第一章 1977年~1980年 

(アルバイトから結婚まで)

 

(7)駆出しの正社員時代

    (北陸出張)

 

東北出張を行き始めてから

1年が経過した1979年

(昭和54年)2月。

 

今度はそれまで担当していた

E 課長に代わり、

北陸地区の担当という辞令が下りた。

 

これは事前に父である社長から

個人的に聞かされていたことだが、

はもう10年も担当しているが

 自分で開拓した取引先は1社もない。

北陸は「雨処(あめどこ)」で、

「弁当忘れても傘忘れるな」という

 ことわざがあるくらい雨の多い土地。

 地元には大手同業3社がいる激戦区。

  やりがいがあるぞ!」

 

「やりがい」とは私が思うことで、

相変わらずの父である(苦笑)

 

しかし既に東北地区でそれなりの

実績を残していた私に

ためらいは全くなかった。

3泊4日の引継ぎ出張に

E 課長出掛けた。

ちなみに北陸とは「福井県」、

「石川県」、「富山県」の

三県、そして最後に

直江津(新潟県)にも立ち寄り、

帰京するコース。

 

その出張は毎月で、

 弊社が100%出資している

縫製工場が当時石川県の野々市にあり、

そこにも立ち寄り、

生産計画の打ち合わせも兼ねていた。

 

総論的にはなるが、

この北陸出張は、

私の業界知識や商品知識を高め、

また営業マンとして、

幾つもの難問を経験して成長。

更に仕事を離れ、

こんにちでもお付き合いの続いている

素晴らしい方々との出会いや

趣味の料理についても

多くを学んだ個人的に

大好きな土地だった。

 

ちなみにその昔、

父も担当していた時代があり、

私は中学1年生の夏休みに

その出張にくっついて行ったことが

あった。

 

縫製工場に毎月行ったことは、

商品知識を高める

最高の機会となった。

 

生産シフトが海外へ移行してしまった

現在とは異なり、

付属品や原反の手配、型入れ、裁断、縫製

更に下職との段取り等に立ち会えたことで

生産に関する事はもちろん

取引先との会話の中で使われる

商品の専門用語がしっかりと頭に入った。

 

23歳の営業マンが縫製のことまで

説明できたことは、

取引先の大きな信用にも繋がった。

  

同時に、

毎月縫製工さん達と接することで、

コミュニケーションが図られ、

時に私が無理を承知で

お願いした納期や

別注、サンプルの作成でも

工員さんたちは頑張ってくれた。

縫製工さんはいわば職人。

職人気質は、

「理屈より心意気」。

 

現在でも社員が

その類の人と仕事のやり取りを

する場合には、

そのように助言している。

 

この北陸出張には、

仕事以外にもそれは沢山の

エピソードがあるので、

いずれ又、

綴ってみたいと思っている。

 

まずはその概要から。

 

この出張は、私が引き継いだ時には

9社の取引先があり、

それを4日間かけて回っていた。

まずそのことに、私は驚いた。

 

E  課長は人柄の良いのんびりとした方で、

失礼ながら、毎月出張に行くことが目的

となってしまって、

売上を伸ばそうとする前向きな姿勢は

残念ながら私には感じられなかった。

 

色々な意味で、

それまでの時代は

それで良かったのだろうが、

当時は既に不景気の風が吹き始め、

後年、父から聞いた話しだが

父としては会社全体に、

もっと厳しさや緊張感を与えないと

この難局は乗り切れないと

思っていたそうだ。

 

そこで何でも夢中になる(笑)息子を

入社させ、

社内に刺激を与え

会社を活気づかせようと企てたという。

 

それまで担当していた諸先輩から

私へ急速にシフトしたことは

それが狙いだったそうだ。

 

当時の私はそんな事とは知らず、

ただただその指示に従っていた。

 

しかしその戦略は理由はどうあれ、

これまで長年会社を支えてきた

先輩たちからすると、

面白いわけがなく

その矛先は私に向けられた。

 

一方で、

「会社は存続が何よりも大切」

 

本年、創業91年を数える弊社も

この最大の目的に沿うべく、

一時代を担った社員であっても

貢献度とマイナス面を天秤にかけ、

次の時代を見据えて、

人事異動をしなければならない

こともある。

これは同族会社の嵯峨でもある…。

 

話しは戻る。

この北陸出張は、

東京駅7時38分発の東海道新幹線で

米原を経由して、まず福井県へ。

福井で2社。

そしてその日のうちに金沢(石川県)

まで入る。

翌日金沢で午前中2社、午後1社を

終えてから工場に入る。

工場での打ち合わせが終わり次第、

金沢の駅まで車で送ってもらい

高岡(富山県)に入る。

 

私は基本的に効率を考えて、

翌日仕事をする土地へ前日の夜に

どんなに遅くても入るように

心がけていた。

 

高岡では、午前中1社、午後1社。

丸1日かけて、わずか2社。

この理由は後日述べることにする。

そして高岡を終えると。

バスで富山市内に入り宿泊。

翌朝、富山市内で1社終えると、

列車で直江津へ向かう。

最後の直江津を終え、

18時の列車で直江津から上野へ

22時過ぎに着くコースだった。

 

当時の出張第一目的は「集金」。

現代とは異なり、

取引先も集金に来ることが当然と、

送金などしてくれない。

 

しかも問屋さんの支払いは

ほとんどが手形。

手形とは恐ろしいもので、

小切手とは異なり、仮に紛失したら

銀行で止めることも出来ない。

出張最終日ともなると

それまで集金した手形の総額は

かなりの金額になり、

所持しているだけでも不安なところに、

当時宿泊した「旅館」は、

鍵のかからない部屋もあり、

集金した手形を枕の下へ入れて

寝た(笑)

 

今の人に話しても

全く想像もできない、

笑い話しにさえならない

事かもしれない(笑)

 

この北陸出張で、

忘れられない思い出のひとつに

「56豪雪」がある。

1981(昭和56)年に

北陸地区を襲った大雪で、

私はこの豪雪に出張中遭遇した。

福井から金沢へ移動中の

列車の中で立往生。

5時間半も缶詰となった経験がある。

その時に車掌さんが乗客に、

パンを配給してくれた事が

無性に記憶に残っている。

 

(つづく)