極悪「取り立て屋」だった池田大作の死 | tokaiama20のブログ

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 私は、過去に池田大作について何回かブログにした。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5990576.html

 池田大作については、すでに10年以上前に死亡したとの情報が、いくつか流れていた。以下の2012年、2月2日死亡説には真実性がある。
https://srad.jp/submission/88773/

 なぜ、死せる大作を十年以上も生き延びさせたのか? もちろん、池田の残した莫大な資産と創価学会の利権を、誰が受け継ぐかという、後継者争いの決着をつける時間だっただろう。死後11年目に、やっと決着がついたということだ。

 「池田大作」は何だったのか?
 戦後、大田区の海岸沿いで海苔漁を営む成の子で、名は田作(ソン・テジャク)という在日朝鮮人だったといわれる。
 両親は北朝鮮系である可能性が強く、統一教会創始者の文鮮明とは家族のように仲が良かったと書かれている。

 凄惨なほどの貧乏暮らしから脱却するため、戸田城聖らの経営する大倉商事という元祖サラ金企業に就職し、冷酷無慈悲な「取り立て屋」として貧しい人たちから恐れられたいわれる。
 ちょうど、現代ビジネスに関連する記事が出ているので紹介する。

創価学会名誉会長・池田大作――巨大宗教団体の「成り上がり帝王」…その知られざる「実像」 2023.12.02
https://gendai.media/articles/-/119903

村上重良は、池田が、石田次男、竜年光ら青年部の先輩を抜いて、戸田の後継者になり得た理由をこう述べている。

「池田は、戸田門下生の青年部幹部のなかで、戸田の事業面に誰よりも深く関与していたうえに、教団内の有力者である白木家という背景があった。戸田の死去当時には、すでに五年にわたって参謀室長として青年部を指揮し、創価学会の全行動計画に参画していた。
……こういう実績に加えて、理事原島宏治の全面的な支持をうけることに成功した結果といえよう」(村上『創価学会=公明党』)

 これらは、(1)戸田の事業面への関与、(2)白木家という背景、(3)理事・原島宏治の支持、(4)池田個人の才腕、と整理されよう。
 (1)戸田の事業面(大蔵商事)への関与は、前に述べた戸田との密着のほかに、創価学会と財界とのつながりという意味があった。

「(池田の会長就任当時は)まだ財界人の学会シンパはすくなかったけれども、池田大作はその財界人とつながっていた。戸田前会長のウラの金ヅルを池田大作が扱っていたからね」(「雑誌記者が語る公明党出版妨害の手口」、『赤旗』昭和四十五年三月二十九日)

 文中の財界人とは塚本総業の塚本清(素山)を指すものと思われる。塚本は翌三十六年七月、創価学会に顧問制度が新設された際、日蓮正宗法主・細井日達の親戚で、常泉寺の総代でもある平沢益吉とならんで、まっさきに顧問におさまった人物である。

 当時の『聖教新聞』(昭和三十六年八月二日)は彼を次のように紹介している。
「ひとりは塚本清氏で、信仰年数七年有余(昭和二十九年の入信か)。恩師戸田先生からも信頼をうけ、その純真な信心と努力によって、現在、日本でも一流の実業家として築き{ママ}あげてきた人。……
 両氏は、かねがね会長池田先生も深い信頼をおかれていたもので、このほど学会顧問の重職について、今後、活躍されることになったもの」

 塚本は一般にも黒い噂のたえなかった政商として名高いが、彼は大成建設社長・本間嘉平、富士急行社長・堀内光雄等を折伏し、また大野伴睦(や川島正次郎に教えを説き、さらに河野一郎を池田に引きあわせたという(『週刊新潮』昭和四十年五月二十二日号)。
 おそらく戸田と塚本とのつながりのきっかけは、大蔵商事を通してだったろうから、同社の取締役・池田も彼に「深い信頼」を置くほどに親交していたのだ。
が、のちに池田は金をめぐって塚本を切る。

「塚本総業、あの人もいい人だし、私(池田)も守って来ましたが、川島の子分なんだ。それは困るし、学会の会計はどうなってるのだと入りこんでくる。これは、あぶない人間だと思った。学会を利用しようとしてきた。それではまずい。学会を守るようでいて、ついには食い物にする。最後には、いなおって、学会はどうなっているんだ。会長はどうなっているんだ、藤原君わかっているかと、すごんだ。これでは駄目だ。表でいい顔をして、裏では悪いことをする。(略)

