以前に「浜ぼうふう」に載せた文を再掲します。 

 

                                  

 倫理としての未来への想像力

 

 原発の問題をコスト論・リスク論・モラル論の3つに分けてみよう。

 コスト論は雇用や経済の面から、リスク論は安全対策面から、モラル論は倫理面から語られる。

 そしてコスト論やリスク論はモラル論と決して相容(い)れない。私はモラル論を重視して原発問題を考えている。

 

 ここにひとつのたとえ話がある。

 メリル・ストリープ主演で映画にもなった『ソフィーの選択』というウィリアム・スタイロンの小説。

 哲学者大澤眞幸(おおさわまさち)は、ナチスのホロコーストを扱ったこの小説を採りあげて、次のような問題提起をする。

  (『夢よりも深い覚醒へ』岩波新書)

 

 ナチスがソフィーに言う、

「おまえの二人の子どものうち、一人を助けて一人はガス室に送る。ここで一人を選べ。選ばなければ二人ともガス室だ」と。

 私たちがソフィーなら、どちらかを選べるだろうか。

 さてここで、「二人の子」ではなく「一人の子と1億円のどちらかを取れ」と言われたらどうだろう。もし金を選び取ったとしたら、間違いなくその人は倫理的に批判されるだろう。

 では、その子がまだ生まれていなくて10年後に生まれるとしたら? 100年後、1000年後では? そうなってしまうと「そんな先のことはわからないから」と、1億円のほうを選び取る人も少なからず出てくることだろう。

 

 原発問題の倫理性とはまさにこれである。〈未来への想像力〉があるかないかだ。

 私たちはまだ見ぬ何年も先の子孫に対して、彼らを見捨てて金を取る、という過(あやま)ちを犯そうとしている。それが「原発を稼働させる」ということの意味だ。

 つまり原発とは、おのれの都合と欲望のために子孫に危険(負の遺産)を贈与(プレゼント)し、未来に核廃棄物処理というやっかいな問題を一方的に押しつける、という代物(しろもの)である。

 

  ソフィーは一人の子を選び、そのトラウマからのちに自殺する。