『ふたり酒』

『ふたり酒』

「この人と出逢えて本当に良かった!」。
そんな方とは、極力ふたりきりでお会いして、
会場にこだわり、美味しい酒肴を共にして、
熱く語り合い、充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは極力

ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

12月3日(水)。

 

今日の私の『ふたり酒』の相手は、

プロ野球・福岡ソフトバンクホークス

バッテリーコーチ

清水 将海氏。

 

 

清水将海氏は、

1996年のドラフト会議で

千葉ロッテマリーンズから

1位指名(逆指名)を受け入団。

その年は彼の出身、

青山学院大学から3人が

1位指名という快挙だった。

(ダイエーホークスへ井口資仁

 ・広島カープへ澤崎俊和)

当時の青学の強さがうかがえる。

翌年4月5日の開幕戦で

新人キャッチャーとして

史上8人目のスタメン出場、

エース小宮山 悟

(現早稲田大学野球部監督)

とバッテリーを組み

完封勝利を挙げ、

打っては史上12人目の

ルーキー本塁打を放つなど

最高のスタートを切った。

 

その後2004年に

中日ドラゴンズへ移籍

2010年には

福岡ソフトバンクホークスへ

移籍して、2011年に

現役を引退している。

引退後はソフトバンクの

バッテリーコーチに就任、

その時代に育てたのが

あの「甲斐キャノン」こと、

甲斐拓也捕手

(現読売ジャイアンツ)である。

2018年からは

青山学院大学時代の同級生、

井口資仁氏が千葉ロッテマリーンズの

監督に就任した事から

同球団へバッテリーコーチとして

移籍。

高卒新人の松川虎生を育てている。

2023年からは、

ソフトバンクへ復帰、

現在は三軍バッテリーコーチとして

若手捕手の育成に当たっている。

 

私との付き合いは23年。

この「23年」というのは、

彼がその都度その年数を

記憶していて私に言う。

自他ともに認める記憶力の良い私、

しかし彼のそれは私を上回る。

キャッチャ-という職業柄か?

 

今日の『ふたり酒』の会場は、

 浅草ビューホテル

東京都台東区西浅草3-17-1

TEL: 03(3847)1111

つくばエクスプレス「浅草駅」直結

 東京メトロ銀座線「田原町駅」

 徒歩7分

 

(1階) THE  LOBBY  BAL

 

開放的な空間でカジュアルに楽しめる。

バリエーション豊かなドリンクと

冷菜からお食事・デザートまで

取り揃えたオールラウンドな

大人の空間。

 

(28階)THE TOP BAL 華美(Hanabi)

 

浅草の粋と東京の輝きが響き合う

バーラウンジ。

東京スカイツリーが望む

バーカウンターでは

お酒の知識が豊富なバーテンダーが

特別な時間を提供、

古き良き日本の魅力を一望しながら

静かに刻む至福のひとときを

過ごせる。

 

清水将海氏(以下将海)を

前述の23年前まで、

私は全く良く思っていなかった。

当時の私は千葉ロッテマリ-ンズに

どっぷりと浸かっていたので(笑)

1軍2軍のコ-チや選手とは

ほとんど面識があった。

それは2000年から

2005年までの6年間

毎年12月にマリーンズのコーチや

選手に参加してもらい、

『萩原杯マリーンズゴルフ』という

チャリテイゴルフコンペを

開催していた。

一般人3人の中にコーチ、

あるいは選手に

1人入ってもらいプレーする。

コンペ前日には、

ゴルフ場に隣接したホテルに宿泊、

「前夜祭」と称し、

コ-チや選手と飲食、

更に二次会を共にするという

一般参加者(私の友人に限定)に

大変好評な会で、

千葉ロッテマリーンズの優勝を願う

激励が目的だった。

(2005年に31年ぶり日本一に

 輝いた年を最後とした)

その会に大きく尽力してくれたのが

当時の西村徳文外野守備走塁コ-チ

(後の監督)で、

マリーンズ関係者の人選は

全て西村コーチに任せていた。

私はこのゴルフ会のおかげで

コーチや選手とそれは親しくなった。

 

その第2回目の2001年、

初めて参加した将海。

彼は前日を含め2日間、

主催者である私に

挨拶一つなかった。

更にその翌シ-ズン、

試合前のベンチや通路で会っても、

「先日はありがとうございました。」

でもなければ

「こんちは」の挨拶すらない。

(この世界は通常、関係者しか

 立ち入り出来ない場所にいる人には

 知り合いでなくとも

 挨拶をするのが慣例。)

 

ドラフト1位で入団したからか?