 創価学会があって、塚本があるんではなく、塚本があって、創価学会がある。原島さん等が、くやしがった。

 学会のお金は、仏様のお金だよ。それが、塚本あたりが、どうなっているんだと夜中の二時、三時に私の所に電話してくる資格はない。
やくざのようにすごんできた。私がそれを見破って、押し戻せる体制にあったから良かった。私をそうやって、おどかしておいて、女房を早速よこして、先生のお気持を変えてもらうように一生懸命やっていますと言って来て、しばらくして又来る。うまい。千葉の土地の件も利用だ。お山のバスも利用だ。原島理事長も随分、煮湯を飲まされた」(『社長会記録』昭和四十七年二月四日)
 
池田は一時期、塚本から金の運用や情報の利用について学んだと思われる。戸田も事業家ではあったが、いわば街の金融業者、出版業者の域を出ず、戸田晩年時の肥大した会財政には、もう一回り大きな事業上の知識や技術、有力者とのコネ等を必要としたはずだからである。

 創価学会の秘書部長をしていた和泉美代はかつて「池田はおそろしい男だと云った」(同前、昭和四十三年四月二十九日)というが、おそらくそれは金や対人関係における池田の非情さをいったものであろう。
実際、池田は金に関する会内のエキスパートだった。金集め、金の運用、金の使い方、金にからまる人間関係、どれ一つをとっても池田の右に出るものはなく、おそらく戸田の死後、戸田の事業と創価学会の財務については池田にしか経緯がわからず、解決できなかった事柄も多かったにちがいない。

 塚本以外に有力な財界人との交流がなかった当時、塚本との関係はいわば池田の金扱いの象徴であり、会長をめざす池田の強力な後ろダテになったことは想像に難くない。

(2)白木家という背景は、具体的には理事・白木薫次、本部婦人部常任委員・白木静子、参議院議員、大阪総支部長・白木義一郎(池田の会長就任と同時に理事に昇格)をさし、彼らが石田の家族より要職を占めていたことはいうまでもない。
が、あまりに白木薫次の財力を強調することは誤りであろう。彼はとかくいわれるような「実業家」のイメージからはほど遠い、投機的な商品取引会社の常務にすぎなかった。

「二十九年大阪夕陽ヶ丘会館で総会が行われた折、(白木は)突然先生(戸田)から商売のことをたずねられた。上っている旨答えると、先生は『幾日ぐらい連ぞくで、値幅はどれほど上っているか』と状況をきかれた先生は『これは白木君売りだね。売りこしても大丈夫だ』と話された。
白木さんは早速東京の本社に連絡をとった。その翌日から値は下り始め捨て値にまで下落したのである。このお陰で会社はどれほどもうけたかわからないという」(『聖教新聞』昭和三十四年四月十日)
  
 (3)理事・原島宏治の支持は、後に述べる原島の理事長就任が状況証拠となろう。また池田は『人間革命』五で、二十六年の戸田の会長就任式の折りのこととして、原山幸一の名で登場する原島に、「あとは、君が健在であってくれさえすれば、それでいいんだよ」と山本(池田)への囁きをいわせてもいる。
これらはいずれも池田と原島の結託、池田の原島抱きこみを物語ろう。池田は上長者に対しても、目的に応じて自由に接し方を選ぶことができた。青年将校ばりの突き上げも、好人物のいたわりも、すべて池田のレパートリーのうちにあった。

 原島は蒲田の三羽烏の一人であり、小泉隆を折伏し、小泉は辻武寿を折伏するというように信仰の道では三羽烏の筆頭に立つものだったが、戸田時代には小泉の下風に立っていた。彼は教師をしていたが、子沢山で生活に苦しく、一時期、訪問先の灰皿の吸いがらを吸うくらしをしていたと伝えられる。彼は好人物で、金に転ぶような人柄でなかったといわれるものの、前述のように池田から「おごられた」口であることは事実である。

