無意味な仕事=ブルシットジョブ | tokaiama20のブログ

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 1年近く前に、現代ビジネスに面白い記事が出たので主題にしたブログを書いた。
 現代ビジネスは、瀬尾傑という金儲けにしか興味のない新自由主義者が編集長に就任してからというもの、寄稿者は右翼系の長谷川幸洋や川口恵美、「日本は中国に負ける」と繰り返す近藤大介とか、大きくピントの外れた人物ばかりを重用し、現代ビジネスを価値あるメディアとして色彩を与えてきた魚住昭や、古賀茂明らを事実上追放してしまっている。
 自民党の機関誌に変貌するのも時間の問題かもしれない。

 「人口激減ニッポンが大復活を遂げるには「労働生産性を向上させる」しかない……正反対なんだってば 2023年05月08日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6035382.html

 私が言いたいことは、上のリンク内に「イチャモン」としてすべて明らかにしている。 「ブルシットジョブ」を言う人は、必ず上昇志向者で、人類の未来は成長と繁栄しか存在しないと勘違いしている競争主義に囚われた人ばかりだ。
 彼らは、「人の幸せ」とは金儲けにあるとしか考えていないのが特徴だ。

 今の日本資本主義、企業のトップは、ほぼ全員が、新自由主義に洗脳されていて、私のように底辺で不足生活に喘いできた人間から見れば、「豊かな人生=価値ある人生」という価値観がまったく理解できない人ばかりだ。
 人生が何のためにあるのか、まるで理解していない。だから人にとっての幸せの意味も理解できない。
 幼い頃から洗脳されてきた「競争に勝つ」ことが人生の至上命題であるとすり込まれてしまっている。

 地位と権力、蓄財を得て、ブランドものを身につけ、美人妻・イケメン夫を娶り、高級車に乗り、豪邸に住むことだけが人生の目的だと思い込まされ、ホームレス救済や震災被災者にボランティアに行くなど、とんでもない愚行だと思い込んでいる。
 人間の連帯を、理解できないのだ。

 今日、現代ビジネスを覗いたら、再び同じタイトル(ブルシットジョブ)が出ていたので紹介する。

 2024.03.09 なぜ世界のあちこちで「無意味な仕事」が増えてしまったのか、その構造を解説する
 https://gendai.media/articles/-/125387

 なぜ効率化や合理化が進む世界で、「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」が増えているのか? ブルシット・ジョブにはどのような種類があるのか? ブルシット・ジョブ現象に対して私たちはどうすればいいのか?

 「経営封建制」というキーワード
 ここではBSJ増殖の原因を考えます。とはいえ、強調しておきたいのは、たとえば、資本主義がBSJを生んだ、とか支配層がBSJを構想してそれを流布したというような、強い因果関係が設定されているのではないという点です。

 おおまかにいえば「いろんな偶然が重なっているなかでいろんな力がうごめき、バトルや試行錯誤がくり返されながら、ある方向に流れていく」。陰謀論がまちがっているのは、だれかが世界を好きなように動かしているわけではないからです。そのように世界は単純に動くわけではありません。

 でも同時に、陰謀論がある意味正しいのは、あちこちで偶然に起きた出来事を「これは都合がいいや」と取捨選択する意志はあるからなのです。20世紀後半にニーチェの影響のもとに発展した権力分析は、バトルがくり広げられる「現実」というアリーナで、特定の支配への意志がどのように意味や価値観を生みだしながらみずからを貫徹するかを考える、いわば「偶発的因果性」の議論を発展させました。グレーバーのここでの議論も、おおよそそうしたレベルのものであると考えてください。

それをふまえたうえで、ここではまず「経営封建制(managerial feudalism)」というキーワードをとりあげます。
 この概念だけでなく、『ブルシット・ジョブ』では封建制にかかわる概念やイメージが奔放に利用されています。どういうことでしょうか?

 グローバリゼーションとともに、かつてよく「中世への回帰」ということがいわれました(主権国家が相対的に衰弱して、それ以外のアクター──巨大超国籍企業、国際官僚機構とかNGOなどです──がそれに匹敵する力をもって並列をはじめた、といった意味です)。
 それとおなじようなことがいわれているのでしょうか?あるいは、わたしたちの社会が退化しているということをいっているのでしょうか?

