『これからこの火皿が左の火縄銃を、お玉に届けさせます。ですがその前に、庵主さまと女童たちを解き放ってほしいのです』
見習い同心・湯郷涼太郎が、飛騨の山犬三兄弟が立て籠っている信慶寺に向かって、左利き用の火縄銃を高く掲げながらそう叫んでいた。
『だちかん! 代わりの質人がそのお玉とやらでは少なすぎる! あと二人用意しろ!』
三兄弟の次男、戌吉と思しき声がそう叫んでいた。
『ですから、そこに居る、お稲とお麦の二人を……』
『だちかんッ! さっき、握り飯やら汁やらを運んできた娘っ子が二人居ただろう! あいつ等を連れてこいッ!』
『ですから、それは無……、それは出来ません。あの時の一人は、怖ろしさのあまり腰が抜けて座りションベンをした上に、もうひとつの汚ないモノまで漏らしたらしく、使いモノになりません。もう一人も同じです!』
つい口が滑った涼太郎だったが、後日、このことで素直店のお素に散々恨まれ、長く出入差し止めを食らうことになる。
だが、この言葉は、飛騨の三兄弟除けには、驚くほどの効果があった。
『ケッ、そんな小汚ねえ娘ッ子には用は無えッ! そんなら、ここに居るぴんた童二人と、そこに居るお玉とやらでいい! 誰か、大八車を引いてこいッ! それに、婆ァを乗せてやるから、それを引いて運べッ!』
その言葉通りにすぐさま大八車が用意され、それを蘭方医・穂高凌雲先生が引き、新慶寺までたどり着くと、それに腰が抜けてしまった庵主さまと女童数人を載せ、残る数人の女童たちがそれを押し、ようやく、涼太郎や玉吉たちが待つ地点にまで戻って来た。
抱き合って喜ぶ玉吉と庵主さまと女童たち。
だが、いつまでもそうしている余裕はなかった。
『玉吉。もうそろそろ……』
飛騨の山犬三兄弟に見られることがないように、物陰に隠れた搦め手回り同心・氷室陽之進がそう声を掛けると、玉吉がそれに応じた。
『分かっています、氷室さま……』
信慶寺に向かって立った玉吉が、涼太郎から左利き用の火縄銃を受け取ると、思わず武者震いをしていた。
無理もない、これからの玉吉の任務には命の保証は無く、それどころか、貞操の危機まであるのだから……。
飛騨の山犬三兄弟がこれまで押し込み強盗をした店での被害は、金銭や店員の生命だけでなく、店の主人の娘や奉公人の娘の中でも器量良しはことごとく犯されており、後日それが原因で死を選ぶ者が多く、縊死、つまり首吊りを選んで死んだ者が三名、服毒死を選び、石見銀山を飲んだ者が二名、井戸にみを投じた者が一名だったという。
正に鬼畜の所業と言えるが、松藻斗のお城下で、保科紗綾子先生に次ぐ美貌の持ち主である玉吉ことお玉が狙われぬはずが無く、普通の娘なら、それを想像しただけで気を喪ってしまいそうな恐怖だった。
気の強さで知られた玉吉も、さすがに顔面蒼白でそれに耐えていた。
ちなみに、”恐怖のあまり腰を抜かして座りションベンをして、もう一つの汚いモノまで漏らした!!”と、涼太郎に決めつけられたお素は、同心小路の”やと亭”まで送り届けられると、店の奥のお茶の間に敷かれた蒲団の上で、恐怖のあまり震え続け、譫言(うわごと)を言い続けたという。
その一方、お直の方は、お素を”やと亭”まで送り続けると、直ぐに信慶寺近くの同心、十手小者、村人たちの溜まり場にとって返すと、すぐさま臨時の炊き出しを始め、梅干しや昆布の佃煮の握り飯、葱と麩の味噌汁、番茶と沢庵などを用意し、評価を上げたのだった。
特に、大皿の上に輪切りの沢庵を並べ、その上に緋色のちぎり唐辛子を撒き散らしたもの、緋色と大根(沢庵)は、緋とだの沢庵、飛騨沢庵と呼ばれ、この後、松藻斗の内外で流行ったものなのであるが、それはまた後の話。
やがて火皿が左の、左利き用の火縄銃を手にした玉吉は、顔面蒼白のまま、飛騨の山犬三兄弟が立て籠っている新慶寺に向かって歩き始めた。
西の空が、あるぷすの山々の峰が赤く染まり、日没が、暮れ六つが近いことを教えていた……。
※ あるぷす同心捕物控 第二章 湯の町三助玉吉の恋 ㉒ に続く。