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[『鏡王女物語』終章 国破れてー4

 鏡王女物語』終章 国破れてー4


 随分と長々お話をしてきましたとお思いでしょうが、ご心配しなくても結構ですよ。邯鄲(かんたん)の枕(注1020)のお話はご存じ?ご存知ならば、お教えしますが、あの術も息長の秘術なのですよ。この母上の方術のお陰で、命日にこのような所縁(ゆかり)の地をあちこちとめぐらせてもらえています。


 この鎮懐石(ちんかいせき)のお社であなた様をお見かけしたのも何かのご縁でしょう。幼いころの思い出話につい耽(ふけ)ってしまって、どうやら時が過ぎてしまったようです。思いもよらず長生きをしてしまい、世の中の辛い話ばかりを背負ってしまったような気がします。まだ沢山お話したいことも残っています。又お会いできお話を聞いていただけたらうれしゅうございます。


 ああ、あなたさまのお連れがお見えになったようです、ちゃんとお聞き下さって ありがとう。歌を忘れた金糸鳥(かなりや)でしたが、お話したお陰で、少しは気持ちも晴れました。

 もうすっかり、耄碌(もうろく)というのでしょうか、気持ちも子供に帰ってしまっています。

 昔と同じように、指を折って数えるような歌になってしまいましたが、最後に一首・・。


  志(こころざ)しを果たさで いかに帰れなむ  


       ものみな清き あの故里へ (注1021


 会社を定年退職し、わが奥様の求めに応じて運転手役を務める傍ら、古代史の謎ときに時間を潰す日々を送っています。


 今回のお話は、初夏のある穏やかな日の出来事を纏めたものです。わが奥様と一緒に、福岡の糸島半島方面の産地直売店に野菜や魚を求めに行き、わが奥様がお店で買い物をしている間に、近くの小さなお社で、ついまどろんだ時の、夢うつつのなかで現れた上品な老女が話してくれた、お話の記憶を思い出して綴ったものです。


 ほんの十分間くらいの時間の中でよくもこんなに沢山の話を聞けたものだ、と我ながら不思議に思います。その社は神功皇后ゆかりの鎮懐石神社と案内板にありました。


十勝村梨実のブログ -鎮懐石神社 福岡県糸島市の鎮懐石神社(筆者写す)


 家内が「なにをぶつぶつ言ってらっしゃるの? 良い夢でも見れましたか? もう日が落ちますよ、帰りましょう」と、揺り起こしたりしてくれなければ、後のお話も聞けたでしょうに、と残念でした。


 折角聞いた珍しいお話ですので、孫たちに話して聞かせました。画学生の孫が、「絵物語にして皆さんにご披露(ひろう)したらどう、習作として挿絵を協力するよ」と、言ってくれます。ご披露出来る機会があれば、今生一番の喜びとなることでしょう。


 ひょっとしたら、続きの話を聞けるかもしれないと、鏡王女の来年の命日には、是非鎮懐石神社にお参りに行ってみたいと思っています。


       『鏡王女物語』おわり


注1020邯鄲の枕(かんたんのまくら)中国の昔話。邯鄲という地方で老人から枕を借りて昼寝した青年が、短い間に一生分の夢をみた、というお話です。


注1021志しを果たさで・・の和歌 元歌は前出(注202)「故郷」で高野辰之作詞です。前歌が一番で、これは三番の歌詞に基づいています。歌詞は「こころざしを果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水も清き故郷」です。



和歌の出自について 


 この物語の筋はともかく、物語の中のこの下手くそな和歌は何だ!と思われた方も多いことでしょう。その五十二首の内の三十六首は万葉集などの古歌からの借用です。

 下手くそな歌と一緒にされては困る、と万葉ファンからお叱りを受けそうです。その他は唱歌や歌謡曲などから、発想を拝借させていただきました。

 その出自については各章毎に「注書」をはっきりさせたつもりです。


 また、昔は本歌(ほんか)取り、というお遊びもあったようですが、現在でも、このような和歌遊びも出来るのか、読者のみなさんもやってみたいと、思っていただければ幸いです。

 尚、この素人短歌もどきを、万葉集研究家の上条誠氏(古田史学の会九州)に添削をお願いしました。「ほとんどこのままで良いですよ」と、二か所ほどの助詞の使い方についてご助言を頂けました。

 お陰さまで、この拙いお話しを世の中に出そうという気持ちになれたことを同氏に感謝いたします。


(尚、同氏には推薦文までお寄せ下さいました。古田武彦さんの推薦文と共に次回より数回に分けてご紹介させていただきます。)



