「生き方」という妙な言葉がある。これは実のところなかなかの含蓄を持った深い言葉で、そしてその意味合いは自分の居る場所によって全くイメージが違ったものになる。つまり「生き方」は自分が居る環境に強く依存する。

そして前回記事でも書いたように、会社員とそれ以外とでは、根本的に生きる上での適応戦略が違う。そしてこの事こそが、何回かにわたって書いてきた「今の日本の医療や福祉の欺瞞を根本的に解決する提案」に繋がるのだ … やっぱり数多の日本の問題群の根底に横たわる課題は「生き方改革」であって、それははっきり言えば【サラリーマンという在り方を根本的に破壊し尽くす】事で尽きている。


サラリーマンという言葉を定義すれば何だろう?実はそれはそんなに難しくはない。それは何のことは無い、いわゆる出世競争などと言う「所得や地位などのマウント」だけが生き甲斐な人種の事だ。さらに言えば、家族にすら愛情や助け合いを求める姿勢は希薄で、それよりも例えば自分の子どもに対して「学校での成績や学歴の高低を求める」ような、そんな存在の事なのだ。

ここまで書いていてその下らなさに失神しそうだが、現実はこんな感じに近い。そして、この手の価値観を無批判に受け入れている家庭においては必然的に、妻も会社勤めの夫のことを本気で ATM としか思っていなかったりする。これも落ち着いて考えれば凄まじい話で、こういう表現を扇情的だと思う人も少なくなかろうが、これにしても何やかや割と実態に近い。

考えても見て欲しい。愛情も無く金と地位だけでしかない成人男女の関係性が幅を利かせていて、そしてそれを失うのが怖いからこそ離婚できないし幸福度が低いなどという「選択の自由」や「幸福追求権」とは程遠いケースが多いのだ … こんなのは何のディストピアかと思うが、サラリーマンにまつわる諸々の根っ子は大体はこういう話なのだ。当たり前ながら、こんなのばっかりの現状において、やれ出生率だの、そもそもの恋愛がどうだのという、そんなまともな話が有るはずが無いだろう。だって最初から底が抜けてるのだから。底抜けのザルにいくら上から水を注いでも、水が溜まるはずもない。

この「妻が会社勤めの夫のことを本気で ATM としか思っていない」というのは、まさしく夫という存在が正真正銘「現金輸送車」であるという事だろう。この「現金輸送車」という日本語のリアリティーは凄まじいもので、そしてこういう実態こそが日本におけるこの50〜60年にわたる【リアル標準世帯】と言えるのだ。

霞ヶ関が何をどう定義しようとも、家庭とはその内部に生身の人間が居る。もちろん各々には心があって、なので、いくらプロパガンダで誤魔化そうとしたって、そんなのはハリボテ・張り子の虎に過ぎない。心の中の真実は、いくら嘘で塗り固めたってどうしようもないのだ。


大体、平成に入ってからの社会的風潮として、男の側から見てのいわゆる「金と女」の話を俯瞰すると、そこには圧倒的に「個の感情」が欠落しているという感想にしか至らない。もちろんこの絶望的な事態は、各自がモテるだのモテないだのとかいう間抜けな話とは、全く何の関係も無い。

そしてこんな悲惨な現状の理由は今や明らかで、最初の一歩目からして「恥の意識」と呼ばれる公的抑圧(パブリック・プレッシャー)まみれだからであって、元々の動機がそういう外的圧力での「やらされ感満載」だから、そこにはいわゆる惚れた腫れたのような「個人の自発性」なんてハナから皆無だったのだ。

もっと言おう。無いのは「個の感情」ではない。「個」そのものだ。そして有るのはと言えば、例えば「フラット35」だとかの「制度・システム」だけだ。もちろんこの手の制度とは、しょうもない JTC を存続させるためだけの出来の悪い集金システムでしかなく、さらに言えばこんなものの陳腐さは、もう40年以上前から本当は誰もがみんな分かっていたはずなのだ。

この「フラット35」とかの下らなさを見ると、少なくともここ50年くらいの日本国においては、高い確度で「恋愛制度が間違っていた」と言えるだろう。実際、恋愛というものをパーソナルな何かと捉える考え方は、おそらく70年代にまで遡ることになるだろう。もしかしたら70年代初頭のユーミン(荒井由実)のデビューアルバムのあたりが最後かもしれない。

辞書的な原則論を言うと、元来の恋愛という言葉(概念)は、それこそ個々の百人百様っぷりがその含蓄としてあるはずなのだが、何らかのマスプロパガンダによって定義した「正統」以外を恋愛とは認めないのがまさにこの50年の日本の極めて強い傾向なのだ。そしてその根底には「フラット35」のような計画経済的かつ国家社会主義的な発想が横たわっている … それにしても「恋愛の正体みたりフラット35」とはあまりにも出鱈目で滑稽にすら思えるが、でも実際のところはそんな感じなのだ。