 「なまいきな奴だなぁ」と

いささか堪忍袋の緒が切れた私は、

そのシ-ズンオフに

次回のゴルフ会の打合せを

西村コ-チとしている時に、

 「清水将海には

   声をかけないでくれ!」

とまで言った。

事のあらましを聞いた西村コ-チは、

首をかしげながら私に。

「そんな奴じゃないですけどね…。

    そんな奴だったら萩原さんに

    紹介なんかしませんよ。」

確かに西村コーチと私の

それまでの長い付き合いの中で

1度たりとも私の気分が

悪くなるような選手を

紹介されたことなどなく、

むしろ彼が性格的に問題あり

と思う選手は、

最初から私には

紹介してこなかった。

 

私はその年、

「もう1回だけ」と、

将海の参加を自分自身の中で

容認した。

そして将海が2回目の参加となった

「前夜祭」後、

ホテル内で行われた二次会のスナックで

意識的に彼の隣に座ってみた。

始めはギクシャクした

当たり障りのない会話をしていたが、

会話の中で私が親しくしている

当時、福岡ダイエ-ホ-クスの

石川晃スカウト(ブログ第20章)

の名前が出た。

石川氏は将海の学生時代にも

近づいてきたという。

私はその場からすぐに

石川氏へ連絡を入れ、

将海に電話を代わった。

それがきっかけで

将海と私は急接近。

以来、コンスタントに

『ふたり酒』をする仲となった。

それは将海の移籍先の

名古屋でも福岡でも…。

私の出張と彼のスケジュ-ルを

すり合わせて。

特に私の家内は

将海をとてもかわいがり、

将海の家族を我が家へ

招待したほど。

人の付き合いとは本当に面白い。

何がきっかけで

入魂の繋がりになるかわからない。

このように人と人は、

最初から順調に長い付き合いに

なる人ばかりではない。

ただ、この将海の時のように

私が自分の方から

歩み寄らなければ

こんにちのような付き合いには

ならなかったと思う。

『以心伝心』、

相手もこちらを良くは思って

いないわけだから…(苦笑)。

 

後に将海は、

「僕は本当に人見知りで

 駄目なんですよ!

 特に萩原さんのように

 物事を仕切っているような

 積極的な人は尚更なんです…。

 萩原さんとこのように

 親しくさせてもらうなんて

 あの頃を思い出すと

 考えられませんよ(笑)」

( 因みに彼の奥方は

  とても社交性のある

  明るい人。

  バランスが取れている・笑)

 

以来、私はなんとなく

ギクシャクした関係の人とは

一度は自ら歩み寄り、

声をかけるように心がけている。

事実、その後も何人か

当初ギクシャクした関係が

後に良好な関係になっている。

 

清水将海は、

このように

「人への歩み寄り」を

私に教えてくれた。

 

今日の『ふたり酒』も

ホテル内を2軒はしご。

若手選手の教育の難しさ、

家族のこと等々…。

話題は尽きなかった。

 

今から約15年前

平成23年3月11日、

「東日本大震災」。

「 大丈夫ですか?

     何もなかったですか?」

 

単身赴任先の福岡から

私の安否を気遣い、

最初に電話をくれたのは

将海だった。

 

「自分が変わらなければ

 何も変わらない。」

 

イメージ 1

 12年前の『ふたり酒』

 2013年10月15日 於:福岡・ 中州

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは極力

ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

11月29日(土)。

 

今日の私の『ふたり酒』の相手は、

元プロ野球選手・上川誠二氏。

 

 

和歌山県箕島高校時代、

春の全国選抜高校野球大会で

一番バッターとして活躍し、

チームを優勝に導いた。

卒業後は社会人野球を経て

中日ドラゴンズへ入団、

その後(ロッテオリオンズ)、

千葉ロッテマリーンズへ

移籍した名二塁手である。

現役引退後は、

千葉ロッテマリーンズ、

中日ドラゴンズ、

創設されたばかりの

東北楽天ゴールデンイーグルス、

そして再び千葉ロッテマリーンズで

内野守備走塁コ-チとして指導者に。

現役時代は、

「プロ野球史上最も三振しない選手」

「恐怖の8番バッター」

そんな異名を取り、

2010年には、

あの「下剋上」といわれた

千葉ロッテマリーンズ(西村徳文監督)

が史上初のシーズン3位から

日本一に輝いた時の

3塁ベースコーチである。

 

私とは37年の付き合い。

その付き合いの長さと濃さは、

大相撲界では錦戸親方、

そしてプロ野球界では

上川誠二氏が双璧である。

 

今日の会場は、

「ビアンタ日暮里」

東京都荒川区西日暮里2-25-1

ステーションガーデンタワー112

JR山手線・京浜東北線・常磐線

京成電鉄「日暮里」駅徒歩1分

Tel  050(5448)4122

 

   「ビアンタ日暮里」

 

本格イタリアンを気軽に楽しめる、

普段使いにぴったりの

カジュアルイタリアレストラン。

契約農園の直送野菜や、旬の魚、

希少部位の国産牛やブランド豚など

こだわりの食材を使った料理が自慢。

温かいおもてなしを心掛けている

スタッフの対応がとても良い。

ユニークなのが、

ワインをボトルで取り、

残した分を計り、

呑んだ分だけ精算する。

良心的である。

もっとも我々に残量はなかった。

(笑)

 

 