(4)池田個人の才腕については、青年部における有力幹部の抱きかかえ、石田の孤立化、古参幹部の参議院への追い出しなど、前述したとおりだが、それらは彼の知的能力の高さを例証するものではない。指導者に絶対必要とされる才能は、非凡な知性や高貴な性格、独創性などではなく、「図太さ、神聖な大義に対する狂信的な信念、密接な結合した集団性が重要であることの認識、なかんずく有能な副官の一団に熱烈な献身を呼び起こす能力」(ホッファー)である。

 池田は会長就任前に、何度か『聖教新聞』紙上で人物紹介されているが、石田の紹介文に見られるような、知性に言及した記事を知らない。それらはいずれも、「猛烈な闘志に湧く情熱家」「厳しい反面情理を察して」「親身な指導」(昭和二十九年一月二十四日)といった、池田の感性的な側面にふれるものばかりである。

 池田の特性が石田のそれとあざやかな対照を示すのは、前述の小樽問答後の座談会であろう。
 ここでは日蓮宗の日蓮の遺骨と称される霊骨の真偽が問題になり、石田は、日蓮の骨はダビに付されていたが、霊骨は土葬の骨だそうだから偽物だという。

「池田 どっかで埋めたやつを持ってきたんだ、馬の骨か?
 石田 馬じゃ大き過ぎる。
 池田 そんなら猫か、きっと猫だ」(『聖教新聞』昭和三十年八月七日)

 馬では大き過ぎると石田にいわれ、池田は極端に小さい猫に走り、きっと猫だと頭から断定する。池田の論理には、非凡な知性や高貴な性格どころか、一片の知性も高貴さもない。あるのはただ、図太さ、狂信的な確信、激しい憎悪を抱く能力、一貫性や公正を無視して現れる無限の鉄面皮だけである。
 また当時の最高幹部はこうも語っている。

「池田は頭が悪かった。私が哲学を勉強しろと本を貸しても読み通せない。いつも途中で放り出していた。ただ指導力はあった。人をその気に持っていくのはうまかった」

 池田が大衆運動の指導者=会長に必須の諸特質を持っていたことは疑いをいれない。

五月三日、第二十二回本部総会で池田の会長就任式が挙行された。池田は就任の挨拶で「創価学会は全大衆の最大の味方であります。敵は邪宗教であります。邪宗教は人々を地獄に落とす。正法は仏にする」と語りおこし、戸田の七回忌(昭和三十九年)までに、三百万世帯の達成、世界の名材を使用した大客殿の建立、邪宗教の徹底的粉砕という三大目標を明らかにした。

 三百万世帯は、その時の公称世帯数百四十万と、それまでの成長率からいえば、決して難しい数字ではなかった。また「邪宗」攻撃は、三百万という目的に関連する、もっとも効果的な折伏法であった。日本人のシンクレティズムは、つねに他教団の信者を、自宗の布教の良田にする。
それは戸田時代からの引き継ぎであったが、同時に、敵を外に求めさせ、まだ脆弱な池田体制から眼をそらさせる統治法でもあった。さらに古来、建造物は目標たり得るものであり、建物と信者増加運動とのイタチごっこが教団をふとらせることは、法則的な事実でさえある。

 池田の三大目標という指針はきわめて当を得たものであった。
 これを受けて北条浩は次のように会員をアジった。

「四年後に三百万世帯を達成すれば、あとは広宣流布の道は開けるのだと、(池田は)私たちに指示を与えてくださったのであります。こんどは私たち弟子は、池田先生の第一声を、その宣言を、絶対、無にはしない、絶対、池田先生をウソつきにはしないと誓って立ちあがるものは、誠の弟子であると私は思うものであります。……

 ここで私たちは、池田新会長先生に対して“先生、どうか私たち弟子がおります。安心して指揮をとってください”と心よりお誓いいたそうではありませんか。(拍手)」(『聖教新聞』昭和三十五年五月六日)

 北条は一日にして、自らを弟子と呼び変え、池田を会長先生と崇める。他の幹部においても同様だが、ここには一片の人間味もない、運命共同体としての新会長のリアルな把握がある。彼らが率先して池田を敬えば、池田は安泰なのであり、彼ら自身の権益も安泰である。利害が彼らを密着させ、表裏のある関係を結ばせ、やがて池田は、幹部の崇敬の演技を心底からのものにしていく力を蓄えていく。

