第二章 1980年~1985年 

  (結婚から30歳まで)

 

16年間に亘り「社長の独り言」

と題し、

仕事を離れた私のプライベートを

このブログに綴ってきたが、

本年2021年9月1日、

私の社長就任記念日から

今度はこのトキワでの40数年間に、

私が経験した出来事や

仕事を通じて出会った人との

エピソードを後世に残したく

「私のトキワ人生」と題して

綴ってみたい。

 

第一章では、

父が社長をする会社で

アルバイトとして働いた時代から

正式入社。

そしてその後の駆け出し時代を

綴ってきた。

 

第二章では結婚から三十歳までを一括、

とにかく営業活動をがむしゃらにした

時代を綴ってみたいと思う。

 

    (12) 結 婚

      (披露宴)

 

仕事に関する出来事を綴るこのブログに、

「結婚」というプライベートをなぜ?

そう思われる方も多いとは思う。

しかし、当時私の結婚には、

仕事の関係者が関わる

エピソードが多々あり、

それは今振り返っても

中々経験できない事なので

敢えて私はこのブログに

書き残しておきたいと思った。

 

私の結婚は1980年4月。

 

結婚が決まってからは、

全て父のペースだった。

特にその披露宴は…。

 

私が担当している

顧客の社長はもちろん、

会社のビッグバイヤー、

取引金融機関のトップ、

有力仕入先らがメインゲスト。

 

販売先では、

盛岡、福井、岐阜、名古屋から

遠路ご足労いただき、

仕入先では、

なんと四国の徳島県からも

来ていただいた。

さぞかし迷惑だった事と思う。

 

そこに当時、

父が所属していた

「ライオンズクラブ」の

メンバーも加わり、

会場となった東京ヒルトンホテル

(現在のザ・キャピトルホテル東急)

には200名を超える招待客、

ところが新郎・私の友人は、

父から

「10人に絞って」

 

披露宴では永遠と続く

社会的地位のある方々のスピーチは

全て父の関係で、

中には新郎の私が

この日初めてお目にかかった方も

(苦笑)

 

披露宴は予定時間を大幅に延長、

会場の担当者から

「この後の披露宴が…。」

ついに最後に予定されていた

私の友人代表スピーチはカット。

この友人には、

40年以上経過した今でも

当時の事を言われる(苦笑)

本当に失礼極まりない事を

してしまったと思う。

 

つまり後継ぎの結婚披露宴は

いわば「お披露目」で、

本人たちへのお祝いは二の次(笑)

ただ、このような結婚披露宴は

当時我が家だけではなかった。

商売を営む家は、

全てにおいて「商売ありき」

後継ぎの結婚披露宴は、

会社の隆盛をアピールする場。

 

今となってみれば、

父の気持ちも理解できるが、

当時は全く理解できなかった。

披露宴の費用は、

全て父が負担する代わり、

当日、列席してくれた友人たちの

お祝いはもちろん、

やむなく招待できなかった友人から

後日いただいたお祝いでさえ

全て父へ。

 

そんな披露宴にもかかわらず

家内側といえば、

披露宴でのキャスト、進行等々

全ての面で黙ってこちらに従い、

当時の慣習、

花嫁側の招待客の人数分と

花嫁関連の費用を負担、

そこまでは分かるが、

その他の全諸経費の4割負担。

家内は普通のサラリーマンの家庭、

さぞかし理解に苦しみ、

大変だった事と思う…。

 

それから34年が経過した7年前。

現在「専務取締役」として、

弊社の経営の一端を担う

長男の結婚披露宴では、

今度は私がその父親の立場に。

 

私としては、

自分が経験して

快く思えなかった事は、

繰り返さないつもりだったが、

新郎新婦の考えや想いだけでは

進められないのが、

家業に携わる子供の披露宴。

見る人によっては、

「歴史は繰り返す」

だったかもしれない(笑)

 

ただ私は息子に、

友達は沢山呼びなさいと進言、

息子は30人を超える友人を招待。

(これでも抑えたそうだが)

 

その父である私の関係は、

私がどんなに親しくても、

基本的に息子と繋がりのない人には、

声を掛けないというスタンスで

線引きをした。

 

そして仕事関係は、

商売の利害は別にして親密度重視。

結果10名にだけ、

お声を掛けさせていただいた。

 

これは現在私どもが、

当時の取引先とは

全く異なる形態の取引先で、

会社の上層部とは、

お目にかかった事もなく

窓口である担当者も、

わずか数年で担当から離れてしまう

という取引先が多い。

そんな要因が、

この仕事関係の招待客の人数に

現れている。

 

ただ仕事関係の中には、

もう3世代60年を超える

お取引を頂戴し、

現在も家族ぐるみのお付き合いを

させていただいている

K 社の社長には唯一、

遠路名古屋から

ご足労いただいた。

 

私からすると、

当時の苦い経験から

披露宴のスタイルには

相当気を使ったつもりだったが、

家業に携わる子供の結婚披露宴

という事は別にしても、

これまで色々な方々の支えで今日があり、

まして当時既に4世代90年近く

同じ土地に住まいを構えていた萩原家。

当然色々な、しがらみもある。

 

それでも嫁さん側には、

この披露宴のスタイルは

理解できない事も

多々あったかと思う。

しかし、

それは置かれている

立場の違いで、

致し方ないとは思う。

 

話しを戻そう。

私達の結婚披露宴は、

このように全てが「商売ありき」

ではあったが、

後日、

逆に「商売あればこそ!」と、

家内も感謝感激したほど、

仕事がらみのエピソードがあった。

 

人物像と共に2話ほど

綴ってみたい。

 

(つづく)