上川誠二氏との出逢い。

それは、父の友人・檜山健一氏が

導いてくれた「縁」である。

当時、檜山氏はアメ横の連合会長で

私の父とはライオンズクラブの仲間。

アメ横でジーンズショップを営む

檜山氏がジィーンズを「Gパン」と

名付けた。

お嬢さんはミスユニバ-ス日本代表、

そのお嬢さんと当時の中日ドラゴンズ

若手スタ-上川誠二選手が婚約した。

私をかわいがってくれた檜山氏は、

義理の息子になる上川選手と

是非仲良くしてほしいと私に言うも

当時、上川選手は名古屋在住。

会うことすらないまま

3年ほどが過ぎた昭和61年年末、

当時ロッテオリオンズと

中日ドラゴンズの間で4対1の

「世紀の大トレ-ド」が成立した。

その年まで2年連続三冠王を

獲得していたロッテ落合博満選手を

取るため中日は、

当時の星野仙一新監督が、

上川、牛島、桑田、平沼

(前出19章・平沼定晴館長)ら

4選手を放出。

そのトレードで上川選手は

東京へ引越しして来た。

以来、彼とは「ゴルフ」

「マ-ジャン」「酒肴」「旅行」と

本当によく遊んだ(笑)。

人の「縁」とは本当に

わからないものである。

幼いころから憧れていた

プロ野球選手と付合うとは

思ってもみなかった。

上川選手は私が初めてお付合いした

現役のプロ野球選手だった。

ジャイアンツファンだった私が

ロッテファンに変わった。

上川選手(以下カミ)は同僚、

後輩選手もよく紹介してくれた。

私もこれまで多くの友人を

彼に紹介してきた。

私の経験からすると

この類(著名人)の人は、

私と個人的な付き合いはあっても

友人を紹介するには至らない。

それはカミが誰とでも

分け隔てなく接する性格が

させた術だと思う。

私もカミには安心して、

友人を紹介できた。

それは友人のみならず、

女房子供たちまで交えた

家族ぐるみの付き合いに発展、

ふた家族で旅行に行くほどだった。

それもこれもルーツは

あのトレード。

あの球史に残る1対4の

世紀の大トレードは、

後に中日ドラゴンズ、

そしてロッテオリオンズ、

いったいどちらの球団が

得をしたのか?

その後プロ野球界で

話題にもなったが、

一番得をしたのは、

実はこの私だと思っている(笑)

 

そのカミとの

今日の『ふたり酒』。

カミとは現在、

月に1度の土曜日、

このブログ(10)章に登場した

ウーさんこと上原英一氏と

3人でゴルフに行っている。

今日はそのゴルフが

中止になったので、

久しぶりに『ふたり酒』

という事になった。

現在カミは横浜で、

JAA(ジャパンアスレチックアカデミー)という

小学生、中学生を対象にした

ベースボールスクールで

野手担当インストラクターとして

元横浜大洋で投手として

活躍した遠藤一彦氏、

元横浜大洋や巨人、ヤクルトで

活躍した大野雄次氏と

子供たちの指導をしている。

 

これまで彼の人生は、

けして順風満帆ではなかったが、

「感謝しています。」

これは彼の口からよく出る言葉で、

「感謝を忘れない人生に

 大きな失敗はない。」

私がいつも心している事でもある。

 

37年ものお付き合い、

思い出は尽きない。

中でも2人が最も思い出として残り、

頻繁に出る話題、

それはカミも私も同じ3月生まれで、

更に私の3月生まれの友人を交えて

「弥生会」という会を

カミの現役時代に作った。

毎月1万円づつ積み立てをして、

カミのシーズンオフの

12月に合わせて、

1人12万円予算で、

1日目にゴルフ、

その晩は温泉旅館で宴会、

宴会後マージャン、

翌日は再びゴルフ、

東京へ戻ってきて

2日間のゴルフの表彰式を

兼ねた宴会。

時代も良かったが、

とにかく良く遊んだ(笑)

 

そんな「弥生会」の我々は

1991年4月6日、

川崎球場での開幕戦

前年、通算1000試合出場を

達成していたカミの表彰式に

スポンサーとして協賛したり、

カミが現役を引退した時には

約150人を集めて

「引退・コーチ就任」の

激励会を開催した。

(1994年1月16日)

更に月日が経った5年前の

カミの還暦の時にも

お祝いをしようと計画、

まさに友が友を生んだ

素晴らしい繋がりだと思う。

この還暦祝いは残念ながら

コロナ騒動で延期に延期を重ね、

結局、私が個人的に

させていただいた。

 

カミとはそんな多くの思い出を

歴史として残している。

前章の元水戸泉の錦戸親方同様

「酒と友は古いほど良い」

 

今日の『ふたり酒』も

実に充実していた。

この縁を導いてくださった

今は亡き檜山健一氏には

衷心より感謝を申し上げたい。

 

(参 考)

一年遅れの「還暦祝い」。 | 『ふたり酒』

 

【追 伸】

来る12月20日の弊社恒例

年末の「チャリティイベント」。

当日参加予定の上川誠二氏は、

1982年中日ドラゴンズが

セ・リーグチャンピオンになった記念に

球団が関係者に配った

当時の一軍全選手のサインを

銅板にしたためた大変貴重な

パネルを出品してくれた。

因みにこの年新人だったカミは、

日本シリーズで逆転3ラン

を放つなど大活躍、

「敢闘賞」を受賞している。

(優勝は西武ライオンズで

 MVPは東尾修投手。

 二人は共に箕島高校出身で

 当時「箕島シリーズ」とまで

 言われた)

