久しぶりに、クロックブログを書きます。

今回は、戦後の柱時計についてです。

柱時計と言うと、八角のボンボン時計などを想像する方が多いと思います。

ボンボン時計も。柱に掛けるので柱時計の一種です。

一般的に柱時計と呼ぶのは、昭和30年くらいからの時計です。

昭和20年代位までのボンボン時計は、打ち方の機構が数取式と呼ばれるものです。数取式とは1回打ったら、次は2回打ち、その次は3回打つというものなのです。

その為針の針の位置と打ち数が一致しない事があるのです。例えば針は動いているのに打ち方が打たない場合などに発生します。針を逆回しして打数と一致させるか、針を逆回りできない時計の場合は、振り子の左側に棒が垂れていてその棒を押し上げることにより打ち方を打たせて針と一致させる機構がついています。

ボンボン時計の写真を写真を載せます。左が18世紀のアメリカ製時計、右が19世紀初頭の愛知県産の時計です

器械の左側の大きな切れ込みのある歯車が数取車と言って数を制御する車です。

 

次に昭和30年位以後の柱時計の器械の写真を入れます。

右が愛知時計の30日巻、左が同じく愛知時計の60日巻です。

本打ち式といわれる打ち方機構です。

器械の真ん中の時針車の回りに巻貝のような歯車が見えると思います。これで打ち数をコントロールしているのです。

愛知時計の30日巻と60日巻よく似た形をしていると思います。歯車の並びはほぼ同じですが、各歯車の歯数とカナ数が違います。

ボンボン時計はゼンマイ1巻で24時間動きますが、

30日巻の初期は、ゼンマイ 1巻―40時間、のちに 1巻―48時間のものが出てきます。

60日巻は ゼンマイ1巻―72時間です。

したがって30日巻でも40時間タイプは1か月18巻必要で、48時間タイプは一か月15巻で動きます。60日巻は20巻必要です。

昭和30年位から昭和50年位までの比較的新しい時計ですがゼンマイが弱くなっていることが多く難儀な修理になることが多いのです。

 

 今回、愛知時計について書いたので東海時計サービス社と愛知時計のついて少し触れます。

 私の祖父 井上信夫は昔々東京の服部時計店(現セーコー社)の技術部長をしていました。日本時計師会の会長も務めていました。信夫は服部時計店を退職して東京で井上時計店を開いて商いをしていました。

 しかし、戦争中に、愛知時計で兵器を作るために名古屋に呼ばれたのでした。私の父健一も名古屋に来ました。戦争が終わった後も、祖父信夫は愛知時計に残り、父もまた愛知時計に入社しました。

 祖父信夫はウォッチの専門家でした。父はウォッチもできるのですかクロックの職人です。信夫と健一は名古屋で時計の指導所の教員になったようです。私の父健一は3年前に亡くなりましたが名古屋には父の指導を受けた人たちがいるようです。

 私が、最初に時計を直すようになったのは父に連れられて行った明治村というところです。今から40年くらい前の事です。

 なぜか私は知らないうちに時計を直せるようになっていました。直せるといっても当時は素人レベルでした。その後仕事で時計を直すようになりプロになったのです。

 私がプロレベルになる指導をしてくれた方が、村上健一さんという方です。村上さんは最初は私の父健一の指導を受た方ですがその後独立して時計修理業をされていました。

 私は先代である父に初等中等教育を受けて、父の弟子の村上先生に高等教育を受けて現在に至っています。

 私に時計修理を指導してくれた村上先生が今年の1月に永眠されました。村上先生には本当に感謝の気持ちしかありません。今後、難しい時計にぶち当たったときは指導してくれる方がいないのです。気を引き締めてかからないと考えています。

 私事を長々と申し訳ありませんでした。

次回は、愛知時計以外の柱時計について語ります。宜しくお願い致します。