急逝した実質二代目の

父の兄に関しては、

当時私がまだ四歳だったので、

残念ながらほとんど記憶にない。

 

その兄の急死により

急遽社長に就任した父ではあったが、

当時の父は業界でも有名な遊び人(笑)

業界関係者は、

「常盤(トキワ)はあの弟が継いだら

 すぐにつぶれる(倒産)」

異口同音に言われ、

それを耳にした父は、

以来、

必死に働いたと後に語っていた。

 

ところが既に会社経営から

退いていた創業者の祖父は

社長である父に相談なしに、

色々な事を…。

当時の高級車「セドリック」を購入、

社員の運転で故郷へ凱旋(笑)

 

又、父の尻を叩き台東区上野に

4階建ての自社ビルを建てる。

後に語るが、

この自社ビルの存在こそ、

私の社長業で最も難問に

立ち向かった出来事に繫がる。

 

話しを戻す。

勝気な祖父は前述の

業界の風評を打ち消すため、

いわば「はったり」から

「常盤健在なり」と次々に

前述のような大胆な行動を起こす。

私の時代もそうであったが、

「親の言う事は絶対」の時代、

父も相当苦労したと思う。

 

しかし専務である弟と

新製品を次々に発表、

今で言う「キャンペーン」を企画し、

景品付き大特売や

取引先を「温泉旅行」、「海外旅行」、

「万国博覧会」などへ招待。

昭和40年代に開催した

海外への招待旅行は

業界でも類を見ない招待会として

伝説になったという。

 

羽田空港を出発する前日には、

地方から上京した

取引先の社長らが我が家に宿泊。

子供心にはっきりと覚えている。

前夜祭よろしく、

我が家で飲めや歌へのドンチャン騒ぎ。

それを一手に世話する母。

さぞかし大変だったと察する。

 

後に私が入社後、

営業で地方問屋を訪問した際、

当時のその招待会に参加していた

何人かの社長に

「あなたのお母さんには

 本当にお世話になった。」

と言われた。

 

取引先の接待を

好んで我が家でした父、

お茶の間でテレビを見ながら一献、

テレビは一家に一台しかない時代、

兄や私は子供番組を見る事は皆無。

学校でテレビ番組の話題になっても

話しが合わなかった。

料理上手な母の手料理を

自慢したかったことも

あったとは思うが、

それほど商売に取っては、

取引先が最優先、

家族がその犠牲になる事は

日常茶飯事だった。

 

時は流れ、

今度は私が同じようなことを。

血は争えない(苦笑)

萩原家に嫁いだ女房族は

本当に大変である。

 

趣味の他にも、

私が父の影響を受けた事に

「社会貢献」がある。

父は「ライオンズクラブ」での

社会奉仕のみならず、

「タカラクラブ」という

チャリティ団体に所属、

養護施設の子供たちの

お世話をしていた。

 

長崎県島原市にある

受け持ちの養護施設が

平成3年に雲仙普賢岳の

噴火災害に遭遇し、

避難生活を余儀なくされた。

 

父の指示により(苦笑)

私はチャリティパーティを開催。

その収益金を

養護施設に寄付したことが、

こんにち「日本赤十字社」の活動支援を

ライフワークとしている私の

30年前に行った

初めてのチャリティ活動だった。

 

父の社長歴は30年。

最後の10年間は、

私も営業マンとしての実績を残し、

前述の父の弟である専務を中心に

銀行関係以外のことは、ほとんど

私たちに任せていた。

もちろん私の知らない苦労も

多々あったとは思うが、

父にとって50歳台の

その最後の10年間は

時代背景の良さも手伝い、

おそらく人生で

最も充実していた時と察する。

 

会社は弟と息子に任せ、

業界(東京雨衣協同組合)の

理事長として、

都知事からの「東京都功労者表彰」を皮切りに、

様々な外郭団体の要職を歴任、

数々の賞を受賞。

 

取引金融機関(都民信用組合)の

非常勤理事として「全国信用組合功労者賞」。

地元では(上野警察懇話会)理事、

(上野観光連盟)監事、

中でも(不忍ライオンズクラブ)で

会長を仰せつかったことは、

名誉もさることながら

一国一城の主ばかりが集まる中で、

人として成長したと、

母は常々言っていた。

一方で、お相撲さんや

噺家さんをかわいがる

いわゆる「旦那」でもあった。

 

口数がけして多い方ではなく、

社交性もそうある方でもなかっただけに、

自己アピールするわけではない。

人から評価され、推薦されて、

各要職を務めることに、

一種の誇りを感じていたような

気がする…。

 

一般的には考えにくいことだが、

父は生前、

「自分の葬式を見てみたい」

という面白いことを言っていた。

そのことを散々聞かされていた私は、

最後の親孝行と、

親戚の反対を押し切り、

あの上野「寛永寺」輪王殿に於いて

父の本葬を「社葬」として執り行った。

 

分不相応の会場での葬儀に

不安感で一杯だったが、

約700人もの多くの方に参列いただき、

社員達の尽力もあり、

私は喪主として、

その責任を無事務めることができた。

安堵感もさることながら、

晩年、仲があまりしっくりいっていなかった

父と私。

「喜んでもらえたかな…。」

と、心の中でつぶやいた。

それは平成8年6月。

父66歳、私40歳の時だった。

 

父とは、そのような人だった。

 

長い間、父のことを「反面教師」

と思ってきた私だが、

この年になって思うと…。

 

良くも悪くも私の人生は、

父を追いかけていたのかも

しれない…。

 

(つづく)