 

ドラゴンズファンには

たまらない逸品。

是非落札を!(代理落札も)

 

       タテ50Cm X ヨコ60Cm

 

こんな思い出の貴重な品を

提供してくれた上川誠二氏に

改めてお礼を申し上げたい。

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは極力

ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

11月22日(土)。

 

今日の私の『ふたり酒』の相手は、

大相撲・元関脇水戸泉の

錦戸眞幸親方。

 

 

この『ふたり酒』には、

既に(9)章・(18)章と2回、

登場いただいている錦戸親方、

だが、今回の舞台は

これまでとは異なり、

東京を離れ「福 岡」

 

福岡は私にとって、

国内の中でも5本の指に入る

好きな土地。

かつて、11月のこの3連休は毎年、

長年支援活動をしていた

長崎県島原市の児童養護施設へ

ボランテア訪問に行く時に

まずは空路福岡へ入り、

ちょうど九州場所で滞在している

大相撲関係者と食事をして、

翌日、福岡からレンタカーで

島原の養護施設へ往復する事が

恒例だった。

 

その養護施設は

既に閉鎖されてしまったので、

今回の3連休は、

福岡だけを満喫する

「ひとり旅」。

それを知った錦戸親方から

夕食のお誘いを受け、

更に大相撲観戦の招待まで

していただいた。

しかもその席は、

俗に「砂かぶり」と言われる

「溜席(たまりせき)」。

大相撲の人気は現在うなぎ上りで、

関係者と言えども中々チケットが

手に入らないのが現状。

今回の招待は、席のランクと言い

感謝という言葉だけで

表すことはできない。

 

  「大の里横綱土俵入り」

 

席は「正面」の溜席。

因みに「向正面」の溜席は、

テレビに映るので

座りたがる人は多いようだが(笑)

私にその趣味はないので、

「横綱土俵入り」、「行司さん」を

正面から見られる方が大切。

お尻を見てもしょうがない(笑)

ご覧の様に正面から目の前で見る

大の里の横綱土俵入りは

大型力士だけに迫力満点だった。

 

又、今日の私の観戦を知った

幕内格行司の木村朝之助さんは、

トキワのコーポレートカラー

「藍紺」に、金糸で萩原家の家紋

「丸に違い鷹の羽」を

刺繍した装束を纏ってくれた。

 

 

そして場所がはねて、

親方に案内していただいた今日の

『ふたり酒』の会場は、

 

     すし処 髙寅

 

福岡市中央区唐人町1-12-8

092(725)7078

地下鉄空港線「唐人町」下車徒歩2分

 

地元、玄界灘で水揚げした

新鮮な魚介類を駆使、

寿司割烹として、

コース料理も充実している。

 

親方も福岡へ来ると

必ず顔を出すという馴染みの店。

その親方が特別にお願い?

とても量の多い、

まるでお相撲さんが食する

コースメニューだった。

「ごちゃんでした!」

 

話は前後するが、

今日の十四日目の大相撲観戦、

目の前で繰り広げられる

熱戦の数々に、

まるで自分が相撲を

取っているかのように

力が入った。

大の里、豊昇龍の両横綱が

敗れる波乱の中、

その豊昇龍を破った

話題の安青錦が勝ち星で並び

明日の千秋楽で優勝を争う

三つ巴の展開となった。

 

この時点で安青錦の

大関昇進問題が

大きくクローズアップ。

まずは親方とその話題から。

 

そもそも相撲博士の私からすると、

( 昭和42年9月場所の

 NHKの大相撲実況中継で

 「相撲豆博士」として出演 )

このところ昇進前3場所の

勝ち星の合計33勝が目安と言う

いつの間にか、

あたかも規定のようなこの事に、

まずは違和感を感じている。

( 親方曰くマスコミが作った )

しかも直前の3場所が

関脇だけでない番付でも

( 小結・前頭 )

問題とされない事にも…。

その昇進時の勝ち星や地位の甘さから

昨今、大関昇進後に陥落者が多いと

私は思っている。

「大関」と言う地位は、

横綱と共に大相撲界では別格である。

そんな持論を親方にぶつけると、

逆に面白い話が聞けた。

 

「 相撲協会の事情もあります。

  例えば、今日琴桜が大の里に

  負けていたら負け越し。

  そうなると来場所はカド番。

 (大関は2場所連続で負け越すと

      関脇に陥落)

     来場所仮に負け越したら

  番付に大関がいなくなるという

   一大事になります。

  そこで今場所安青錦が

   大関へ上がってしまえば安泰。

   当然、彼の今場所の昇進条件は

   少し甘くなります。」

 

※ 実際の安青錦は千秋楽で

  大関琴桜、決定戦で横綱

  豊昇龍を破り初優勝。

  文句のつけようがない

  大関昇進ではあった。

  琴桜も前日に勝ち越し、

  大関の地位を守っていた。

 

