ヨーロッパにおける封建制度の成立過程とその特徴 | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

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慶應義塾大学文学部( 英米文学専攻・通信教育課程)を卒業後、『ハムレット』を研究。小説、ノンフィクションの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。ライター。

          臣従儀礼(オマージュ)エドモンド・レイトン

 

 

1.ヨーロッパにおける封建制度の成立過程

 

 9-10世紀の無政府時代を通じて昔の王朝制度に代わる封建制度が成立するが、その制度はローマ末期の社会とゲルマン社会との両方に起源する。ローマ時代に主君が家臣に土地を与える恩貸地制(ベネフィキウム)、つまり封土の授与を媒介に主君と家臣とのあいだに保護・忠誠関係が生じる主従関係に類似した制度は、民族大移動期をへてメロヴィング朝時代に一般化していく。

 

 シャルルマーニュ(カール大帝)の帝国(カロリンガ朝)のころは、すでに戦士たちのあいだには、主従の間柄をとりきめる原則がいちおうは確立されていた。戦地におもむくものは、戦場指揮官たる主君と契約を結び、忠誠を近い、その代償として主君は保護を与え、また所領の一部を分け与えて、暮らしと戦力とを給養させたのだった。家臣は自分の主君としか直接関係をもたず、自己の安全を確保するために頼みになる勇士や実力をも領主に自分の運命を委ね、その指揮のもとに戦いぬくより他に道がなかった。

 

 主従の誓約は両者を固く結びつけるが、そのどちらが死んでも関係は切れてしまう。寄進者の子は他の主君を選ぶことができ、同様に主君の子は父の家臣を拒否することもできる。初期カロリンガ時代には家臣は世襲的でなく、従って主君が死ぬと解放されて、また自由人になった。このように、封関係はもともと当事者相互間の個人契約である。だから、一個の領主が複数の上級領主(封主)をもつこともありえた。しかも、家臣の家臣は家臣ではない。家臣の家臣(陪臣)は、その封主の主君に対して誠実の義務を負わないのである。さらにいえば、もともと当事者相互間の契約だから、伯が一領主に、王が伯に、王が一司教に臣従してもすこしもおかしいことではない。

 

 シャルルマーニュはこの主従制度を国家に役立てようとした。つまり、王からの命により領主自身が軍隊に加わった場合には、家臣は領主の命令の下に戦った。領主は部下が召集に応じなければ、それに代わる徴兵税を支払った。家臣が国王の代理人である伯の直接の指揮下に移ったのは、領主がいない時だけであった。また、領主らには家臣を王の裁判に出廷させる責任を求められるが、実力ある領主は家臣を出廷させるよりも自分で裁くほうを選んだ。シャルルマニューはメロヴィンガ時代においてまだ社会現象にとどまっていた主従関係を法規の中に位置づけ、その内容を主従双方に義務的なものとし、これを統治の手段とした。

 

 職禄も初めのうちは家臣であると同様に終身的であったが、家臣が自分の子に財産を残そうとするのは自然の情である。「《給地》が行われるや否や、子が父の誠実関係を相続する関心はほとんど抗しがたい力を発揮した。オマージュを拒否すること、あるいはそれが受容されられないことは、いずれも封土とともに父の家産の大部分を、さらにはその家産の全部を失うことであった。」(注1)

 

 他方、領主にとっても家臣の子が父と同様に自分に仕えてくれるのは好ましいことで、こうなると職禄をうける家臣と、それを与える側の領主との契約は土地の中に深く根をおろし、土地を媒体として崩れ難くなる。このように家臣と職禄は結ばれることによって職禄と職務そのものも王をめぐってたちまち同化し、世襲化してくる。更に重要なことは、公や伯までを王が家臣と考えるようになることである。公や伯の役職という一つの言葉が役目と職禄とを同時に指し示すことになる。こうして役目としての公務は土地である職禄の地位に下落してしまう。重要なことは、その役目ではなくて、その報酬、つまり職禄である。

 

 領主は世襲制にたいして強情に敵対することはなかった。なぜなら、なによりも家臣を必要としていたからである。すでに自己に仕えたことのある家臣の子孫の間から家臣を補充することが最も良かったであろう。父の封土を子に拒否すれば、新しい誠実関係を弱まらせる危険ばかりか、もっと重大なことには、自分の子孫の将来の運命についてまさに憂慮している他の家臣たちに不満を覚えさせる危険もあった。

 

 世襲制がこのようにでき上がると職禄は封土と呼ばれることになる。それは新しい制度、すなわち封建制度の名の由来となる。封土ははじめフランスの中部、南部に現われるが、11世紀になるといたるところに見出される。カロリング朝は家臣をえらび伯を指名することをやめる。家臣と伯は王権に対して自分らの利益を主張する勢力になる。それでもなお厳格に言えば彼らは王権の代行者なのであって、王は転任可能の官吏の代わりに世襲的な官吏を使っているということもできる。しかし伯は次第に官吏の性格を失ってゆく。伯は代行ということで国家から奪った権利を自分のものにする。

 

 同じような主従関係が王と教会の間にもできる。王は大修院を管理し、王が任命した大修院長らは王の家臣となり、司教座が空位になると新しい司教が着任するまでの間、教会領を管理する。司教は王から領地をうけると、最初はその領地のために、後にはその司教座のために忠誠の誓約をする。その誓約の前には寄進の行為がある。シャルル2世はこの動きを軌道にのせ、たとえば869年、シャルル2世は自分が土地を与えたものだけでなく、国家の官吏、司教、大修院長まで家臣としている。

