シャールマン(カール大帝)が果たした歴史的役割 | 文字の風景

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慶應義塾大学文学部 英米文学専攻(通信教育課程)を卒業後、シェイクスピア『ハムレット』の研究に専念しながら、小説、ノンフィクションなどの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。

     

 

   カール大帝(Karl der GroBe, 742~814)は、ブリテンを除く西ヨーロッパをほぼ支配下におさめ、800年に教皇レオ3世からローマ帝国の帝冠を受けた。カールの戴冠はヨーロッパ中世世界の成立を意味し、彼の指導による一連の文芸復興運動はのちに「カロリング・ルネサンス」と呼ばれるほど重要なものとなる。

   本稿ではカール戴冠の政治的・文化的・宗教的意義について考察する。

 

1.   カロリング朝の発展とカール大帝

 

 カロリング王朝の最初の王ピピンが他界(768)すると、王国は2人の息子が相続したが弟カールマンの突然の死(771)によって、カール大帝(フランク王768-814、西ローマ皇帝800-814)は単独で全フランク王国の支配者となった。カールの生涯の大部を占める征服行は、まず異教徒ザクセン人に向けられ、(772)その戦役は数次にわたり続けられた。774年には北イタリアのランゴバルド王国を征服し、その後、バイエルンなどの隣接部族の制圧(788)、ドナウ川流域から進出してきたアヴァール族の撃退(795)などによって、カールは800年の皇帝戴冠の前までにフランク王国を多民族国家、多言語国家として一大帝国に築き上げていた。このような国家を束ねる指導原理は、王個人に対する忠誠心とキリスト教であった。特にキリスト教はこの王国の指導理念としてきわめて重要であった。

 

 そのために、カールはカトリック信仰の擁護(異端の撲滅)、民衆教化、異教徒の改宗をすすめ、ビザンツ(東ローマ)帝国に対峙する正統信仰の擁護者としての役割を担ったのである。そのことがもっともはっきり現れているのが、789年に発布された「一般訓令」である。ここには、国家理念の基本方針を定め、フランク王国の臣民たちにキリスト教というアイデンティティを与えようとし、さらに旧約聖書にならった宗教共同体としての国家建設の推進を宣言し、かつ一般臣民宣誓により国王と臣民の結びつきの強化や反乱の防止が試みられた。

 

 「一般訓令」は民衆教化の基調をなす理念であり、また、異教徒の改宗はザクセン戦争の目的の一つでもあり、カトリック信仰の擁護(異端の撲滅)は、特に790年代に入って、カールの政策のなかで強く意識されるようになった。

こうしたなかで、教皇レオ3世(在位795-816)が800年のクリスマスにローマでフランク王カール1世(大帝)を西方世界の守護者として戴冠したとき、西ローマ皇帝が蘇った。この戴冠の政治的、文化的、宗教的意義について次に述べる。

 

2.   カールの戴冠の政治的、文化的、宗教的意義について

 

2-1 政治的意義について

 ローマ教皇はビザンツ皇帝と特に聖画像問題において鋭く対立してきた。ユダヤ教・イスラム教にみられるように、オリエント世界では「聖像崇拝」は堅く禁じられ、これに対してギリシア・ローマの神々は人間の姿に描かれていた。それゆえ、「聖像崇拝」をめぐる対立は、オリエント世界に起源を持つキリスト教がギリシア化してゆく過程における、オリエント的要素とギリシア的要素の対立とも考えることができた。このビザンツ皇帝との対決とともに、799年4月末のローマ教皇に対する流血の惨事となった謀叛も重なって苦境に陥ったレオは、ビザンツ帝国と決別し、西方の実力者カールとともに、新しいローマ帝国を建設する道を選んだ。それが、カールの皇帝戴冠である。それは西欧カトリックの世界の成立を象徴する事件であった。

 

 つまり、ローマとフランク王国の同盟関係を中軸とする政治・宗教共同体の形成が、明確な形で宣言されたことである。政治的には、フランク王国がビザンツ帝国と対等な地位を持ち、一国の中に教皇権(教権)と皇帝権(俗権)が並立する、二極構造を持つ西欧封建社会が成立したのであった。そのことは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱していた西ヨーロッパ世界がビザンツ帝国に対抗できる一つの政治的勢力としてまとまり、東ローマ帝国から独立し、西ヨーロッパ世界の誕生を告げるものであった。その意味から、ゲルマン(フランク)人であるカール大帝に与えられたのは、西ローマ皇帝の帝冠であり、これによって「西ローマ帝国」が復活したとみなしている。

 

 2-2 文化的意義について

 自分たちがローマ・カトリック世界を担っているというカールの強い自負心は、文化面にも大きな影響を及ぼした。社会全体をキリスト教の精神で満たすためには、まず聖職者の質を向上させる必要があった。カールとその側近たちが当初目指していたのは「正しさ」であった。正しいキリスト教社会を作りあげるために聖職者のラテン語能力の向上が不可欠であった。カールは、いまだ多くの聖職者の教養水準が低く、ラテン語を十分習得していないことに強い危機感を抱き、聖職者たちに学芸を奨励した。カールはすでに789年の「一般訓令」のなかで、教育の必要性を強調したが、同じ頃に書かれたものと思われる「一般書簡」とよばれる回状でも、学問の重要性を聖職者たちに説き、学問を奨励した。こうして、多くの写本が作られるようになり、神学的な著作から詩や歴史叙述にいたるまで、多様な作品が書かれるようになった。