さすがに、かつて

番付編成を担当していた

元審判部副部長である。

前章(24)の宮本慎也氏が

私のプロ野球の師匠なら

差し詰め錦戸親方は

私の大相撲の師匠である。

 

今日の『ふたり酒』も

いつものように

近況報告に始まり、

そして必ず出る懐かしの思い出話。

46年もお付き合いをしていると、

思い出話のネタは尽きない。

(9)章で紹介した

親方との出逢いや

「ケガと病気のデパート」

などと言われた異名からも

その復活には「聞くも涙、語るも涙」

しかし、ふたりの間には、

そんな美談ばかりではない。

今思い出すと常識を超えた

笑い話もある。

今日はそんな

「聞くも笑い?、語るも笑い?」

そんなエピソードを紹介してみたい。

 

実は親方が現役・水戸泉の時代に

初めてゴルフの筆おろしをした時の

パートナーは私。

それは今から約38年前の

昭和63年1月25日。

場所は茨城県の

「宍戸国際カントリークラブ」。

前日、我が家に泊まり

コースへ行ったのだが、

朝一のティーグランドで

後援者からいただいたという

フルセットが入った

キャデイバックから

クラブを取り出そうとすると、

なんと全てのクラブに

包装パックがかかったままの状態。

つまり練習も全くせずに

その日が初めてのゴルフ。

ゴルフ経験者なら、

その日の結果は言うまでもなく

ご理解いただけるかと思う(汗)

しかも普段は雪駄履きの力士、

その力士がゴルフシューズを

履くとどうなるか?

当時はまだスパイクレスなどはなく、

鋲のついたシューズ。

グリーン上は雪駄履きの時のように

引きづり歩きから傷だらけ。

それでもキャデイさんは

何一つ注意をするわけでなく、

ニコニコしながら

丁寧に関取のお世話をする。

茨城県は水戸泉の故郷、

新進気鋭、前途有望な

郷土の若き25歳のスターは、

何をしても許される(笑)

私らが後続を気にしながら

長時間を要した9ホールも

何とか終え、

クラブハウスで昼食。

焼肉定食を頼んだ水戸泉に

何も言わずゴルフ場は

ご飯を「おひつ」のまま持ってきた。

ここまでくると、

あきれて笑いも出なくなる。

 

これを皮切りに水戸泉は

ゴルフにはまっていった。

しかし当時はまだ、

師匠である高砂親方には、

ゴルフをしていることは内緒で、

クラブセットは我が家で

預かっていた。

地方場所の際に

(名古屋・大阪・福岡)

後援者とプレーする時には、

我が家で預かるゴルフセットを

指定されたゴルフ場に

私が送る。

そしてプレー後には、

再び我が家へ戻って来る

といった塩梅。

 

こんな事もあった。

平成元年8月23日、

私が人生で初めて個人の主催で

ゴルフコンペを開催した。

多士済々な友人たちが

参加してくれたのだが、

大相撲界からは引退したばかりで

まだチョンマゲを付けた

大ちゃんこと元大関・朝潮、

そして水戸泉が参加してくれた。

その日は、この夏一番の暑さ。

ラウンドの途中、

暑さに耐え切れなくなった水戸泉、

とうとうポロシャツを脱いで

上半身裸のままラウンド(笑)

そしてそのままクラブハウスで

昼食。

これらの事を我々一般人がしたら

どうだろう(笑)

ただでさえゴルフはマナーのスポーツ。

お相撲さんは、

「何でもあり」である。

いや、時代も良かったと思う。

そう言えば、

この時の会場

「霞ヶ浦国際ゴルフコース」も

茨城県だった(笑)

 

このように錦戸親方との

46年の思い出話は、

尽きない。

このゴルフに関する思い出は

今も尚、私の中で笑い話として

残っている。

現在の律儀で礼儀正しい親方からは

想像もできない若き関取時代、

又、そこにはそれを注意もせずに

笑って見ている若き私もいた(笑)

 

今日の『ふたり酒』も

あっという間に時間が経過、

帰路、「唐人町」から

地下鉄でホテルに帰るために

長い下り階段を降りる私を

地上出入口からずっと見下ろし、

見送ってくれた親方。

私が振り返っても振り返っても

いつまでも手を振っている。

39年前、

再起不能と言われた水戸泉の入院先、

東伊豆のリハビリ病院に見舞いに行き、

その帰り、病院を離れる私を

ずっと手を振って

見送ってくれた当時の姿と

だぶってしまった。

アルコールが入っていた事もあり

熱いものが込み上げてきた。

 

「酒と友は古い方が良い」

親方には、

今回の福岡ですっかりお世話に

なってしまった…。

 

この二人の縁を作ってくださった、

今は亡き第46代横綱・朝潮こと

五代目・高砂浦五郎親方に

改めて衷心より感謝を申し上げたい。

 

文中の内容をよりご理解

いただけるよう、

下記のブログを今一度

お読みいただけると幸いである。

 

(9)錦戸親方(元・水戸泉) | 『ふたり酒』

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは極力

ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。
 

11月11日(火)。

 

 