冒頭にも書いた事だが、会社員とそれ以外とでは、生きる上での適応戦略が根本的に違う。先程から書いていることは全て「サラリーマンの目線から見える風景」であって、もちろんこんな醜悪な土壌の上に何らかの美しい花が咲くことなど無い。これらは「死霊の世界」であって、具体的にはそれこそ「フラット35」のような巨額のローンの事なのだ。

なので、全ての前提として【サラリーマンという在り方を根本的に破壊し尽くす】事をしないと、そもそも話にすらならないだろう。それは例えるならば、家を建てる時にまずは建築屋では無く土木屋が出て来てしっかりした土台を作り、それから建築屋がその土台の上に家を建てていくようなものだ。どんな壮麗な建築物であっても、土台が崩れたら砂上の楼閣と言うか「親亀コケたら皆コケた」となるのは必定だ。

そして何回かにわたって問題視してきた「日本の医療や福祉の欺瞞」に関しても、全ての土台である「サラリーマンという在り方」の破壊が前提となる … というか、現行の異様な医療福祉体制とは、ある意味ではこのサラリーマン的世界観という醜悪な土壌に対する一種の過剰適応だとも言えるのだ。

サラリーマン的世界観の根底とは、これまで繰り返し述べてきたように、個の「選択の自由」や「幸福追求権」とは程遠いディストピアだ。この醜悪な世界においては、僕自身が #開国しなさいニッポン 運動の時に戦う事となった鎖国派であったり、今のインバウンドによる飲食店隆盛を嫌味ったらしく苛め抜く「製造業マンセー」だったりが優勢となる。もっと言えば、この醜悪さの根幹は「いじめ」「差別」「マウント」「リンチ(私刑)」だ。それは小学校の学級会や「帰りの会」での吊し上げと言い換えてもいい。

ここ何回かずっと医療や福祉の事を問題視してきたが、実のところはその根幹はと言えば、このサラリーマン的「いじめ」「差別」「マウント」「リンチ(私刑)」の世界観なのだ。なので、これら問題の解決のためには、実はここを叩けばいいだけだったりする。何のことは無い、根本的解決策とは実はここなのだ。


ここからは多少の想像を含むが、もしも仮にそういった「根本的解決策」がある程度順調に進めば、この国はどう変化していくだろうか?ほぼ確実に言えるのは、実はこの日本という国が「低医療・低福祉」の国である事が明らかになることだ。そしてそうなりつつも、人によっては良質な医療を求めて高額な民間医療保険に入るかもしれないし、自治体によっては医療福祉重視の施策を掲げつつ他地域からの転居を薦めたりするかもしれない。そしてこういう事は各々の個人や組織の選択なので、それぞれ勝手に選べばいいのだ。自由意志に基づく「選択の自由」と、日本国憲法にも保障された「幸福追求権」でもって。

我々日本人がこの「根本的解決策」を社会全体で選択するには、それなりの障壁があるだろう。前回記事の末尾にも、会社とは「辞めても辞めても辞められない」ところだと書いた。そしてここで言う「根本的解決」のためには、どうしても各々個人がこういう厄介さに向き合わなければならない。それは必然的にそうなる。

だが、この厄介さへの対策も、やや難易度は高めなものの事はシンプルだ。以前にも書いたように「才能が全て」と覚悟を決めてしまって、それが通らないような人間関係など全て捨ててしまえばいいだけなのだ。

凄まじい話だと思われるかもしれないが、どんな喧嘩別れだって全然構わない。自分の才能に妥協せず「空気読め」だの「大人気ない」だのはガン無視する事だ。心配せずとも、人間関係なんて誰かが出ていけば誰かが入ってくる。そんなもんだ。無人島にでも住んでなければ、人間はそうなる風に出来ているのだ。

もっと言えば、喧嘩を恐れないこと。大人気ない自分を恥じない事。悪いのはいつだって現行社会であり会社であって、正しいのはいつだって個人なのだ。会社マンセーな奴らなんて、同じ人間と思わなくたって全然構わない。そいつらと同じ空気を吸いたくないというそれだけの理由で「大人気ない」をやっちゃえばいいだけなのだ。「大人気ない」なんかで、自分を止めなければいい。ただひたすらそれだけなのだ。

日本にはさまざまな課題がある。特に医療や福祉の問題は、複雑すぎて解決不可能にさえ思える。

だが、根本を言えばやっぱり個人だ。個々の覚悟なのだ。

各々が「大人気ない」をやっちゃえば、少なくとも会社的とかいう醜悪かつ間抜けな価値観に起因する問題は、全てがいきなりぶっ飛ぶだろう。そしてこの2024年の梅雨時とは、そんな【大革命】が各所で起こる間際なのだと思う。その兆しは、為替や日本国債の金利という形で、あるいは「トー横」の治安崩壊という形で、既に表面に出つつある。

だからこそ、こんな時代だからこそ、我々個人は「大人気ない」でやっていこう。自分の才能に妥協してはならない。ただひたすら誰もが大人気なく、己の才能だけをぶん回そう。少なくとも今のこの瞬間に関しては、個人のその覚悟だけがこの国を救うはずなのだ。