 グレーバーが経営封建制とかそれ以外の封建制のイメージを使用するとき、それは実は概念的に厳密な意味をもっています。そのような厳密な定義をふまえ、かれはある程度の理論的裏づけをもってBSJの増殖と封建制的要素を関連づけているのです。

 封建制でいうと、まずBSJの第一類型の「取り巻き」があきらかに封建制のイメージでしたよね。この分類は「封建的家臣」といいかえてもいいといってました。
 とにかく、歴史を通して、権力者とか富裕者というものは、じぶんを取り巻きでかこみたがるものでした。みずからのその力を誇示したいとき、威厳を示したいとき、人はまわりに飾りのような者をはべらせます。たいていは具体的な仕事をもっている奉公人だったりするわけですが、ただ突っ立ってそれこそ「映え」のためだけにいる人間もいます。

 いずれにしても、「本当に肝心だったこととは、きらびやかな制服をまとわせた見栄えする若者たちを召し抱えることにほかならなかった」。古代の権力者の墓を発掘すると、そこに人身御供がともに埋葬されているのが発見されることがよくあります。生身の人間でない場合は、人間や動物の模造がいっしょに葬られています。そこまで権力と「取り巻き」とは不可分であるのです。

 そういえば「トロフィーワイフ」なんていう言葉も、富や権力を手中にした男性がその「取り巻き」として妻をうるということを意味しています。「こうした役目は、レント[ひとまず地代と考えてください]の徴収と掠奪品の再分配に基盤をおいた経済においては増殖する傾向にある」と、すでにグレーバーは第二章でこうコメントしています。これがとくに第五章で展開されるのです。いま少し先走っていっておくと、いまの資本主義は「レントの徴収と略奪品の再分配に基盤をおく」、だから封建制と似ているのだ、といいたいのです。

 ここでグレーバーはヨーロッパ中世社会をあげて思考実験をしています。それを少しトレースしてみます。

 あなたが、荒々しい中世社会に生きているとしましょう。そこで、あなたはちょっとした土地をあなたの君主から預かって支配している領主です。「五公五民」がこの時代のおおよその平均で、すべての農民世帯から生産物の50%を年貢として徴収しています。あなたのもとには相当の量の食糧の蓄えがあります。農民全員を食わせていくことのできる量なわけですから。あなたは、それをなにかに使わなければなりません。

 といっても、料理人とか酒造り、音楽家や演芸師、刀鍛冶、医者などのように、とにかく必要であろう仕事をさせる人間を雇います。そして、強大な兵力をもつ油断のならない寺社勢力や隣国の動きを牽制して、かついざというときに戦争するために、男たちに武器を与え配下として訓練させます。

 しかし、それでもまだ膨大な食糧が余っています。食糧があるがゆえに、あなたの屋敷のまわりには、貧者や逃亡者、孤児、犯罪者、病で家を追い出された女性などなどの根無し草的群衆がほどこしをもとめて集まってきます。追っ払ってもいいのですが、そうすると騒動の種になるかもしれないし、敵対勢力とつながって痛い目にあうかもしれない。

 とすると、あなたはどうするか。その人間たちになにかじぶんの配下にあることを示すちゃんとした着物を着せ、どうでもいい仕事を割り当てます。そうすると、かれらを管理することもできるし、いっぽうで、じぶんがよい領主にもみえるのです。

 こう考えると、もう少し具体的イメージがわくかもしれません。たとえば、ラテンアメリカの植民地の大土地所有者は大規模プランテーションを経営していました。そしてたいてい、不在地主でした。だから、その経営管理には人手がいります。しかるに、植民地には本国で食いつめた犯罪者まがい、あるいはほんものの犯罪者たちがうようよしていました。プランテーション経営者は、かれらを奴隷の管理人として雇いました。

 もちろん、日本にも似たような事例がみられます。秩序の外の人たち、すなわち放浪者や犯罪者、追放された異端者などを管理者、つまり秩序の番人にするという発想は、権力者にとっては一挙両得のおもいつきやすい方法なのですね。
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 引用以上

 ずいぶん抽象的でわかりにくい文章なのだが、早い話、「ブルシットジョブ」というのは、「権力の体裁を整えることを目的に、無駄で危険な人々を身近に生活させること」と言いたいように思える。
 国家が衰退し、代わって巨大企業が力を持ってくると、国家の官僚統制に代わって企業にも、自身のシステムを守るための統制システムが必要になる。このとき、無駄を承知で、敵対するかもしれない民衆を召し抱えるというような意味だろうか?

