第二章 1980年~1985年 

  (結婚から30歳まで)

 

(19)創業50周年記念事業 

       (記念祝賀会の開催)

 

記念誌の編集と時を合わせて

準備が進められた

「創業50周年記念祝賀会」

その実行委員会には、

役員1名と社員3名の計4名が

その任務に就いたのだが、

このようなイベントに

携わった経験のない

私から見たら先輩後輩の

彼らにとっては、

特に構想や企画もなく

これまで何度も

この類のイベントを手掛けて来た

私の意見がほとんど通ってしまう

委員会だった。

今思うに、いくら経験者とはいえ、

先輩に対しては

若輩者が生意気だったと

反省している…。

 

この祝賀会も予算ありきで、

その予算は300万円。

招待客は150名ということで、

経験上、ブッフェスタイルという

ことなので、こちらは余裕があると

目論んでいた…。

 

会場は、「上野・精養軒」。

父が所属するライオンズクラブの

定例会場なので、無理が効くと、

父からその担当者を紹介された。

 

当日の引出物は、

この類にこだわりの強い父が

品物を選ぶことになった。

こちらは平素、父がご贔屓にしている

上野・松坂屋の外商担当者に依頼。

ちなみに、この記念の引出物は

「卓上三段引き出し」で、

その壁面に

「創業50周年記念

     常盤雨衣株式会社」

の金文字入り。

 

招待客の荷物にはなるし…、

物自体も…。

正直、私の中では賛成できなかった。

ところが事後、

私が取引先を訪問した際、

皆さん机の上で便利に使っている

様子を見て、納得した。

 

さて、肝心のプログラム構成。

第一部は式典、そして第二部は祝宴。

特に第二部は招待客に

楽しんでいただくことを第一に、

プログラムを構成しようと

意見が一致した。

 

トキワは社長も専務も大の歌好き(笑)

当時はカラオケブームのはしりで、

こだわりの強い父は、

カラオケでは面白くないから

生バンドを入れて

「のど自慢大会」と名売って

何人かのお客様に歌ってもらおう

と発案。

さらにディナ-ショーよろしく、

ムードコーラスのバンドを入れよう!

遊ばせてくれる芸人も入れよう!

 

実行委員会に任せたはずの父は

もう、こうなると止まらない。

結局最終的に、

予算が足りなくなってしまい(笑)

本来、第一部の式典で

司会を予定していた父の友人、

フジテレビの局アナで、

 私の結婚披露宴の司会も

務めていただいた

露木 茂アナウンサーにお願いする

予算が無くなり、

実行委員長の課長(私)が

やったらいいと

父は言い出すしまつ。

 

こんな時ばかりの実行委員長

である(苦笑)

 

社長(父)も専務(叔父)も

本当にマイペースな人たちだったが、

二人とも

創業者の血を受け継いでいたのは、

「サービス精神がとても旺盛」

ということだった。

 

これが今日まで、

トキワが92年間お客様に支えられ

商売が継続出来た所以のような

気がする。

ただ、祖父も父もそして叔父も

共通していたことは、

人様に極限のサービスをしようと、

社員はもちろん、女房や子供

をいいように使った。

それを、当時は反面教師と

思っていた私も

後にそれをしっかりと受け継いで

しまった(苦笑)

困ったものである。

 

話しは戻る。

そんなことから第一部の

記念式典の司会は、

私がやるはめになってしまった。

 

「会の成功は司会者次第」

これまでの経験上、

人一倍この事を認識している私は、

「記念誌」編集の何十倍もの

プレッシャーがかかった。

 

しかし終わってみれば、

この大役を務めたことは

私にとって大きな転機と

なったのだから

父の指名は又、

「結果オーライ」だった(笑)

 

だが、この司会という大役を

無事終える事ができた陰には

私が生涯、尊敬して止まない

私たち夫婦の仲人さん

「金井 宏(ヒロム)先生ご夫妻」の

存在なくしてあり得なかった。

 

この金井 宏先生について、

少し触れてみたい。

金井 宏先生は上野・池之端

「金井整形外科」の二代目院長で、

全国の著名な「整形外科」や

「接骨院」の後継者達の多くが、

この病院で修行をして

故郷へ戻り、後を継ぐ。

 

今でも、「金井会」という

かつて金井整形外科で学んだ

先生たちで構成されるOBの会が

全国規模で存在する。

そもそも父とは、

地元ライオンズクラブのお仲間で、

私が十代の頃から

大変かわいがって下さり、

私は先生の持つハイソサエティの

立ち振舞い、言動にぞっこんだった。

まだ結婚相手もいない時分から

「私の仲人さんは金井先生ご夫妻」

と勝手に決めていたほど(笑)

