皆さん,こんばんは。

今日は出勤途中にセブンで「ななチキ」を食べていたら左下奥歯の金属が外れてしまい,退勤後に「休日急患センター」の歯科を受診してきました。

 外れた奥歯は応急処置として仮付けしてもらい,後日かかりつけの歯科医院で精査・加療してもらう予定です。

 診療を終えて会計を済ませ,玄関前でタクシーを待っていると,若い母親に抱かれた幼児が入室していくところでした。入るなり,中から大きな泣き声が聞こえ,「怖い,病院嫌だ」という心情が伝わってきました。

 これに対抗するわけではないですが,私が幼少期の頃の「ギャン泣き」エピソードを御紹介してみたいと思います。

 

①「厚木基地の帰り」

 これは1歳過ぎの頃の話。

自衛隊・米軍の厚木基地では年に数回,一般開放イベントが開催されています。有名なものは5月の「ヤング・ちびっ子大会」,夏場の「航空ショー」,「盆踊り」などです。私も何回か厚木基地の一般開放イベントに行ったことがあります。大和駅から歩いたり,相鉄線の相模大塚駅から相鉄バスの「飛行場行き」臨時バスに乗って行きました。

 父の証言では「ヤング・ちびっ子大会の帰り,ブルーインパルスが飛び立つ場面で『まだ帰りたくない!』と言って地面にひっくり返って大泣きしていた」という状況です。

 1歳過ぎの私に厚木基地から飛び立つブルーインパルスの姿はカッコ良くて「もっと見たい!」と思わせる要素があったのだと思います。

 現在は「鉄ちゃん」な看護助手の私ですが,もしかしたら「自衛隊オタク」,「軍事オタク」,「飛行機オタク」などを極めて,自衛官or防衛省事務官として自衛隊で働いていた可能性があると思いました。

 そして,土日は各地の基地・駐屯地で開催される一般開放イベントに参加して,戦闘機や戦車,艦艇を撮影していたかもしれません。

 

②「電車の中で」

 これは1989年4月の話。

同年,横浜市では「YES89」という博覧会が開催されていました。私は両親に連れられて,会場まで電車に乗って行きました。

 当時,母が書いていた日記では「電車の中で泣いていた」という記述がありました。

 私なりに考えた理由が,以下の通りです。

(1)見知らぬ人が多数乗車している車内の様子が怖かった

(2)多数の乗客に見られている様が怖かった

 このあたりです。

ただ,この「電車の中でギャン泣き」は「YES89」の時だけのようで,翌年に妹の安産祈願として母方祖父母と母に連れられて水天宮を参拝するために電車に乗ったときは「大喜びで電車に乗っていた」とのことです。

 2歳前には「鉄ちゃん」として人生を歩む覚悟が出来ていたのだと思います。3歳以降は家族で伊豆へ旅行に行き,東海道線,伊東線,伊豆急線にも乗るようになりました。

 こうなったら占めたもので,「三つ子の魂百まで」ではありませんが,現在に至るまで鉄道趣味から抜け出すことなく,むしろ「オタク」としての人生を謳歌しています。

 

③病院受診拒否

 これは3歳頃の話。

北里大学病院にて,感冒に続発した急性中耳炎に対して鼓膜切開を施行されました。この鼓膜切開,相当に痛い処置だそうです。そのため,この処置に対するトラウマが大きかったのか,以後別件で北里大学病院を受診する際に当該トラウマに襲われ,病院の玄関前で「ギャン泣き」という名の受診拒否をしていたそうです。

 とはいうものの,幼い頃は体が弱く,風邪を引くと症状が長引きやすい傾向にありました。急性中耳炎は幼稚園の年中クラス在籍中の12月にも罹患し,起床時に「耳が痛い」と言って泣いたエピソードがあります。他にも,急性気管支炎で咳が酷くて,夜中に「胸が痛い」と言って泣いたこともあります。

 年を重ねてもなお病院・診療所を受診する頻度は高く,もはや病院・診療所とは「腐れ縁」だと思っています。

 今は体調の異変を感じたら迷わず受診し,必要な検査・処置,治療を受けて,不安や懸念を早期に払拭できるように努めています。