[『鏡王女物語』 終章 国破れてー3

『鏡王女物語』 終章 国破れてー3


 中大兄皇子のところで、劉徳高(りゅうとくこう 注1010)という唐国の代表が談判をすることになり、帰朝報告と通詞(つうじ 注1011)を兼ねて、定恵は御所に出かけて行ったそうです。


 このたびの戦争の結果について、筑紫ですでに、大海人皇子と鎌足との間でほぼ決まっていたのですが、近江で最終の詰めの話だったそうです。

 筑紫の天一統の国は潰す。

 しかし、それでは無用の混乱が起きる。

 混乱を静めるために、形としては日本を大和に禅譲(ぜんじょう 注1012)させる。

 そのために、幸山大君をいったん帰国させる。

 後は、中大兄皇子が指揮をとる。

 これがうまく運ぶように、唐軍も筑紫の吉野の海域(注1013)に拠点を設け監視する。ということでした。


 公式の話が終わって、中大兄皇子が「ご苦労だった、褒美にとらせよう、何か望みのものはあるかな」

 そこで定恵が申し出たのは、還俗(げんぞく 注1014)でした。理由は、と問われても無言だったそうです。

 とりあえず三日後にくるように、と帰されたそうです。その後、蘇我太夫を呼ばれたそうですが、定恵とかかわりがあったかどうかは確かではありません。


 出かけるところで不吉な予感がして、日をあらためたら、と言いました。しかし、新しい門出だ、捨てる過去が不吉なのでしょう、と出て行きました。結局物言えぬ姿で帰ってきました。

 コッジャが話を集めたのでは、宇治川の畔で、人出がかなり多かったのに、旅姿の二人組が「百済のうらみ」といっていきなり切りかかってきたそうです。

 二人は、死を確かめ、懐中物をみな持って素早く逃げたそうです。警固番所から来て調べても、なぜ斬りかかったのか、なぜ百済の恨みと言ったのか、百済人とは見えない風体だった、ということでした。


 筑紫に知らせを、中大兄皇子が出してくれましたが、急を聞いても、すぐには鎌足どのも帰って来れず、ひと月ほど後に戻って、早速、中大兄皇子のところにお出かけになりました。

 「警固が行き届かず、申し訳なかった」と、頭を下げられることの嫌いな中大兄皇子が頭を下げられたそうです。

 また、この償いはきっとする、と仰って、早速まだ年端もいかぬ史人に、位階と名を賜ったそうです。名は他に比べるものなし、不比等(ふひと)と名付けて下さった、ということです。


 もう私の涙は涸(か)れ果ててしまいました。母上の形見の鏡は父のもとで眠っています。宇佐岐に頼んで持ってきてもらいました。本当のことを知りたくて、母上に教わった易占(ふとまに)の法を行い、次いで、正邪の法を一心に行いました。

 おぼろげながら、定恵が因果応報(いんがおうほう 注1015)といいながら慰めてくれているようで、眠りこんでしまい、不比等が心配して見にきて起こしてくれました。


 宇佐岐は、仕事の合間に一貴さまと定恵の二人一体の像を彫ってくれています。その像は、それと分からないように仏像の顔にしているとか。中大兄皇子は宇佐岐の作事場にお見えになった時に、いずれ私のも頼む、と笑って何も仰らなかったとか。


 それにしても、和歌の世界とは随分かけ違った世の中になりました。私たちが和歌を詠む世界ではないようです。おまけになんと鎌足どのも、あの世に召されてしまうのです。中大兄が正式に天皇位に就くことを唐が認めてくれ、天智天皇の即位式もありました。官位などもその折に改めて定められました。

 不比等様は中大兄皇子の言葉がなくても、当然大臣になった、と宇佐岐はいいますが、十代で大臣にお取立てになりました。

 

それを見て安心したかのように、鎌足どのが筑紫の出先でおなくなりになりました。モガリ(注1016)も火葬も済ませて骨壷に入ってのご帰還でした。不比等が天智天皇から、「母安児どのに伝えるように」と、次のようなお話があったそうです。


 鎌足殿は、筑紫の地で病を得られて、天智天皇がお見舞いに行ったときには、まだシッカリとされていたそうです。そのときに、このような思いがけない話をされたそうです。

 幸山大君が出征(しゅっせい)される前に、中大兄皇子を呼ばれたそうです。後の政事(かつりごと)の手配りのことでお話があり、鎌足のことにも及んだそうです。

 幸山大君は、「鎌足のことじゃが、蹴鞠の褒美になんなりと望みの物を申せ、と言って、その答えが気に食わなくて、あのような、大和に追いやる仕儀になった。

「しかし、あれは己が間違っていた。

「ただ、一度出てしまった言葉はもう戻せない。

「その後の動きをみても、鎌足の言うことには理があった。

「しかし、それを認めるわけにはいかない、こちらには太古からの百済との義があった。

「以前、世の中がまだこれほどがさついていない折に定めた、冠位があったな。あれから鏡王に随分と苦労かけ、大和と筑紫を取り持ってくれた。鏡王に、大織冠(たいしょくかん 注1017)をせめて渡そうと思ったが、鏡王は断りおった。実のところは、この働きは鎌足こそが褒められるべき、とな。それで、わしが海を渡る前に、この冠位を、おぬし中大兄どのに預ける。もし、私に何かあれば、私の代わりに鎌足に授けてやって欲しい」 ということでした。


