都市に寄生する人生 | tokaiama20のブログ

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 大都市に住むのは便利だ。仕事はたくさんあるし、衣食住すべてに、ずらりと選択肢があって、よりどりみどりのライフスタイルを得ることができる。
 交通機関も自由自在で楽ちんだ。車がなくとも、田舎に出ないかぎりは歩行距離も短い。

 私の住む中津川市の田舎では、昨年春にすべてのバス路線が廃止され、遠方からの公共交通機関を利用した帰宅時に、非常に困ったことになった。
 他の路線で一番近い停留所に降りたが、そこから我が家まで2時間を要した。午後三時すぎに停留所に着いて歩き出したが、帰宅時には真っ暗になっていた。熊や猪の徘徊する山のなかの道は、高低差もあって辛い帰宅になった。

 大都会では、まず二時間歩かねばならない場所は、滅多にないだろうが、次々に公共交通機関が廃止されている田舎では、それほど珍しくもない。
 こんな地方行政を許していると、いずれ、過疎の田舎に住む人はほどんどいなくなり、河川も山林も荒廃して、下流域の大都会に恐ろしい自然災害を発生させることになるのだが、安定多数の自民党保守は「自助努力」とやらで、カネにならない地方交通を廃止するのに躍起になっているだけで、まるで想像力が働かないようだ。。

 しかし、大都会に比べて快適なところも多い。わが村は、2005年に中津川市と合併して市域になったが、それまでも現在も、村の中に信号が一つもない。そしてコンビニも一軒もない。去年からはバス便もなくなったが。
 おかげで、交通渋滞というものに出くわしたことがない。唯一、朝晩の通勤時に、市街地に出る村の出口の信号で、数回待たされることもあるのだが、まず運転にストレスを感じない。

 だから、中津川市内を運転していても、たぶん平均時速が40キロ以上は出ると思う。名古屋なら20キロ以下だろう。
 スーパーに行くときは、少なくとも十数キロは走らねばならず、ずいぶん走行距離が延びるが、平均燃費は、23キロ(アルト四駆)くらいは出るので、意外に燃料費がかからない。

 中津川警察も、一旦停止などで姑息な取り締まりを行うこともあるのだが、移住から約20年を経て、地元で一度も交通違反切符を切られたことがない。ただし、名古屋に出たりすると、地元の感覚で60キロ以上出して運転していると摘発される。
 免許証と車は生活の必需品だが、おかげで、ほとんど汚れることがない。

 それから、イノシシや熊が普通に出没するような山岳地帯なので、住宅に密集という表現ができるような場所が非常に少ない。基本的に、森のクッションがあるので、大きな音を出しても近所迷惑になりにくい。
 ただし、このような田舎には一癖も二癖もある人物がいることがあるので、気をつける必要がある。

 何度も書いてるが、私の家の近所には、相当な場数を踏んだ、実に狡猾な泥棒が住んでいて、我が家に頻繁に侵入し、無線機や工具類を盗み、室内にも侵入されたことがある。
 中津川警察に被害を訴えても、「80歳近い人物が泥棒をやるようには見えない」と勝手に決めつけ、逆に被害者である私を「被害妄想、異常者」と決めつけて精神病院に強制入院させられそうになったことがある。
 このとき、実姉が「弟はウソをつくような人間ではない」と入院を拒否してくれなかったら、今も「カッコーの巣の上で」になっていたことだろう。

 はっきりいって田舎の警察=中津川警察署員には、被害者と加害者を逆立ちさせ、被害者を「被害妄想の異常者」と決めつける正真正銘の馬鹿しかいない。
 それを監督するはずの岐阜県公安委員会も、申し立てにたいして「問題はありませんでした」と回答書を送ってよこした。
 最初から、警察官の劣化ぶりはわかっていたが、あまりのひどさに怒りを通り越して呆然とするばかりだ。監督する上層部も、あの強姦事件揉み潰し、中村格が警察庁長官なのだから、下まで腐りきっているわけだ。

 この問題は未解決で、その人物は、まだ私の家に侵入を続けて、鍵のかかった車を開けて再び無線機を盗み出した。(相当に高度な泥棒技術だ)
 現在はひどい鬱病の私が全力を挙げて対策を打っているが、この先、何がどうなるか、まったく見えない状態で、私は自分が死刑にならなよう自分を説得している。
 まあ、田舎暮らしのリスクに、こんな恐ろしい事態が待ち構えているとは予想もしていなかった。過疎の田舎には、「大都会に住めない」人物が住んでいる(私もだが……)ことを覚えておいたほうがいい。

 何を言いたいかといえば、「田舎はいいよ……」と書いているつもりなのだが、出てくるのは「やっぱり田舎はやめとこ」と思わせるような内容ばかりで申し訳ない。
 まあ、こんな田舎暮らしに対比させる都会の良さとは何かと考えると、私には全然思い浮かばないのだ。

 私は、「地球と共存する人間社会の適正な人口密度」という尺度、考え方が、これからの時代大切になってくるような気がしている。
 ギャオで、イギリス警察ドラマなんか見てると、ヨークシャー地方のドローン俯瞰映像を見て、「ああ、これが適正な人口密度なんだ」と、いつも感じる。
 キロ平方あたり300人前後しか住んでいない。わが中津川市と同程度。