この日、例によって機構改革があったが、北条は指導部副部長の任を離れて、新設の副理事長に就任し、池田の腹心としての地位をかためていた。また理事長・小泉隆は本部最高顧問にタナ上げされ、理事長の職は、指導部長を解かれた原島宏治にとってかわられた。北条と原島は、池田の会長実現のための最大の功労者だった。

 その他、和泉覚が文化部最高参与に任ぜられているが、これは次の参院選出馬への前提と見られる。竜はこの年一月志木支部長に任じられ、ここにきてさらに文化部長に任命された。それまでの文化部長・鈴木一弘は同副部長に降格されたが、そのかわり、小平芳平、牛田寛、白木義一郎とならんで理事に任じられた。
小平は池田を折伏した、新興宗教でのいわゆる教化親であり、その理事引き上げは池田の謝意だったろう。もっともこれ以後、理事はやたらに増員され、その値打ちは下落する一方であったが。

 また指導部長の原島の後任には辻武寿、同副部長の北条の後任には石田次男が任命された。石田は後輩の後をつがされるという屈辱を受けたが、彼はさらに聖教新聞とも、論説主幹を除いて完全に断ち切られた。それまで同紙の題字下の発行、編集、印刷人は石田次男となっていたが、この年七月八日、四百四十一号から秋谷城永に変えられている。これに関する辞令はないが、聖教新聞からの撤退は石田の壊滅的な敗北を物語るものであろう。彼の母親・石田つかも翌年五月に死亡している。

「二十年刊苦しんで、地獄に落ちていくんだ」
 昭和五十六年現在、石田は、横浜・神奈川区の、一階が六畳と四畳半に台所といった小住宅に万年床を敷き、胃を三分の一切除したにもかかわらず、昼間から焼酎を飲む生活を送っているという。
 石田はのちに参院選に立つことも許されず、池田のために貧窮のどん底に突き落とされることになる。

「戸田先生のもとで、男の秘書は二人いたんです。一人は今(の)石田君。一人は私だったんです。(略)それで、年配も向うが上。その奥さんになった人も学校の先生で、大先輩です。(略)うちの奥さんていうのは、自分はバカだと……皆んな……しちゃう。これも石田さんの奥さんというのは先生だし、今、五十いくつだな。(略)学会全体の焦点であり、優秀な方であった。(略)石田さんていうのはね、非常に見栄っぱりなんです。気どりやなんです。人をバカにするんです。そうじゃない。(ハイ)

 結局だめなんだ、だから。もう戸田先生がいなくなったら、だんだんだんだんおかしくなってしまって、誰も相手にする者がいない。結局、ちょっとおかしいじゃないか、というように。二十年、十八年たった今では、もう、(池田との間には)天地雲泥の差があるんです。利己心、冷たい、人をせせら笑う。今はダメになってしまっている。自分は頭がいいと思ってるから。(略)

 どうしようもない。誰からも相手にされなくなった。もう貧乏のどん底で、子供までが……私は一生けんめい応援しておりますけどね、分かる(ハイ)」(昭和五十一年十二月十一日、女子部学生局学内委員長会で、内部文書)

 石田次男は戸田の死後、池田に生殺与奪の包囲網を張られ、徐々に狭められて、ついには最低限の餌を投げ与えられる飼い殺し状態にされた。戸田時代、石田が戸田に重用されすぎたという理由だけでである。

 池田の石田に対する敵意の深さには慄然とさせられる。別の内部文書には、「石田次男は二十年間苦しんで、地獄に落ちていくんだ」との発言もあり、創価学会員にとっての「地獄」の持つ意味の重大さを思い合わさずとも、その長期間、なぶり殺しにして断末魔をみるようなまなざしの冷たさには、異常な競争心と報復心の激しさ、底深さをみる思いがする。

 五月十六日、池田、北条、森田、竜、小平、鈴木、牛田、白木の八名が新たに宗教法人の責任役員に就任し、ここに責任役員は新八、旧七、計十五名となった。翌十七日、小泉は代表役員を辞任し、池田が代表役員についた。これにより池田は、名実ともに創価学会の首長となったのである。

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池田大作、創価学会第三代会長就任の「最大の矛盾」…なぜ彼は「辞退」に固執し続けたのか 2023.12.02
https://gendai.media/articles/-/119906