 鎌足どのは、その話を聞かれて、「鏡王どのこそ頂くべきでしたのに。このことは、是非、妻、安児に伝えてくだされよ」と、仰られて、にっこり笑われて往生(おうじょう 注1018)されたそうです。



 その間に、幸山大王が唐軍と一緒に帰国された、という話が伝わってきました。そのせいで、荒れていた筑紫の地にも平穏が戻ってきて、さすが天のご一統のご威光はたいしたものだ、という世評だそうです。

 最近は、大伴様が仰るように、柿本人麻呂様みたいな心のしっかりした方でないと、今の世には和歌を詠むのは無理の様です。三十一文字の道を人に教えたことなど、今になって考えると、おこがましく、恥ずかしくさえ感じます。しかも、私の心のなかにはもう和歌を詠もうという気持ちは、これっぽっちも湧いてまいりません。

 今の世の中は、歌詠みが出来る世の中でしょうか。それでしたら、結構な世の中だと思いますが。


 今は、すべて不比等が取り仕切り、私は仏間でウサギが彫ってくれた、父上と鎌足どのと定恵の三体の木像を拝みながらの毎日になりました。

 世の人は、鏡王女も気が狂われた、と言っているそうです。そうでないことを知っているのは、コッジャとわが子不比等の二人です。木像の前で香を焚き、一心に祈っていると知らない人は思うでしょうが、木像の前に置かれた白龍の鏡のことを知っているのは不比等だけです。


 これからの日本をどうするのか、大海人と中大兄とのはざまにいて、不比等が悩む相談に私が乗っていた、など正気の沙汰(注1019)の話とは思われないことでしょうね。でも、年端(としは)もいかぬ不比等が、よく日本の舵(かじ)取りができたことよ、と後の世の人が不思議に思われたことだろうとは思いますが。


                     (つづく)


注1010)劉徳高(りゅうとくこう) 日本書紀孝徳紀に「定恵、乙丑の年を以て劉徳高らの船に乗りて帰る。」とあります。劉徳高は、唐の「朝散大夫沂州司馬上柱国」という肩書であったとも書かれています。


注1011)通詞(つうじ) 通訳のことです。古くは曰佐(おさ)といいました。古代の都の近くには「おさ」という地名が残っています。典型的な例は、須玖岡本の王墓墳の近くに「曰佐」という地名(福岡市南区曰佐)が残っています。須玖(春日市須玖)と隣接していますが福岡市なので、関係があることに気付かれないようです。


注1012)禅譲(ぜんじょう) 天子が一族でない人物に位を譲ることです。


注1013)吉野の海域 佐賀県の吉野ケ里遺跡がある一帯を古来吉野と呼ばれていました。吉野の海域とは現在の有明海を指します。


注1014)還俗(げんぞく) 僧籍にあるものが俗世間に戻り、俗人になることです。


注1015)因果応報(いんがおうほう) 仏教用語で、人の行いの善悪でその報いがある、ということです。


注1016)モガリ 「殯」と書きます。死者を本葬するまで長期間仮安置しておき、別れをおしむことが古代において行われました。


注1017)大織冠(たいしょくかん) 七世紀中ごろの冠位の最上のもので、藤原鎌足ただ一人が受けたとされます。


注1018)往生(おうじょう) 仏教用語で、現世を去って浄土に生きると云う意味で、死ぬことです。それから転じて、「往生する」というと、もうあきらめておとなしくなってしまう、という意味でも使います。


注1019)正気の沙汰(しょうきのさた) 「まともな行い」のいみですが、「正気の沙汰でない」という否定形、つまり「まともじゃない」という形で使われます。


『鏡王女物語』終章 国破れて-2

『鏡王女物語』終章 国破れて-2




唐の都から離れた静安寺(注1005)というところに、日本僧たちが修業の一環として訪れた時のことです。

そこに一人の日本人が居るということでした。しかもその日本人は僧でなく、奴隷だ、とのことです。その日本人が私たち日本僧が来ることを知り、近年、腎の臓が悪くなり、どうも長くは保たないだろう、今生(注1006)こんじょう)の願いで、是非彼らに会って故郷の話を聞きたい、と寺の和尚(おしょう)に願ったそうです。