 

先生のお父様である先代院長が

御贔屓にしていたことから

「お相撲さんとSKD(松竹歌劇団)の

ダンサーからは治療費をいただかない」

を継承。

子供の頃から大相撲が好きだった私は、

先生とお知り合いになる以前から

力士(大鵬やその後の千代の富士ら)

が怪我をすると、

金井整形外科に治療に行ったという

各メディアのニュースから

既にその存在は知っていたので、

まさか後にこの病院の院長と

お知り合いになれるなどとは

夢にも思わなかった。

 

実は偶然にもこの金井整形外科の

「創業50周年記念祝賀会」が

トキワが開催する会の1ケ月前に

当時の永田町・東京ヒルトンホテルで

約1,000人の招待客を集めて

盛大に開催された。

 

本来、私と家内などは

招待されるような身分ではないが、

その1年前に仲人をしていただいた

ということもあり?

ありがたいことに両親共々

招待を受けた。

 

当日、その一大イベントの司会は、

当時のNHK大相撲実況中継の

アナウンサー、北出清五郎氏だった。

私はその1ケ月後に同じ50周年記念の

会の司会をすることから、

あの名司会者、北出アナの進行や

キャストの紹介の仕方、言葉遣いなどを

持参したノートに克明に書き留めた。

 

そしてそれを

トキワの会で活かそうと…。

というよりも、

今の時代の言葉で言えば「パクリ」。

北出アナのマネをして、

当日の任務に当たった。

 

「会の成功は司会者次第」

と言われる所以は、

司会者とは、ただプログラムの

進行や紹介をするのではなく、

いわゆる「おかず」をどのように

入れられるかが重要で、

その入れ方次第で、

(入れ過ぎはご法度)

会が盛り上がり

参加者たちを取り込むことが出来る。

 

同じ50周年の会という事もあり、

この日、北出アナが使った

数々の「おかず」を

私は書き留めて引用した。

 

例えば、

金井整形外科もトキワと同じ

東京都台東区にあったことから

共通の来賓としていらしていた

当時の内山榮一台東区長。

その区長に祝辞をいただく際の

紹介の仕方は全文「パクリ」。

 

今でこそ当たり前に見る光景

上野浅草界隈を走る二階建てバスは、

当時のこの区長の発案だっだ。

そのユニークなエピソードを

紹介の時に詳しく添える。

何の繋がりも想定出来ない

1ケ月違いの祝賀会で、

全く同じ紹介のされ方をした

内山区長が一番驚いたのでは

ないだろうか(笑)

 

又、私自身にサプライズで、

私が学生時代に海外留学をした時の

ホストファミリーが祝電を送ってくれた。

 

それを会場担当者からいきなり渡され、

思わず原文のまま(英語)披露。

 

 

祝賀会閉会後、

貸し切りで行われた

二次会場のスナックでは、

カラオケは他所に

本来裏方であるべき

司会者の話題で

持ち切りになってしまった…。

 

正直、私からすると、

あれだけのプレッシャーの中で

とにかくこの任務を、

ただただ無事に終えたい

という必死の思いの

結末に過ぎなかった。

 

この創業50周年記念祝賀会

の招待客は、

多士済々な来賓や仕入れ先、

得意先、同業者、

取引金融機関の重鎮らで

中には私を散々いじめた(笑)

取引先もいただけに、

私にとっては、

会社の内外問わず、

私の存在感が確立された場となり、

その後、

この業界で仕事を全うする上で

大きな礎になった。

 

思えば I 部長との戦いといい、

初めて持った3人の部下、

記念誌の編集、

そしてこの記念祝賀会の司会。

私の24歳から25歳にかけて

経験したこれらの出来事は、

社会人経験の浅い私にとっては

大きな難題ばかりだったが、

それらと真摯にひとつひとつ

対応出来たことは、

その後、仕事をする上で、

大きな自信になり

今振り返っても、

我がトキワ人生で

最初の飛躍?

となったような気がする。

 

しかもそれらは全て

自ら手を上げて臨んだことは

何ひとつ無い。、

 

れば、たら」ではないが、

仮に、I 部長が退職していなければ

仮に、記念誌が予算内で業者任せで

編集されていたら

仮に、予算内で露木茂アナウンサーに

祝賀会の司会をお願いしていたら

…。

 

私の成長や世間の私への

このような評価は無かったわけで、

これも

「与えられた仕事を黙って

 文句も言わずにこなした結果の

 大きな副産物」

と思う。

 

しかしこれもきっと、

偶然ではなく、

必然的な結果だったと

今は感じてやまない。

 

(つづく)