 

 こうした流れは、イタリア、スペイン、イングランドなど、ギリシア、ローマの古典を継承蓄積した周辺地域からフランク王国へ人と知識が流入し、8世紀から9世紀初頭にかけて首都アーヘンの宮廷や大修道院を中心にカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化運動をつくりだした。その中心となったのは、カールに招かれたイングランドの神学者のアルクインであった。彼は当時の第一級の教養人であっただけでなく、現実の政治に大きな影響を及ぼした政治思想家であり、一時期はカールの最も有能なブレーンでもあり、時にカールに苦言を呈することもあった。

 

 ゲルマン民族の侵攻とゲルマン系国家の乱立により、西ヨーロッパはローマ帝国の版図ではなくなるが理念的には西ヨーロッパはローマ帝国領であり、ゲルマン系国家の政治的正統性はなかった。しかし、カールの戴冠によって、フランク王=西ローマ皇帝となり、フランク王国が西ローマ帝国の後継国家となった。西ヨーロッパは、ギリシア・ローマの古典文化の要素とキリスト教的要素に、新たにゲルマン的要素が加わり、ヨーロッパ文化圏が成立したということでもある。したがって、カールの皇帝戴冠は、けっして西ローマ帝国の復帰ではく、むしろ、新しい歴史的アイデンティティの創出である。西ヨーロッパ世界が宗教的にはカトリック世界としてまとまった世界を形成し、ヨーロッパ人のメンタリティはキリスト教によってはぐくまれ、ロマネスクやゴシックの建築、スコラ哲学という文化を創造していくのである。

 

2-3 宗教的意義について

 カールは、780年代後半に<正統信仰の擁護・民衆教化・異教徒の改宗>を国家理念の基本に据えた。キリスト教世界の盟主としての立場を自覚するカールにとって、フランク王国とビザンツ帝国との対立は単なる覇権争いではなく、ビザンツ皇帝は打倒すべき異端の信奉者に他ならなかった。

 

 一方、ローマ教会はコンスタンティノープル(ビザンツ)教会とキリスト教界を二分する勢力を得たことによってローマ教皇の権威も高まることになった。ローマ教皇は、コンスタンティノープル教会とイスラーム勢力に対抗するためにもフランク王国と手を組むことを望み、フランク王国はローマ教会の権威をうしろだてとすることで、自らの権勢を増大させることをねらったのだった。皇帝戴冠によってローマ教会とフランク王国との提携は頂点に達し、ローマ教皇がヨーロッパのキリスト教界の宗教上の指導者であるとすれば、フランク国王カールは政治上の指導者となった。

 

 カールの皇帝戴冠は、キリスト教世界が東方ビザンツと西方カトリック世界とに分断されたことを示す出来事であり、同じキリスト教世界であるにもかかわらず、両者はこれ以降、決定的に別の道を歩み始める。それは同時に、地中海世界の解体からヨーロッパ中世世界が成立したことを意味する。「(戴冠によって)東西両教会の分離の流れをもはや押しとどめることはできなかった。(中略)こうして、9世紀頃までにギリシア正教世界の政治的中心としてのビザンツ世界と、ローマ・カトリック世界の分離が決定づけられた((註1))」。それは皇帝と教皇の二つの最高権威のもとにローマ・キリスト教・ゲルマン諸要素を総合した共通性と異質性、一体性と多様性をあわせもつ世界であった。

 

 以上から明らかなように、神によって皇帝に選ばれ、そのことがローマ教皇の司る儀式によって皇帝の称号を得たカールは、まさに「ヨーロッパの父」となったのである。この時代のヨーロッパとは、ローマ教皇の宗教的権威を認めるカトリック世界に他ならなかった。カールは、西方キリスト教世界を政治的にも宗教的にも東方世界から自立させた。そして、それはキリスト教共同体の未来を常に考えていた君主のひとつの到達点であった。カトリック信仰を共有する人々の、はっきりとした輪郭をもった政治的共同体は、こうして生まれた。「カールの皇帝戴冠─それは、政治的・宗教的共同体としての<ヨーロッパ>誕生の瞬間である。長い間の胎児期を経て、ついに<ヨーロッパ>は産声をあげたのである」(註2)。

 

    歴史家エギナルドは、カールがこの戴冠式を予知していたら「その日に教会へは入らなかったろうと述懐したと言う。少なくとも、この動きが教皇の側から積極的に生み出されたものであることはそれで表明されている」(註3)と伝えている。他の文献においてもこのように見る説が多い。そうした中で、「明らかにこれは事実に反する。フランク宮廷とローマ教皇の事前の合意がなくて、どうして戴冠式を行うことができようか。(中略)権力者が高い称号を付与される場合、一度それを拒む態度を示すのは、伝統的な美風であった((註4))。」との論があり、私自身、皇帝戴冠の経緯をたどることで、謙譲の美徳を説く、この論に強く共鳴するものがあった。

 

<引用註> 

1 服部良久、他 181頁。

2 五十嵐修 179頁。

3 近山金次  61頁。

4 五十嵐修 175頁。

 

<文献表>

・五十嵐修(2001)、『地上の夢キリスト教帝国』、講談社 

・服部良久、南川高志、山辺規子(2008)、『大学で学ぶ西洋史〔古代・中世〕』、ミネルヴァ書房 

・近山金次(2010)、『西洋史概説Ⅰ』、慶應義塾大学出版会