 ならば、ブルショットジョブ=無駄な仕事(雇傭?)の本当の目的は、中世の封建領主が、領地領民を安定させるための無駄な統制システムと同じもの、ということかもしれない。
 企業は無駄であることを承知で、社員にろくでもない仕事を与えているということか?

 この文章は、上の方にリンクした以前のブルショットジョブと違って、「無駄な仕事を効率化して金儲けに邁進しよう」という趣旨ではなく、社員に無駄な仕事を与えておかないと、企業としての体裁メンツが成立しないと言いたいようにも思える。

 もしかしたら、それはダボス会議が提唱している「スーパーシティ」での人間管理を意味しているのかもしれない。
 スーパーシティでの仕事は、たぶん、すべてブルシットジョブなのだ。
 それは管理されるだけで、本当に生産的なイノベーションなど、どこにも存在しない。
 何もかもAIの指示通りの生活が与えられるだけだ。

 AIが極度に発達してくると、実は、もう人間はAIシステムの管理作業以外の仕事がない。だが、それでは雇傭も企業も成立できなくなる。
 人間社会の主役がAIに完全に移行してしまって、人間に与えられる仕事は、どうでもいいブルシットジョブだけになってしまう。

 たぶん、AIの管理システムもAI自身が担うことになるので、もう人間が本当の必要に迫られて行う仕事はどこにもないということになる。
 だけど、それだと仕事を失った人間集団は、イノベーションや主体性への渇望から、社会をいじり倒そうと暴走する危険集団に変貌してゆく。
 ちょうどバブル時代の暴走族を思い出せばいい。人は欲求不満が蓄積すると暴走する性質を持っているのである。

 このとき、主体性や創造性を取り戻そうとする人々を弾圧し、システムに縛り付けておくための警察力=統制システムが必要になる。ちょうど中世における番人や兵士のような存在だ。この武装装置は、暴走や反乱のない平和な段階では、文句なしのブルシットジョブなのだが、全体のシステムの守護神として残しておかねばならない。
 上のリンクでは、暴走する危険人物たちそのものを、管理人・警察力として雇傭することを指摘している。

 なんだかSF映画の世界のシーンを見ているようだが、AI社会化が加速してくると、確かに、本末転倒、奇っ怪な倒錯した世界になる可能性は大いにある。
 だが、私は、そんな未来は存在しないと確信している。
 人間は地球の属性であり、あくまでも社会の主役は人間なのだ。この社会はAIを前提にして設計されても、人間を抑圧するものにしかならない。

 人間はAIによる支配を打ち破って、人間性を取り戻すための野生の生活に向かうと私は思う。
 「コンピュータ管理社会など糞食らえ!」
 「与えられたブルシットジョブなどいらない!」
と人々が叫び出すと確信している。

 電気やコンピュータに管理される社会ではなく、木を切って火を炊き、大汗をかきながら畑を耕して食物を生産する。共同して困難を克服し、人の笑顔に癒やされる社会。
 それが本当の人間社会であって、人々が本当に求めるライフスタイルなのだ。

 だから、数年前から大都会の若者は、原始的なキャンプ体験に強く憧れ、うちの近所のキャンプ場は、いつでも満員になっている。
 もうみんな、何もかも指定され用意された管理社会には飽き飽きしているのだ。

 誰が、スーパーシティとやらの畜産施設に飼育され、ブロイラーのように管理され、屠殺される生活を送りたいだろうか?
 私は自由に山を歩き、清冽な清水を飲み、自分で育てた馬鈴薯やサツマイモを食べ、野菜を食べて、友と語り、人々の笑顔に癒やされたいのだ。

 リニア新幹線もいらない。高級車もいらない。美人妻もイケメンもいらない。ブスは三日で慣れるのだ。ただ、子供たちの笑顔溢れる未来が欲しい。
 自民党政権も、ダボス会議(イルミナティ)も、世界を原発電気の管理社会にしたいようだが、それは人類の未来に破滅をもたらすだけの最悪の愚行なのだ。
 
 我々に必要なものは、汗をかいて畑を耕し、自然と調和し、美しい自然と人々の笑顔を守ることである。