポスターに使用された写真)

 

ところが、このスタート時の

生産に関わる取引ルートは、

1年も経たずして変わることになる。

 

アキレスは、

「 原反をうちから買って

  いただければ、

  岸和田(大阪)のカワウラ工場とは、

  どうぞ直接取引ください。

  ビバレイニイの商標の使用料も

  無償で結構です。」

 

大手ならではの

これ以上ない好条件を

提示してくれた。

 

トキワはこのビバレイニイで

勝負に出る。

父はアキレスにテレビコマーシャル

の段取りまで依頼した。

アキレスは社会現象にまでなった

スポ根TVアニメの草分け

「巨人の星」のスポンサー。

(当時の社名は興国化学工業)

父はアキレスの広報部に

CMの調査を依頼した。

 

このCM放映に関しては、

あまりに高額だったことから

父は諦めた…。

専務と私は、

「 ちょっと乗り過ぎでは…(苦笑)」

と、乗りに乗った父を

少々引いた目で見ていた(笑)

 

父はこの業界の長年の課題、

テープ剥がれによる漏水問題には

これまで何度も頭を痛めて来た

と思う。

そこへこの新式シール方の出現に、

当時既に財務関係以外は、

ほぼ全て我々に任せていた父が

再び営業に目を向けたほど、

画期的な出来事だったと

私は想定する。

 

このビバレイニイも又、

まずターゲットを決めてから

商品企画をして、

そのターゲットの市場に販売する

というターゲットありきの

セオリーに沿った。

 

ターゲットが定まれば、

そのターゲットの事だけを

考えれば良い。

このビバレイニイのターゲットに、

あまりファッション性を

求める必要はなかった。

何よりも

「 絶対に雨が洩らないレインウエア 」

この機能こそ、

ビバレイニイがヒットした

最大の要因だった。

 

前述を時系列に語ると

読者が理解に苦しむと思い、

敢えて触れなかったが…。

このビバレイニイの発売は

1978年。

例の「東京デズニ-ランド事件」は

1983年。

つまりあの時既に確立されていた

この素材と製造方法による製品を

提案しておけば…と、考えがち。

そこで少々専門的な説明をする。

この素材と製造方法は構造上、

ファッション性を求めるには

無理がある。

と言うのも、

デザインを決定づけるカッティングは

目止め方法の都合上、

基本的に直線が主体となってしまう。

TDLという世界的テーマパークの

オープンに相応しいレインウエアには

ファッション性が求められた。

 

これまで3点ほど紹介してきた

当時のヒット商品は、

いづれもターゲットをしっかりと

把握した商品企画から

誕生している。

そしてもう一つ。

このビバレイニイから学んだ

大切なことを付け加えておきたい。

 

こんにち「トキワスタイル」という

トキワが社内外に宣言する

会社方針の中で掲げる

「共存共栄」

 

このビバレイニイの生産を始めてから

数年後。

生産工場の カワウラの社長は

工場の隣接に

土地付きの建物を購入して、

新たな自宅を構えた。

 

川浦社長は、

「 アキレスさんのおかげ、

  トキワさんのおかげ、

  『ビバレイニイ御殿』です 」

と、笑いながら私に言っていたが、

前述のように、

自社の原反を販売することに的を絞り、

あとは「利他の精神」に則って、

諸々の権利をトキワに譲ってくれた

アキレス。

 

「利は元にあり」

このビバレイニイを生産した事によって

繁栄したカワウラ。

 

そして、この製品の販売で成長した

トキワ。

 

こんにち、自分たちの事ばかり考え、

仕事のパートナーを泣かす会社も

多々見受けるが、

このように利害ある取引関係全ての人が

一本のパイプでつながり

そして共に栄える。

「商取引」にとって、

最も大切な事ではないだろうか。

 

又同様に、人間関係も…。

 

(つづく)