 引用以上
 私の若い頃、創価学会の信者は、一億国民の一割、1000万人に上るといわれた。
 それこそ、学校にも、警察や自衛隊にも、もの凄い数の信者がいて、不祥事を起こしても身びいきで保護した。
 加害者・犯罪者が学会員なら、同じ学会員の警察官、検察官は手を緩めたと噂されていた。事件を起こしても目をつぶったのだ。

 だから、私が近所のAという泥棒を中津川警察に告発しても、一切相手にされなかった不可解な理由について、最初に疑ったのが、もしかしたらAは学会員なのか? ということだが、南無妙が聞こえないので、たぶん違った。

 中村区の私の実家の向かいに田中さんという信者がいて、朝から晩まで、大音量で「南無妙法蓮華経」を唱え続けた。うるさいこと、この上なかった。
 当時、解脱会にいた母親は対抗して般若心経を大声で読経したが、鮫とメダカくらいの差があった。
 
 田中さんは、小さな孫請けクラスの町工場を経営していたが、事業がうまくいかないのか、そのうち、住宅街なのに居酒屋を始めた。
 だが、素人商売なので、一年も経ずに潰れて、どこかに移っていった。

 実は、学会員には、1000万人というビッグアイデンティティを背景に、互助会のような関係があって、この人脈関係の利権こそ、創価学会を強固に成立させているといわれた。
 田中さんは、それを利用してもうまくいかないほど商売が下手だったことになる。

 創価学会は、日本国内における独立国の様相を見せた。いわば二重の国家があるようなもので、学会員は、自国民の利権に寄与することが連帯を示す価値観だった。
 それが急速に劣化しはじめたのは、公明党が躍進し、バブルが崩壊したと時を同じくしている。

 たぶんだが、私は、バブル時代、創価学会内部の利権争いが、あまりにも露骨になり、学会幹部が信者に献金を強要したりして信者を金づるとして利用しはじめたことで、多くの信者が学会に嫌気をさして、離れたのだと考えている。
 ちょうど、統一教会と同じで、その金集めの圧力は、統一教会員も裸足で逃げ出すほどだった。統一教会の300万円の壺など、創価学会にとって鼻くそのような額だともいわれた。
https://shueisha.online/newstopics/98787

  私は、民俗学的な興味で創価学会の集まりに出席したことがある。
 このとき、さんざんうるさい大合唱が終わると、さっそく地域の幹部が私に「折伏」を始めた。
 ろくな内容がなかったので、具体的な記憶はないのだが、とにかく高圧的で、神がかり的な上から目線に不快感を抱くしかなかった。威圧的な大声だけを記憶している。
 私が、彼の言うことにまったく興味を示さないので、諦めたようだった。

 当時の学会幹部に課せられていたのは、「金づるを増やせ」という統一教会と同じ姿勢だった。
 統一教会と創価学会は、教祖も含めて兄弟のような関係だった。
 バブル時代に、あまりに金集めに奔走させられたことで、大勢の学会員が離れていった。たぶん1990年代には、すでに半数以下にまで減っていたのではないだろうか?
 https://僕の職業は無職.com/2021/09/05/soukagakkai-zaimu/ 
 ちょうど、この頃、統一教会の非道で詐欺的な金集めが社会問題化していたので、創価学会員にも、影響が及んだのだと思う。

 今後は、統一教会と同じ運命に落ちてゆくのだろう。もう創価学会が復権することはありえない。
 残るのは、学会組織という互助会の利権だけだ。これは「宗教法人の非課税」という、とてつもない巨大利権によって成立していて、もしも公明党が自民党にすり寄らなければ、この利権を剥奪してやるという恫喝に怯えて、自民党にいいなりになってきた。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5859856.html

 池田大作という情け無用の凄腕、サラ金取り立て屋が創価学会を作った本当の理由は、集金マシーンとして、これ以上効率的な組織はなく、しかも宗教法人を装えば非課税となり、数兆円規模の莫大な税務を逃れられたからだ。
 この超巨大利権を守るために、創価学会は公明党を産み出した。元々、「反戦平和」など口先だけだったので、現在は、完全な軍事国家への道に協力している。

 だが理念を信じた学会員に対しては、本質的な裏切りであり、不信感から、もう存続は不可能だろうと思う。