今日の私の『ふたり酒』の相手は

プロ野球界のレジェンド

宮本慎也氏。

 

社会人野球プリンスホテルから

ドラフト2位で

東京ヤクルトスワローズへ入団。

その後の輝かしい球歴は

周知の通り。

今更ここで語ることもないので

割愛させていただく。

 

私とはプロ入団後2年目から

ちょうど丸30年の付き合い。

当時ヤクルトの同期入団で、

ロッテからトレードで移籍した

青柳 進 捕手の紹介だった。

東京ドームの試合後に、

食事をしたのが始まり。

その時私が出した名刺の住所宛に

年賀状が届いた時は、

驚き以外の何物でもなかった。

たった一度、

食事を一緒にしただけの相手に…。

後に、このストーリーを

プロ野球人に話すと、

誰もが驚き、異口同音に

「自分ならありえない」。

 

今日の会場は、

このブログ2回目

「てんぷら初穂」

東京都港区赤坂3-15-12-3F

地下鉄千代田線「赤坂」駅徒歩3分

地下鉄銀座線・丸ノ内線

     「赤坂見附」駅徒歩5分

 

 

ホテルオークラ、

キャピトル東急ホテル他

40年間天ぷらひと筋に生きる

富山 三喜男 料理長。

「太白(たいはく)」一番搾りのごま油を

一度だけの使用で、

本来持つ素材の本当の美味しさを

引き出すことに強いこだわりを持つ

「ザ・職人」だ。

 

     店 内

 

私とは、ホテル時代、

専門店の料理長時代、

そしてオーナーとして経営する現在、

30年にわたるお付き合い。

てんぷらが大好物だった家内も

贔屓にしていた。

 

現在は、かなり先の予約でないと

入店できないほどの人気店で、

今日は、この店唯一の個室に

(定員8名)

「人目に触れない方が良いでしょう」

大将の気遣いから

他のお客様を全てお断りして

2人きり。

「天ぷらと鮨はカウンター」

それが持論の私だが

今日は、大将のおかげで

たっぷりと密談が(笑)

 

宮本慎也(以下慎也)との

これまでの30年間の出来事や

慎也が私にしてくれた

数々の美談を語るには、

三日三晩あっても足りない。

ただ言えることは、

年賀状の件と言い、

彼の様々な行動は、

「球道即人道」。

これは彼の座右の銘であり、

PL学園時代の恩師

中村順司監督の教えという。

 

私の家内は、

「宮本さんは出すお料理を

 言葉に出して

 褒めてくれるので、

 作り甲斐がある。」

これは未だ慎也には

内緒にしているのだが(笑)、

慎也が我が家で食事をする時には、

極力同じメニューを

出さないよう、

家内はその日のメニューを

記録に残していた。

 

その家内といえば、

野球にそこまで

興味があったわけではないが、

慎也から招待された

2013年10月4日、

神宮球場で行われた

彼の引退試合では、

雨の中を濡れながら

最後まで観戦していた。

 

そんな宮本慎也と今日の

『ふたり酒』。

(彼はアルコールを呑まない

 のでウーロン茶)

野球の話や家族の話、等々

話題はいつものように多岐に渡った。

 

意外な話が…。

それは昨年の12月、

慎也の長女が結婚、

それから1年が経過した。

そこで私はちょっと意地悪な

質問をしてみた。

「 娘婿さんは、どう?」

1年くらい経過すると

誰もが我が子のパートナーへの

愚痴が出始める頃(笑)

それが辛口宮本慎也なら

尚更?

ところがそもそも

1年前の結婚の時に

彼が娘の旦那さんに言った事が。

「うちの娘で本当にいいのか?」

同じ娘を持つ親として

私だったら間違っても言わない

(笑)

それは2004年。

Mr.プロ野球こと長島茂雄氏が

アテネ五輪の監督として就任、

五輪に初めてオールプロで臨み、

12球団の「おらが大将」達を

取りまとめるキャプテンに

宮本慎也を指名した理由が、

「物事を多角的に見て、

    冷静な判断ができる」

前述の娘婿の一件も

これと同じ。

1年が経過した現在でも

娘婿には感謝していると

慎也はいう。

 

現役時代、

私が神宮球場のスワローズ戦を観戦。

その試合後にふたりで食事、

そのパターンが何度かあった。

私がその試合における疑問点を

質問すると、

NHKで解説する現在のように、

とても分かりやすく

丁寧に説明してくれた。

どちらかと言うと、

ふたりでいると

私が慎也に質問、

彼がそれに答える…。

そんなパターンが

多いかもしれない。

 

その慎也と今日の話題で

盛り上がったのが、

「プロ野球監督論」

 

慎也が仕えたこれまでの監督や

他球団の監督について思う事を

色々教えてくれた。

私は私で「かつての監督」と

「現代の監督」の

違いについて持論を。

かつての監督とは、

まず現役時代の実績ありきで

基本、ある程度年配者。

ところが現代は、

現役時代の実績には

あまりこだわらず?

昨今では若い監督も多くみられる。

いや、そんな違いよりも

私がとても残念に思う事は、

親会社(派遣された社長含)の

チームに対する熱意や愛情が

どこまであるのか?

