やがて、搦め手廻り同心氷室陽之進たちの前に、町奉行所が用意した桶が六個届けられた。

 それぞれ味噌汁と茶、酒、麺類用のつけ汁、握り飯、おかずの類い、芋の煮付けやひじきの炒り煮、漬物、それに茹でたうどん玉や蕎麦玉がぎっしり入った桶だった。

『よしッ、玉吉、それにお素とお直、この桶をそれぞれふたつずつ持ってくれ』

『はいッ』

『はい』

 玉吉とお直がそう答え、それぞれ桶を手にした。

 玉吉が握り飯とおかずの桶、お直が味噌汁と茶の桶だった。

 だが、お素はその場で、ただ震えるだけだった。

『お素、大丈夫だ。お前を決っして危ない目に遭わせたりはしない。そうなる前に、ここに戻れるようにする、だから安心して役目を果たしてくれ』

『はい……』

 お素はそう答えると、ようやく酒とつけ汁用の桶を手にした。

 ただし、その身の震えは依然と同じ、否、さらに激しいものになっていた。

『さて、涼太郎さん。行きましょうか。まず先頭に涼さん、次にこの私、その後に、玉吉、お直、お素の順です』

『はい』

 松藻斗の町奉行所の見習い同心、湯郷涼太郎はそう答えて庵主様の尼寺の方に歩き出した。

 それに続く陽之進、玉吉、お直、お素。

 だが、お素の身の震えは、収まるどころか一歩ごとに激しくなる一方だった。

 そして……。

『止まれ!! それ以上近付くのは、だちかん!!』

 やがて、その尼寺が実際に見え、その怒声が聞こえた瞬間、されは最高潮に達っし、お素はその場に桶ふたつを置き、腰を抜かしたようにその場にへたり込んでいた。

 後に松藻斗内外に、”お素の座りションベン”という噂が、伝説が流布される元の事件だった。

『約束した食べ物と汁、お茶などが入った桶を六っつ持ってきました。これと引き換えに、庵主様と女の児たちを解き放していただきたいのです』

『ダメだッ!! それだけじゃ駄目だッ!! 種子島三挺はどうしたッ!! 銭と馬はどうしたッ!!』

『松藻斗藩は貧乏藩です。すべて用意するには時がかかります。ですが、火縄銃三挺は暮れ六つ前に用意出来ます』

『何、本当かッ!? そのうち一挺は、火皿が左のモノだぞ?』

『はい。藩の武器庫に一挺だけそれがございました。ただし、それを渡すにはいろいろと段取りだあり、お渡しするのは暮れ六つ前になります』

『よし。それなら待ってやるッ。その代わり、その食べ物と飲み物を直ぐに持って来い!! ただし、持って来るのは男は駄目だ。そこにいる娘たちに持って来させるんだッ!!』

『そ、それは出来ません』

『何!? 出来ないとは何だッ!!』

『涼さん、出来ないは禁句です』

『ここに居る松藻斗の町娘三人は皆臆病者……。そのうちの一人は怖ろしさの余り腰を抜かしてしまいました。ですから、ここからそちらまでは、そこにいる女の児たちの手を借りて運びたいのです』

『なんだと?』

『湯郷さま。ここからはこの玉吉が話します』

 玉吉はそう言うと、ぐいと前面に出ていた。

『あッ、お玉ねえちゃんだッ』

『お玉ねえちゃん、助けてッ!』

『お玉ねえちゃん、庵主様が大変だよッ、早く助けてッ!!』

 お玉の姿を見た女児たちが一斉にそう叫び、同時に、『うるさいッ、靜かにしろッ!!』という声と、ビンタする音が続けざまに聞こえた。

 一斉に泣き出す女児たち。

 そんな女児たちには同情せざるを得ないのだが……。

 玉吉は、娘姿の時はお玉ねえちゃんと呼べと徹底しておいてよかったと、胸をなで下ろしていた。

 こんな時、玉吉兄ちゃん、などと呼ばれていたらブチ壊しだったと胸をなで下ろしていた。

 

 

※ あるぷす同心捕物控 第二章 湯の街三助・玉吉の恋⑮ に続く。