最近はオールドメディアの「逆神化」が凄まじく、これはこれで変な話なのだが、まあ今までが酷すぎたがゆえの反動なのだろう。かつてのフランスのように本物のギロチンが出て来てないのだから、まあこれでいいのかもしれない。
ともあれ目下の情勢においては、オールドメディア風のオールド感性に対しては完全に距離を置くしかなく、中途半端にちょっとフックをかますみたいな態度では、ゴリゴリのオールド感性とほぼ同じ運命を辿ることになってしまう。
ある時期以降の東京でやけに流行ったモデルに、勢いづく大阪へのアンチ風味を漂わせて東京の既存におもねつつも、諸々話題において〈尖った事〉を展開するというのがあった。まさに「中途半端なフック」感満載なのだが、これは一見勝つ確率が高そうに見えて、実は穴だらけのポンコツモデルだった … それは万博終幕1年後に「世界縁日」が大成功した今になれば、もはや凡庸な目にも明らかだ。結果として今の東京には、あからさまに古臭い者だけでなく、2025年万博終幕から約1年間の時代の流れを読み間違えた敗残者がわんさと居るように思われる。そして以前の記事で書いたように、逃げ足の速い者は気がつけば大阪アゲ東京サゲをするようになっている。おそらくこれが目下の最新情勢だろう。
時代の流れを読み誤った者たちの「誤算」は、おそらく「メディアが一方向の時代」のやり方が全く通用しなかった事だろう。今の時代は双方向性(インタラクティブ)であり、嘘はあっという間に暴かれる。そしてそのあたりを甘く見ている者は木っ端微塵に吹き飛ばされる … これが現代のスタンダードなのだ。
それにしても不思議なのは、生成AIのような最近の技術ならいざ知らず、インターネット登場から30年も経っているのに、多くの東京勢力が何故インタラクティブな世の中の到来を予見出来なかったのかという事だ。と言うか平場の世の中では、僕だけでない多くの人が20〜30年前から「メディアなんか全く信用していない」「世界の基準・動向から見て違和感しか無い」と感じていたようだし、いわゆるガラパゴスな諸々に嫌悪感を持つ人も決して少数派では無かったはずだ。こんな状態で「一方向の時代」のやり方が2026年にもなって通用すると考えるのは、ちょっと異常だと思うのだ。
まあ要はテレビ塔を持つオールドメディアの凄まじい既得権に誰もがあぐらをかいていた … みたいな感じの説明が穏便なのかもしれないが、実は最近の僕は東京とかオールドメディア(あるいはオールド感性)に関して、ちょっとこれまでとは違った見方をしている。実はここ30〜40年くらいの東京要人たちは、外からは見えにくい【微妙なところ】で沼みたいなものに足を取られていて、さらに言えばそれを摘発するはずの人たちも似たような感じで身動きが取れず、それはいわゆる「腐敗」を超えた何か … 言わば「超・腐敗」だったのではないか。そんな気がするのだ。
この妙な気づきのきっかけは、僕自身の大学時代をぼんやりと思い出した事だった。僕が京大にいた大学時代とは修士課程を含む6年間で、この期間は端的に言えば充実しきっていたのだが、一方で数多の矛盾にどうにもならないほどに苛まれた時期でもあった。まあ人はそれを「青春」とか言うのかもしれないが。
この時期(1991年4月〜1997年3月)を振り返ると、僕はインターネットとの幸運な出会いもあって、この頃から「世界思考」だった。それもあって、ドメスティックな諸々にはずっと違和感があった。
今思い出すと不思議なのだが、大学に入ったあたりからとにかくテレビが嫌いになったし、特にフィクション(ドラマ)が大嫌いになってしまった。その頃は何とも謎だったのだが、あれは実はあの頃猛烈に流行った「トレンディドラマ」が嫌だったんだと思う。その理由はと言われると実は困ってしまって、というのも僕はドラマ・演劇には元々関心が薄いので、本来ならばトレンディだろうがなかろうがドラマは「好きでも嫌いでもない」はずなのだが、何というかあの時代特有の空気感として恋愛とかそのへんに対して少しでも否定的な事を匂わせたら〈人でなし扱いされる〉圧力があって、そういう日本風の「空気支配」が本当に嫌だったのだと思う。さらに言うとそうした本音を口に出せないので、ヒステリックに全部否定せざるを得なくなってたんだと思う。
ともあれ、僕は90年代からトレンディドラマ等の地上波テレビ関連ムーブメントや今で言うオールドメディアそのものには違和感満載で、そしてそれは、やはり僕がその頃から世界思考だったからだ。今で言うガラパゴスと僕のピュアな感性とは、この頃から極めて厳しい対立関係だったのだ。
90年代以降の日本については、誰もが「失われたウン十年」などと言う。でも、この時期の日本は外国から見れば全く失われてなんかいなかった。だって、イチローが米国MLB史に永遠に残る実績を残したのは00年代だし、山中伸弥氏がノーベル賞を獲得したのは2012年だが研究の核心部分は00年代に本質的な進展をしている。そもそも日本はこの時期にいくつもノーベル賞を獲得しているし、日本のアニメやゲームはむしろ世界中でとてつもない実績をあげている。外国から見れば、何が「失われた」なんだと。
結局、日本の「失われた」感じとは国内問題なのだ。そしてそれは、僕がトレンディドラマを否定すると「人でなし扱いされる」圧力に苦しんでいたあの雰囲気とシンクロしているように思うのだ。問題の本質は「空気支配」であり、それはドラマの内容云々もさる事ながら、全体的なムーブメントが何とも言えない程に「灰色」だったのだ。