 これに対し、東京はキロ平方あたり6000人台で、実に20倍だ。
 大都市は、おおむねキロ平方あたり5000人前後が多いようだ。それも皇居や明治神宮など大緑地を含めての数字だから、これじゃ「息をする余裕もない」と大げさに嘆きたくなる。
 何がアカンかというと、震災や大火などの非常事態になったとき、手助けがなければ生き延びることができない。

 我が家は震災に強い。水利は井戸で、周辺の山々の高度が高いので、地下水の水頭圧が高く、どこを掘っても水が出る。水道管が破裂して水が出なくなっても、至る所山だらけなので、どこでも清冽な水が流れてるから、沢の水を汲んでくればよい。
 炊事をするときも、一斗缶で小さな竈を作れば、薪は無尽蔵にあるので調理は心配ないし、またトイレの心配も少ない。催したら、どこにでもある藪に潜り込めばすむ。

 ちなみに、私は19年前に自作した浄化槽で、EM菌を利用した完全完結浄化システムを使っていて、下水は利用していない。排水は魚が十分に住めるほどの清浄度だ。
 トイレ排水は、浄化後、畑に吸い込ませている。こんなことができるのも、田舎暮らしのありがたさだ。
 ただ、間質性肺炎発症後、鬱病になってゴミ屋敷化しているのが、頭痛の種だ。

 また、食料も、生産地なので、比較的容易に米や野菜が入手できる。あとは、雨露を防げる暖かい空間を確保するだけで生き延びてゆける。
 これが大都会だと、震災混乱時に自分の力だけで生活を維持するのが困難で。どうしても公的援助に頼らないと厳しい。
 それは、阪神大震災の女性たちの受難記録を見ると、本当に気の毒になるくらいひどいものだった。何よりもトイレだが、隠れる藪がないのだ。
 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/data/detail/1-8-2.html

 阪神大震災が中津川市で起きたなら、あれほどひどい事態にはならなかっただろう。
 それは人口密度が大きすぎるところから来ている問題だ。私は、ざっと直観すると、非常時に対応できる適正人口密度は、キロ平方あたり1000人くらいが限界のような気がしている。

 繰り返し書いていることだが、子供たちを骨太な力強い人間に育てるために本当に必要なことは、AIのプログラムを覚えさせることではない。
 たくさんの動物といっしょに野山を駆けまわって汗をかきながら地球の摂理を理解することだ。
 それは大都会では不可能であって、自然豊かな過疎の田舎でなければ無理だ。

 私は、小中学校の林間学校を拡充して、過疎の山中で、たくさんの動物たちと共生する生活プログラムを子供たちに与えることが、日本の未来にとって、もっとも大切で必要なことだと確信している。
 特権階級に成り上がるための勉強だけが人生と勘違いしてもらっては困るのだ。

 子供たちは全力で遊び回って汗をかき、たくさんの笑顔に囲まれて、自然界と仲間を慈しむ心を育てる必要がある。プログラミングを学ばせるより、体を鍛えて、笑顔の美しい子供に育てることの方が、何百倍も未来に貢献できる。
 子供を誘拐して性的な慰みものにしようとするような異常者のいる大都会の環境では、子供たちが萎縮して、自由にのびのびと生き抜くことができない。

 共同体生活の体験は、「仲間を大切にする心」を育てることができる。
 大都会では、人が余りすぎているから、相手を蹴落として嘲笑するような優越感にすがる姑息な人間性ばかりが育つことになる。

 大都会では、いわば「都市に寄生する」ようなライフスタイルになってしまう。困ったときに、権力や組織の助けを借りなければ生きられない。
 自分で考え、何が必要なのか自分の力で判断し、行動するのではなく、いつでも周囲の人の顔色や、為政者の定めた法律や行政方針ばかりに頼り、人の心を見失ってゆくしかない。

 必要なことは、自分の心が求めるものを知ることだ。誰かの言いなりになることではなく、行政に追従することでもない。
 そんな主体的生活を大都会で実現しようとしても無理が多い。やはり、キロ平方あたり数百名しか住んでいない田舎にいって、何もかも自分で開拓する経験が必要なのだ。

 都市に依存するな。水と食料と、暖かい空間があれば人間は生き抜いてゆける。
 私は、子供たちに、その本質を理解させるために、最初にキャンプ生活を経験させることが必要だと思う。
 それから、過疎の廃校を利用した林間学校で、たくさんの動物と一緒に、なんでも自分でできるライフスタイルを学んでほしいと思う。

 今の、新自由主義に毒された自民党、保守政権では、とうてい無理な話だ。私は、ニワトリや山羊や牛と一緒に育つことで宇宙の真理が学べると信じているが、自民党は、コンピュータを教えることしか頭にない。ニワトリはケージ飼育のブロイラーしか知らない子供ばかりになっている。
 だが、一緒に走り回る放し飼いの養鶏を体験しなければ、命の本当の尊さを理解することができないのだ。