全くそれが伝わってこない…。

親会社のしがらみや

オーナー始めフロントの

個人的しがらみからの監督人選。

そして筋の通らない解任劇。

もちろん、それはかつてもあった。

しかしそれが昨今、

あまりにもエスカレートし過ぎと

私は思っている。

本来最も大切な

「この人間は監督として

 チームを勝利に導けるか?」

それはどこへやら。

(もちろん最初は想定に過ぎないが)

コーチの人事権にしても

それを監督には与えず、

しがらみからの

フロント主導で連れて来たコーチを

監督の下に置く。

意思の疎通が出来ていない

それらのコーチと監督が

うまくかみ合うわけがない。

そして結果が出なければ、

監督責任で解任。

表向きには「辞任」。

ほとんどの球団が

このパターンだ。

 

慎也は現役引退後4年間、

ネット裏から野球を見ていた。

その間、

今は亡き星野仙一氏が

「 宮本は今何をしてるんや?

  あいつのように選手に

 しっかりと ものが言える

 指導者が今の 野球界に

 欠けているんや。

     早くユニフォームを着ろと

     言っとけ!」

慎也と私の仲を知る

スポーツ記者から聞いた。

 

今の時代、

若者への教育は本当に難しい。

生きる世界は違えども

私も人の上に立つ立場として

痛感している。

愛情は持ちつつも、

時に言葉きつく指導すると、

怒られ慣れしていない

現代の若者たちは、

まず自らの感情が優先、

指導者の本意は伝わらない。

だが、このような時代に

自分の進退や力関係に

惑わされることなく

自分をぶらさない

宮本慎也の気質に

私は魅力を感じている。

 

慎也には、

しがらみのない球団で

同じ野球観を持つコーチと共に

「宮本野球」を

見せてくれる事を

期待してやまない。

こんな思いは私だけだろうか。

いや、少なくとも

彼の恩人、名将野村克也氏は、

天国からそれを見守っているに

違いない。

 

この宮本慎也と私の

「真の縁」を作ってくれた

現在、東京ヤクルト販売(株)で

常務取締役を務める青柳進氏に

改めて感謝をしたい。

 

宮本慎也 最新の著書

「プロ視点の野球観戦術」

宮本野球の手引きともいえる

この本を是非、

読んでいただきたい。

 

【追 伸】

来る12月20日の弊社恒例

年末の「チャリティイベント」。

今年は「プロ野球名球会」の

ハワイで開催される総会と重なり

残念ながら参加が出来ないと、

チャリテイオークションに、

現役時代の貴重なユニフォームに

サインを添えて提供してくれた。

 

「当日参加予定の皆様、

 チャリテイにご協力

 宜しくお願いします!」

       (宮本慎也談)

 

当日オークションにかけられるユニフォーム

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは極力

ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。
 

11月6日(木)。

 

 

今回の『ふたり酒』の舞台は

 

大阪はミナミの心斎橋。

お相手は、

小橋英明氏。

大阪在住の小橋氏とは

私が大阪へ来た時に

『ふたり酒』をする。

 

私はこれまでの人生で

「私だったらしていない…。」

人が取ったその行動に感銘、

以後、同じ状況の時には自分も…。

そんな事を思わせた

出来事が3つある。

 

一つは、今から約10年前、

家内のお通夜の席での事。

平素、夫婦でとてもかわいがって

いただいている第26代の

国税庁長官をお務めになった

濱本英輔氏

その日、濱本氏はご夫妻で

早々と弔問に来ていただきお焼香、

通常であれば誰もがその後、

お清めの席へと移動する。

(東京の慣習)

ところが濱本ご夫妻は、

お焼香後、

弔問客が列をなす横に並べられた

椅子の最前列に腰掛け、

住職がお経をあげる約1時間、

最後までその席で

合掌して下さっていた。

形式とは異なる

この心のこもった行動に私は

とても感銘を受けた。

しかも、あれだけの

社会的地位が

お有りになる方が…。

以来、

私は特に入魂にしていた方の

お通夜には、

状況が許されれば、

最前列ではなくても

そのように心掛けている。

 

ふたつ目、

今から23年前、

ある関取の仲人をした時の事。

披露宴で食事が始まり、

460名という

大勢の招待客の中から

新郎新婦と我々仲人が座る

「高砂の席」へ

見知らぬひとりの男性が

寄って来られた。

「お仲人さん、

 本日は大変ご苦労様です。」

と言われ、

お酌をしていただいた。

差し出された名刺には、

「福岡ダイエーホークス

 常務取締役・球団代表」

という肩書が書かれた

瀬戸山隆三氏だった。

その後、瀬戸山氏は

千葉ロッテマリーンズ球団社長、

オリックスバファローズ球団本部長と

歴任され、その立場が変わっても

その出来事以来こん日まで23年間、

互いに色々な面で協力仕合い、

入魂のお付き合いが続いている。

私はこの時から

結婚披露宴に出席した際には

面識のない仲人さんであっても

同じように労をねぎらわせて

いただいている。

 