僕は、ついに日本の〈急所〉を掴んだと思っている。先程「超・腐敗」と表現したが、日本国の腐敗や停滞の根源は、実は国内の「エンタメ(興行)」に存在する奇妙な空気感だったのだ … 僕は長らく日本の停滞の源は〈遅すぎる〉政治だと考えていて、だからこそ政治をガン無視して行政に向かえと言って来たのだが、実は根っ子はそこじゃなく独特に停滞したエンタメ周辺の空気感だったのだ。実際、今や遅いと思っていた政治でさえ正常化が加速しているし、一方でエンタメが絡むと事あるごとにいちいち引っ掛かる。真の障害はここだったのだ。
エンタメそのものは社会の中のごく一部分に見えるが、実は政治や経済にかなりの影響を与える。まずは政治だが、この業界がエンタメと無縁であるはずが無い。長年にわたり「タレント議員」は与野党問わず多数居るし、一票が全ての政界においてエンタメはむしろ親しい関係だろう。経済にしても今の「推し活ブーム」が分かりやすいが、現実の経済界はエンタメが生み出す富に依存したくて仕方が無い。そしてそれは当たり前の話だ。僕自身が日々体感しているのだが、ミもフタもない話として、企業という存在の根幹は経理部門が握る数字に左右されている。
要は「エンタメはただのエンタメにあらず」で、そしてある時期からの日本のエンタメとは、あらゆるジャンルで人々の活気と可動域を奪っていく「呪い」のような存在だったのだ。それこそトレンディドラマへの違和感を仄めかすと人でなし扱いされる空気感とかが、社会全体に粘性抵抗のようにして停滞を生み出したのだろう。
ここで言うような日本のエンタメと真逆の存在がある。それはインバウンドだ。まさしく「インバウンドはただのインバウンドにあらず」で、これについては以前から書いているが、要は地場経済全体に外貨(=外国の貨幣)を真水でもたらす「地を這う〈国際金融(=国をまたいだお金の融通)〉」こそがインバウンドの正体だ。そしてこの意味合いにおいて、ある時期からの日本のエンタメとインバウンドとは完全に真逆の存在なのだ。
僕は音楽を中心にして、90年代以降の優れた日本のポップカルチャーをそれなりに知っているが、それら全てに共通するのは、本質的なところで【日本人離れ】しているという事だ。やっぱり万博の時に書いたように、日本人離れした者こそが真の日本人であって、そして万博にせよインバウンドにせよこの日本人離れと極めて親和的なのだ。一方で昨今の日本のエンタメとは、まるで秘密警察のようにこうした態度を執拗に摘発する。要は日本のエンタメが長らくやっていた事とは「日本人が真の日本人として目覚める事」の妨害なのだ … こんな出鱈目があっていいのだろうか?
最近書いているのは、芸能界は要らないとか、それに付随してコタツ記事もワイドショーも要らないとか、文化の老いとか、それに対する文化祭の圧倒的優位とか、こういう話ばかりだ。きっかけは、目下のスパークの時代には国会での答弁読み上げみたいな kabuki は要らないという気づきだった。
そして先日、沖縄に続いて横浜でも奇跡が起きた。横浜市長選において与党系新人が現職を含む他候補を圧倒し、ゼロ打ち当選を果たしたのだ … これはもう完全に決定打で、もう誰も真実を隠せない。東京近隣の横浜でここまで来たら、オールドメディアの世論コントロール力など誰も相手にしないだろう。はっきり言って政治さえ絡まなければ普通の生活レベルではオールドメディアなど無視すれば良いだけなので、やはり沖縄の時点で完全に勝負はついていたし、そしてついには横浜において異論が不可能なレベルで実証されたのだ。
その意味で、今残された問題群は完全に「後始末」であり、そしてこの後始末に関してとことん厄介なのが kabuki まみれの芸能界であり日本のエンタメなのだろう。文字通りの意味で生活上の必須ではないエンタメには、長年オールドメディアが垂れ流し続けたオールド感性が沈着している。この最凶レベルの「負の遺産」処理は、そう簡単にどうこうなるものでは無さそうだ。
エンタメの不振は、多くの場合は「スケールさせる」事の不全を生むと思う。日本においてはいわゆる縦割り行政を典型とする「セクショナリズム」が強烈だが、エンタメはこうした澱みを破壊する営みだ。そして理屈はともあれセクショナリズムの壁がひとたび壊れたならば、多少の違いを乗り越えてみんなでチームを組める … すなわちスケールさせる事が出来るのだ。以前に述べた「スケールメリット厨」は単なる数合わせの権威主義でしかないが、セクショナリズムを破壊した上での大連合は、本来の意味でのリアルなスケールアップ(桁上げ)なのだ。
こうした機微は、日本神話におけるアメノウズメの活躍としても描かれている。おそらくだが、古人は日本の急所がエンタメにある事を知っていた。この国には古来より何かと言えばセクショナリズムに陥る悪癖があり、その打破にはアメノウズメのようなタイプの才能が必要なのだ。
結局のところ、日本最悪の改革抵抗勢力は例えば医師会みたいな業界団体というよりは「セクショナリズムそのもの」であり、だからこそ「日本の急所はエンタメ」だし、現代日本を本当の意味でスケールさせるには、特効薬はアメノウズメというメタファーなのだ。そして神話が語るように、このメタファーさえ十分に機能していれば、この国から灰色の雲は去り太陽の光で満ち溢れる。それが無敵モードが延々と続く「世界縁日」の大阪であり、平城宮跡で「ずとまよ2days」を成功させた奈良なのだ。
そう言えば僕の実家近くの神社では、実はアメノウズメを副斎神として祀っている。せっかくなので、一度お参りに行こうと思う。僕自身も無敵モードに突入して、そして自分の身の回りから本当の意味でのスケールアップを実現させたいと願うから。