あーあ、今日はもう終いにしようか……。
同心小路のお素は、そう独り言ちていた。
今日は遇数日。
氷室陽之進さまも来ない日だし、穂高凌雲先生も所要で来ないと分かっているし……。
今日もお直ちゃんは張り切っているし、子供たちを使って湯も沸かしている。
遇の日は、陽之進さまはお直ちゃんの店でお酒を飲む日。
以前は銭湯に入ってからそうしていたけど、最近、お直ちゃんも店”ちゃん娘亭”では大工を入れて内風呂を沸かすようになった。
出仕を終えた陽之進さまに一風呂浴びてもらい、その湯上りにお直ちゃんが酒と心尽くしの料理を出す……。
まるで女房気取りと囁かされるほどの噂が立つほどだった。
だが、同心小路の子供たち、特に、お文らのような朋信堂の新米手習い子にはありがたい日だった。
桶を洗い、新しい水を張り、湯を沸かす。
いや、その前に、残り湯を少し温めて湯を浴びる……。
それまで、松藻斗郊外の無人のお堂で雨露をしのいでいた子らにとって、湯銭は要らず、握り飯と湯たんぽの湯にありつけるその手伝いは、正に命綱ともいえるものだった。
お直ちゃんの店は、稼ぎがいいからなあ……。
野菜と豆腐料理だけのウチと違って、魚や鳥の肉も出せるし、相撲部屋仕込みのちゃんこ屋という売りもあるからなあ。
なにせお直ちゃんの父親は花のお江戸の相撲取り。
お相撲の方はまるっきしだったらしいけど、両国仕込み、相撲部屋仕込みという売り物もあるしなァ……。
一度中風で倒れたといっても、軽く済んでもう大丈夫みたいだし、その上、その間包丁を握っていたお直ちゃんが腕を上げたとみるや、すべてを娘に譲って裏方に回って……。
アレは単なる怠け者だってお直ちゃんは言ってるけど、ほんとに羨ましい。
私なんかいつまでも半人前だし、その上、ふた親してお伊勢参りに出かけちゃうし……。
それでもお素は何とかやと亭を切り盛りしようと、陽之進の勧めもあって、房楊枝を売ったりもした。
だが、それもこのところサッパリだった。
お江戸と違って、房楊枝は自分で手作りするものと考えている人がほとんどだし……。
お素は最近すっかり諦めの境地で、朝と昼の店開き以外は、奇数日の夕刻の、陽之進の来店のみを楽しみにしていた。
『お直ねえちゃん、お湯、沸かし終えたよ。だから、約束のお駄賃、おくれ』
隣の店、ちゃん娘亭から子供たちの声が聞こえてきた。
『ああ、いいよ。その代わり、駄菓子屋に行くんなら、小梅ちゃんの朝日堂か、小春ちゃんのタンポポ堂にするんだよ』
『うん、そうするずら』
『もう他の駄菓子屋にゃあ行く気しねえずらよ』
『おや、おかしいね。つい最近まで、あんたら、朝日堂もタンポポ堂もいいけど、遠いからなァって言ってなかったっけ?』
『だって、くま羊羹、食べたいもん』
『クジのくま羊羹、朝日堂かタンポポ堂しか売ってないもんね』
『くま羊羹? クジ羊羹、何なのそれ?』
『お直ねえちゃん、知らないの?』
『くま羊羹、クジ羊羹を知らないなんて遅れてるゥ~~』
『朝日堂の小梅ちゃんとも、タンポポ堂の小春ちゃんとも、幼なじみで手習い仲間だけど、そんなの知らないよ』
そんなの、私だって知らないぞと、お素。
『まあ、いいわ。今度、二人の店に行ってみるから。それより、また遇の日が来たら、風呂桶洗いと水張り、湯沸かし、頼むからね』
『ああ、まかしとき』
『お直ねえちゃんもがんばりなよ、恋の道!』
『子供(ガキ)のくせに生意気言ってんじゃないの!』
……よく言うわ、お直ちゃん。ついこの間まで、同心小路始まって以来の生意気ムスメって呼ばれていたくせに……。
『お父っつぁん、湯加減はどう?』
『ああ、いい塩梅だ)
『よかった。でも、一番風呂は氷室さまですからね。お父っつぁんはその後』
『ああ、わかってるよ。でも、内湯を沸かした日は湯屋まで歩かずに済むからホントに楽ずらなあ』
そうだろうなあ。特に冬の寒い日は、湯屋まで歩くのがほんとにキツそうだもん、お直ちゃんのお父っつぁん。
ああ、ウチの店だって五右衛門風呂を据えるくらいの貯えなら有ったはずなのに……。
当初の話では、お伊勢参りを済ませたら直ぐに松藻斗に帰るとのことだった。
それが、この際、京の都に奈良詣で、大坂に金比羅参りまで行きたいとの便りを読むたびに、ふた親に対する怒りが沸き上がってくるのだった。
それは、繰り返し読んだ、飛騨からの陽之進の便りとは正反対のそれだった。
※ あるぷす同心捕物控 第三章 やっと亭改め……⑥ に続く。