第二章 1980年~1985年 

   (結婚から30歳まで)

 

(18)創業50周年記念事業 

         (記念誌の発行 )

 

創業50周年記念事業の

2つを任された私は、

父が言う委員会編成の

指示を待ったが、

一向に何も言い出さないので、

私の方から訊ねると…。

「 式典の方は

    委員会を編成する

  必要があるが、

    記念誌の方はいいだろう。

    重睦(私)の思うように

    やってみろ。

  但し、途中報告は

    その都度して欲しい。」

 

私はやりがいを感じながらも

不安感にも苛まれて来た…。

記念式典の方は、

かつて芸能事務所に在職、

企画制作事業部に所属して

パ-ティ-などイベントは

「昔取った杵柄」

 

だが、今回の記念誌以前に、

冊子の編集や発行というものには、

これまで関わった経験が

全くなかった。

 

取り敢えず、

平素トキワに出入りしている

印刷会社へ出向き、

今回のことを相談してみた。

 

印刷会社の社長曰く

「 このような冊子は、

  まずデザイン会社に

  プランを伝えて構成、

  版下まで作成してもらい、

  それを我々印刷会社に

  持ち込むという手順です。

  ただデザイン会社は

  価格もデザインも ピンキリ、

  選択だけは間違いないように

  した方がよいですよ。」

  

そんなアドバイスを参考に、

活動を始めようとしたある日、

偶然にも見知らぬデザイン会社

からのDMが入り、

私はそれを頼りに、

連絡をしてみた。

当時のトキワには、

出入りのデザイナーはおらず、

このような飛び込みの連絡に

頼ったのだが、

すぐ翌日、その会社の営業マンが

来てくれた。

 

私は今回のビジョンを

一通り説明をした。

 

彼は予算を聞く前に…、

「 取り敢えず私の方で

    ラフデザインを起こし、

    そのラフデザインを基に

    お見積りさせていただくという

    ことでいかがですか?

    ラフデザインの費用は

    サービスさせていただきます。」

 

私は予算のことには触れず、

予定している冊数だけを話し、

早速ラフデザインを

起こしてもらうことにした。

 

それから1週間ほど経過した

ある日。

その営業マンは

ラフデザインを抱えて

見積書と共に来社した。

流石に専門家!

それはこちらの意を汲んだ

私も納得できる内容だった。

 

ただ…、

その見積り金額は90万円。

 

私は取り敢えず、

ラフデザインと見積書を預かり

後日、連絡させていただく旨を

伝えた。

 

早速社長に、

今回のデザイン会社との

繋がり経緯や

ラフデザインを無料で

作成してくれたことを、

デザインを見せながら

報告した。

更に私は、

とても気に入ったので、

是非この会社に

お願いしたいということも。

 

すると…。

「 予算、言ってあるだろ。

  その予算内で作る事が前提。

  何事もまず予算計上をして、

  その範囲内ですることが基本。

  任された人間は、

  その中で最高の結果を

  残すことが仕事だよ。」

 

50万円の予算に対して、

見積積り金額は90万円。

あまりに開きがあるので、

もはや交渉のレベルではない。

 

今更恥ずかしくて

そのデザイン会社に

予算を言うことも出来ない…。

どうしたら良いものか。

 

しかし私は思い切って、

その業者と連絡を取り、

実は、予算は50万円だと

いうことを告げた。

 

すると彼は…、

とても50万円では出来ない。

別の業者にお願いしてください

と、半ば呆れた返答だった。

しかも渡したラフデザインを

これから引取りに来るという。

 

私はあまりに自信たっぷりに

言い切る彼に、

そもそも今回の記念誌の

予算そのものの妥当性に

大きな疑問を抱いた。

 

しかし父は予算ありきと…。

いったいどうしたら

良いものか。

 

私は親が製本会社を経営する

高校時代の友人に、

相談の連絡を入れてみた。

 

すると彼は

従兄に印刷屋がいて

ちょっとしたデザインなら

その従兄は自分でするから

相談してみたらと、

従兄を紹介してくれた。

 

そしてその従兄に、

早速会社に来ていただき

今回の全容を話すと…。

 

彼はデザインを見ていないので

何とも言えないとしながらも、

けしてそのデザイン会社の

見積は破格ではないという事、

それよりも記念誌の企画構成、

写真撮影もあるだろうし、

印刷費を含め、

50万円で300冊の

記念誌を作ること自体に

無理があると(苦笑)