そして三つ目。

今日の『ふたり酒』のお相手

小橋英明氏との出逢い。

今から約14年前、

2012年2月29日うるう年。

上方落語・桂文福師匠

「落語家40周年記念・

 大阪後援会発足式」が

スイスホテル南海大阪で

約200名の参加者で開催された。

その締めのあいさつに立った私は

師匠と初めて会った

1987年2月の

あるエピソードを披露した。

パーティがお開きになり、

一人の見知らぬ男性が

私に寄って来られ、

「今のご挨拶に感動しました。」

「スポニチプライム専務取締役」

という肩書の名刺を出された。

後日、「スポニチプロ野球名鑑」が

10冊も届き、

「 私どもは毎日新聞社の関連会社で

  弊社が発行している冊子です。

  野球観戦のお供に

     ご活用ください。」

以来、小橋氏は定年退職された現在でも

毎年欠かさずその名鑑を送ってくれる。

時に私が大阪へ行った時には、

『ふたり酒』。

互いに季節のもののやり取り、

私のライフワークである

年末の「日赤チャリティイベント」へ

協賛までしていただいている。

事の始まりは、

パーティのバタバタした中で

面識のない私への一言。

人の繋がりはどんなことから始まり、

どのような展開になるか

分からないものである。

以来、私は面識のない人でも

感銘を受けるような出来事が、

あった場合には素直な気持ちで

声を掛けさせていただき、

更にその後のアクションも

自ら率先して起こすよう

心掛けている。

 

この後者2件の方に関しては、

実に「如才ない」行動で

中々できる事ではない。

しかし、そのような行動が

自然に取れる人間性そのものが、

こん日多くの人脈を持つ

所以だと思う。

 

濱本英輔氏の件と共に

この3つの出来事は、

亡き父が私に残してくれた

「まだ足りぬ、

 学べ学べとあの世まで。」

正にこの教えそのものだと

思っている。

 

今日は、そんな教訓を

私に与えてくれたお一人、

小橋英明氏との『ふたり酒』。

 

今日の会場は、

「すもうキッチン佐賀昇」

大阪府大阪市中央区西心斎橋

2丁目―4-6

TEL: .06(6211)5005

 

元幕内力士・佐賀昇さん自らが

店に立つ

「こだわりの本格ちゃんこ」。

九州は佐賀県出身の佐賀昇さん、

「熊本産馬刺し」や

「特選佐賀牛焼き」は

鮮度と美味しさ抜群。

特に名物の「塩ちゃんこ」は、

そのだし汁、具材、〆のうどん、

柚子胡椒にまでこだわった

ちゃんこ鍋である。

 

 

  

   写真右:元幕内・佐賀昇

 (バックに現役時代の取組)

 

実は私の亡き祖母は

(1990年10月1日没・行年84歳)

佐賀昇関のファンだった。

17~18年前になるだろうか?

この店に初めて私を

連れて来てくれたのは、

前出の桂文福師匠だった。

その時、思わず佐賀昇さんに

「私の祖母がファンでした。」

以来、そんな縁もあって

時に私が大阪へ来ると

絶品の「塩ちゃんこ」を

食べに来る。

まさか祖母がファンだった力士と

その後私が知り合いになるとは

考えてもいなかった。

天国の祖母もさぞかし

喜んでくれていると思う。

 

今日の『ふたり酒』。

早稲田大学野球部出身の小橋英明氏、

東京六大学野球に精通した方だ。

1972年の

「第1回日米大学野球選手権大会」

ではマネージャーも務めている。

神宮球場に当時の皇太子ご夫妻

(現上皇ご夫妻)をお迎えし、

皇太子殿下が国内のスポーツ競技で

初めて始球式をされたことでも

話題となった。

日本は関西大学の山口高志投手

(後に阪急ブレーブス所属)の

力投が原動力となり

初の覇権を手にしている。

因みに、この大会で

主軸に座っていた選手が、

後に「和製ミッキーマントル」

と言われ、

私とは40年来のお付き合い

当時、法政大学の長崎慶一氏

(後に横浜大洋ホエールズ・

 阪神タイガース所属)

である。

 

小橋氏とは、

このような野球の話で

盛り上がる。

そもそも大学野球に疎い私に

過去や現在活躍している

プロ野球選手の大学時代の

エピソードや裏話を教えてくれる。

今日も気が付けば3時間半、

とても楽しい『ふたり酒』だった。

初来店の小橋氏も

この店を気に入ったようで、

近日、人をお連れすると

佐賀昇さんに約束をしていた。

 

小橋氏との繋がりのきっかけ、

又、この店を紹介してくれた

桂文福師匠には、

改めて感謝を申し上げたい。

 

    (追 伸)

 

来年1月15日(木)18時開演。

『桂文福と新年会』と題し、

ゲストに桂夏丸師匠を迎えし

「寄席」と大相撲に関した

「トークショー」の会を

開催します。

浅草のおしゃれなレストランで

お食事、フリードリンク付きで

お一人10,000円です。

30名様限定とはなりますが

是非、ご参加下さい。

 

お問合せ・お申し込みは

下記メール宛。

hagiwara@tokiwa1930.co.jp