奴隷とはいえ真面目に勤めているので、逃げる算段(さんだん 注1007)をせぬようよく言い聞かせ、自分の身の上話は絶対にせぬ、と誓って、その上で唐僧と一緒ならば、それも一夜のみであれれば、とお許しがあったそうです。

庫裡(くり 注1008)の囲炉裏を囲み、その奴隷から問われるままに、吉備国人、摂津国人、讃岐国人などが故郷の話をして、定恵が飛鳥の話をしたら、一段とその奴隷の目が光を増したようでした。


その奴隷は、身なりは奴(やっこ)ですが、身綺麗で、言葉は、母と同じ筑紫訛りがあるようです。
横の吉備人が、「この若僧は、中大兄皇子のお声掛かりで特に参加した」、などと云いますと、

「母御はさぞ心配されているだろう、名は何と仰るのかな」、と何気ない調子で聞くともなく言いますので、「安児といいますが」、と答えると、一呼吸置いて、

「ここのお寺は行路安全にご利益がある、今宵(こよい)の出会いをエニシとして、今後皆様の行路安全をお祈りすることにしよう、ところでお若い方はおいくつになられるのかな」。

答えますと、「ふーむ、その若さで大変だろうが修業なされよ」と言います。

このような話を、会話の間中、一語一語唐語に直して唐僧が肯いてから、次の話へと、まだるっこしい時間のかかる会談でした。

唐僧はどうも日本語も分かるらしいのですが、日本語だけの話にはしてくれません。


しかし、その日本人奴隷が去る時に、一つのお守りを出して、定恵に、

「この守り札は故郷を出るときに、無事と戦勝を祈願して頂いたのだけれど、武運つたなく・・・。しかし、半分の願いは聞いていただいた訳だ。国に帰った時に、もしこの社に寄れることがあったら、お礼にこのお守り札をお宮に納めていただきたい。」

「しかし、お名前を伺わなければ・・」と言いかけると、付き添ってきた日本語がわからぬ筈の唐僧が、「もうそれまで」と引き立てようとします。


「お願いだ。讃岐の此世去(こよさり」の社へ、とお願いいたすだけだ。」と、その日本奴隷が唐僧に申し入れました。
「なんだ、その讃岐の此世去の社というのは」

「小さな鎮守の祠です。讃岐の此世去とこの様に書きます」

その唐人が、そのお守り札を試し眺めて検査して、不審なものではない、と見てお札を投げ渡すと、「これまで」、と引き立てていきました。


帰りの航路は海が荒れました。

一生懸命お守りを握って天地神仏へお願いをしましたら、やっと収まりました。

汗や波で、預かったお守りもすっかり痛んでしまいました。

お守りの紐が、湿ったためか緩んでいます。

紐と見えたのは、堅く捩じった紙縒りを編んで作ってあったのが分かりました。

ふと、倭人が「讃岐の此世去の社へ」という不思議な社の名を言ったのが心の片隅に残っていました。

コヨリが現れて、はっと気付きました。

サ抜きのコヨサリ、つまり、コヨリと云っていたのではないか、ドキドキしてきました。

人目を避けて、少しずつコヨリの紐を解いていきました。

赤黒い色をした。「武運長久安児」の六文字が見えてきました。

思いもかけない母親の名を見つけ、動転してしまいました。

人には言ってはいけないことだ、とは、本能的に分かりました。


一貴皇太子が十年前に、カラで戦死した話は聞いていましたが、まさか、と結びつけることが出来ず、帰国して早速、山城の母のところに訪ねて行きました。



以上が、定恵(じょうえ)が母上だけに伝えたい、といって話してくれたものです。



最初は、こちらの気も動転(どうてん 注1009)しましたが、頭の鋭い定恵の追及に、本当の父親をこの子も知るべきか、と思ったのが後で思うと、取り返しのつかない、一生の不覚でした。父上が存命でしたら、別の解決の策もあったことでしょうが。


定恵は何も言わず、黙り込み、都へと帰っていきました。これが今生の別れになるとは、知りませんでした。知らなかった方が良かったのかもしれませんが、悔やんでも悔やみきれません。


                    (つづく)

注1005)静安寺(せいあんじ) 上海市郊外に静安寺という古刹があります。しかし、この場面に出てくるお寺と同一かどうかは不明です。


注1006)今生(こんじょう) この世に生きている間の意味で、現世のことです。


注1007)算段(さんだん) 苦労して方法ややり方を考え出すこと。金銭などを工面するという意味でも使います。


注1008)庫裡(くり) お寺の人たちが生活するための建物の部分をいいます。


注1009)動転(どうてん) 驚いて気持ちが平静さを失うことです。