又、300冊では、

かえって高いものにつく

とも教えてくれた。

 

更に彼は、

50万円で仕上げる方策まで

一緒に考えてくれた。

 

それは、

まず私が全体の構想を立上げ、

そのために必要な原稿や

資料を集めて、

全て文面化して彼に渡す。

必要な写真があった場合には

「ポジ」で用意。

 

一方彼は、

その資料を整理して構成、

写植を打って版下を作成、

紙に刷ったものを、

私の友人の製本会社で

まとめるということだった。

更にその紙は、

事前確認はしてもらうが

彼の会社の手持ちの紙を使用、

指定されると困ると言う。

 

つまり、

大半は私が準備段取りをする

ということである。

私はえらい仕事を

任されてしまったと

思わず天を仰いだ…。

 

このことを、

筋道立てて説明しても

その労力を理解したり

フォローしてくれる

父でないことは、

誰よりも私が

一番良く知っている(苦笑)

 

もうやるしかない。

 

まさか仕事中に

するわけにもいかず、

それからの約3ケ月間、

土日祝日の休みはほとんど

(当時土曜日は隔週休み)

この記念誌発行に関わる

時間に充てられ、

新婚時代の家内は、 

自分が育った

サラリーマン家庭の

休日の過ごし方とは、

あまりに違うことに

驚いていた。

 

ただ今思うに…、

「男は愚痴と言い訳は

 絶対に言わない!」

幼少時代から

何度も母親に言われた

その躾のお陰で、

やらなければならない

となると、

その切り替えは

人一倍早い私だった。

 

そして全てが終わった時、

私はこの仕事を任されて

本当に良かったと

心から思えた。

 

それは、今回の記念誌に

寄稿をお願いした

取引先を代表した社長2名、

仕入先の役員2名、

又、金融機関の理事長や

創業者である

祖父の親友の人たちへ

菓子折りを持参して

訪問したことは、

平素私が会話など

とても出来ないような方々と

今回のことがきっかけで

話が出来たこと。

 

しかも、

一部上場の興国化学工業

(現アキレス)

の役員室に若干24歳の若造が

入室させていただく機会など

本来は、まずありえない。

 

もちろんこれも

私が社長の息子という立場

の一得だとは思う。

 

私は自分が得た経験も

さることながら、

これを快く

お引き受けて下さり、

自室にまで

招き入れて下さった人たちの、

現在の

「トキワに対する評価」

だと、誇りに思えた。

 

又、「会社の50年史」や

「創業者のプロフィール」を

まとめたことから、

私がこれまで全く知らなかった

自分が生まれる以前の

トキワの出来事や商品、

更にそこに関わった方々の

人物像までが、

詳細に把握することが出来た。

 

これは後に内外問わず

会社のこれまでの歴史や

出来事を語ることが出来るという

私にとって、

とても大きな財産になった。

 

現在、創業92年のトキワだが、

これまでの会社の歴史を

一番良く知っているのは

外ならぬこの私に違いない

(笑)

全く妥当性も正当性も

根拠すらない予算を

与えられたことから始まった

この仕事だが、

私が得た財産は

とてつもなく大きく、

貴重なものとして、

現在の私の中に

しっかりと残っている。

 

物事の「起承転結」とは、

本当に面白いものだ。

 

ここでも真意はともかく、

父に感謝である。

いつも父の命令は

「結果オーライ」(笑)

 

「与えられた仕事に文句を言わず

 まずは黙って取り組む」

とても大切なことだと、

私はこの出来事から学んだ。

 

物事の行く末は、

「何が起こるか

 全く分からない」

だから決め付けずに、

まずは取り組む。

そして終えた時に、

それが全て自分の肥やしとなり、

自信に繋がり、

しいては財産に残ることもある。

 

今回、終わってみれば、

私は入社して初めて、

出来栄えはともかく(笑)

「創業50周年記念誌」という

「会社の顔」として後世に残る

とても大切な仕事を任され、

それに携われたことに、

満足感で一杯だった。

 

41年前、

私が24歳から25歳に

かけて約3ケ月間、

素人の若造が休みを返上して

編集した16ペ-ジの思い出。

 

「創業50周年記念誌」

 

その一部を、

どうぞご覧あそばせ…。

 

 

 

 

 

 

(つづく)