 

 他方、王に任命された伯は伯でそれぞれ部下をもつ。伯から土地をもらったものは伯の家臣、つまり王から見れば陪臣ということになる。職務の階級制は家臣の階級制となる。シャルルマーニュはその身柄に国家の元首の権威と、至高の主君の権威とを結び合わせている。彼は789年と802年に勅令を出して、フランク王国のすべての自由人が自分への忠誠宣誓を行うように命じたのであった。この段階になると、国王への忠誠宣誓は国家的統治の原理といってよいような重みをもつことになる。

 

 西暦1000年前後に託身と宣誓によって生まれた主従関係に、主君が従士に勤務の対価として、土地その他の財産(知行)を与える習慣が一対のものとして結びついたとき、いわゆる古典的封建制が誕生したのである。「その時期は1050年ごろとされている」。(注2)

 

2.ヨーロッパの封建制の特徴

 

 ヨーロッパ封建制の第1の特徴は領主制にある。地域支配の実権を握っていたのは領主であった。彼らは国王から封土を与えられ、領主裁判権をもってその他の農民を支配していた。国王もまた領主のなかのひとりにすぎず、その権力は他の領主以上に大きな領地(王領地)をもつことによって支えられていた。軍事的には領主の家臣団により、財政的にも王領地からの収入以外はさまざまな名目の領主からの上納金によって支えられていたのであり、国王が直接に国民から租税をとりたてるというのは例外的な場合にかぎられていた。このように領主が行政、司法、課税の権利をもつことが領主制の得質であり、これは不輸不入権(インムニテート)といわれている。

 

 第2に、封建領主と騎士の間の封建関係は、日本の主従関係(特に徳川封建社会)と比べて似て非なるものであった。主君と家臣は対等で、実質的には両者の別のはっきりしないことが少なくなかった。どちらもたくさんの封建関係を結び、主君は家臣を、家臣は主君をいくらでももつことができた。したがって、このような封建関係がいくらつながっても、国王を頂点とするピラミッド型の支配組織をつくることは不可能である。日本の将軍とちがい、国王は最高の主君でいかなる人物の封建家臣にもならないとの原則が確立し難く、国王自身が教会、修道院領主の封建家臣になることも珍しくなかった。まさしく「ドライな契約関係」(注3)で貫かれた社会といえる。封建社会に特有の人間的紐帯は、すぐ身近な首長に対する従属者の人間的紐帯であった。このように一段一段と形成された結び目は、最も卑賤の者を最も有力な者に無限に分岐した鎖でつなぐように結びつけていた。土地自体が貴重な富に見えていたのも、土地が人々に対する報酬となることによって従属者を獲得することを許したからに他ならない。要するに、ヨーロッパでは日本と違って、封建制と国家は結びつくことはなかった。ヨーロッパのあちこちに独立の権力主体たる封建領主が成長し、それらの封建領主がばらばらの封建契約を結んでいるのが、封建時代の特色である。イギリス、フランス両国王を主君としたフランスの封建領主をはじめ、いく人もの主君を同時にもつ封建領主が国境地帯に多いのは、そのためである。「日本の封建制が国家的封建制だとすれば、ヨーロッパのそれは国際的封建制になる」。(注4)

 

 第3に、「ヨーロッパ封建社会は、階層化社会であるよりは不平等社会であり、貴族の社会であるよりは首長の社会であり、奴隷制社会でなくして農奴制社会であった」。(注5)

 

 第4に、混沌とした中世を襲った戦争や病気や飢饉、貧困を封建制度という枠で締め付けることによって一定の秩序を維持した。反面、封建制度は社会の固定、閉鎖性、沈滞をもたらし、そのことが社会の発展を妨げたことも事実である、しかし都市は例外であった。ローマ帝国の時代の征服地に都市がつくられたが、それらは主として軍事的な支配の拠点という性格のものであった。これにたいして中世の都市は貿易や商業にたずさわる商人たちが、比較的治安のよい諸侯の城や居住地、あるいは修道院領などにあつまってきてつくりあげたものであって、国王は諸侯の権力をおさえるために商人の財政力を利用しようとし、特許状を与えて自治をみとめ、領主への年貢は免除されてその代わりに国王へ租税をおさめた。王と都市民との利益が一致し、特許状を得た都市は、自治権にもとづいて都市法や自治のための政治機関をつくった。こうした都市民がゆくゆく市民階級に成長をし、都市が発達することは封建社会をつき崩す一因になるのである。

 

<引用注>

1 マルク1、171頁。

2 佐藤、池上、192頁。

3 鯖田、128頁。

4 上掲書、130頁。

5 マルク2、156頁。

 

<文献表>

*マルク・ブロック著/新村猛、森岡敬一郎、大高順雄、神沢栄三訳(1978)、『封建社会 2』、みすず書房

*鯖田豊之著(1989)、『世界の歴史9 ヨーロッパ中世』、河出書房新社

*佐藤彰一、池上俊一著(2008)、『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』、中公文庫

*堀越孝一著(2006)、『中世ヨーロッパの歴史』、講談社学術文庫

*近山金次(1972)、『西洋史概説Ⅰ』、慶應義塾大学通信教育部