コロナの五類化は昨年の5月8日の事で、あれから一年と少し経つわけだが、今はっきりしているのは「日本の医療」というものは、もう完全に終わったのだなという事だ。少なくとも、コロナ前に多くの人が日本の医療に対して抱いていた曖昧な信頼感のようなものは、今はもう木っ端微塵にぶち壊されている。

その意味では、現況は「公衆衛生が崩壊している」のみならず、さらなる勢いで「崩壊が加速していく過渡期」でもあるだろう。昔のようなテレビ局独裁とでも言えるような情報統制の時代ではなく、SNSを中心としたネット上でのオープンなやり取りが可視化されているので、多くの人が抱くあからさまな本音が、それこそテレビ上でも「ネットでの声」として拡散され続けている。「情報の民主化」とはこういう事で、医療という本来はセンシティブな事柄でこうなるというのは、やはりネット時代特有の現象だろう。


そして、この現在の状況は、はっきり言ってしまえばこれこそが「コロナの3年の答え合わせ」なのだ。この3年間の医療界の対応があまりにも酷いものであったために、今では公衆衛生自体が胡散臭いものであると、広く周知されてしまっている。まさに「これが現実」で、そしてこの事の責任は全て医療界にある。一般国民には、この状況についてどうこう言われるような筋合いなど米粒ほどもない。悪いのは全て医療界なのだ。

あらためて言うまでもないが、コロナの3年間での「医療への怒り」は凄まじいものだった。あそこまでの事態を引き起こしてしまえば、医療の言うことなんて誰もがハナから眉唾で聞くようになるのは当たり前だろう。

そしてこれは「医療側のコミュニケーションスキルの問題」などではない。そもそもの「感染対策」なるが邪悪そのものだっただけの事だ。そんな「モノは言いよう」だとかのテキトーな話になど、誰が逃げさせるものか。

これは日本に限ったことではないのだが、少なくとも日本でのコロナの3年間というものは、明確に【学問としての公衆衛生学の底の浅さが露呈した】という大事件だった。つまり、一つの学問が現役の学問としての資格を失ったのだ。

実は学問の歴史において、こういう事はそんなに珍しくない。その典型例として「錬金術」が挙げられる。

現代では魔術や迷信として認識されている錬金術だが、実は古典力学を大成させたニュートンはこの錬金術に凝っていたようだ。あの物理学のニュートンが錬金術?と不思議がる人も居るかもしれないが、これは実のところ全く不思議な事ではない。何故なら、ニュートンの時代においては錬金術は最先端の学問の一つだったからだ。

ニュートンは自らが古典力学として大成させた諸々の物理的知見と同様にして、錬金術というその時代における〈学問〉に熱心に取り組んでいた。ただそれだけなのだ。結果として錬金術というものはニュートンの後の世代によって、ニュートンの業績を援用した物理学的世界観によって「魔術」扱いされた上で学問の座から陥落したわけだが、それについてニュートンが生前に知るなんてどだい無理な話だ。当時は今のようにインターネットも AI もなく、学問の進歩やそもそもの学問的成果の伝播や浸透のスピードが現代とは比較にならないほどに遅かったのだから。

ともあれ、錬金術を見てもわかるように、学問にも「引退」や「戦力外通告」がある。そして今回のコロナ騒動の最大のインパクトは、公衆衛生学に「戦力外通告」がなされたことだ。それはニュートンの後の時代に錬金術が「魔術」になってしまったような、一種の「革命」と言っていい。


さて、公衆衛生学が錬金術の如き魔術に転落してしまうと、誰でも一度は抱いた疑問がその輝きを増してくるはずだ。要は「医学って、本当に学問なのか?」という事だ。

医学はよく「経験的学問」と言われるが、本当に経験的なのであれば、それは野球やサッカーのセオリーと何が違うのだろう?少なくとも古典力学の厳密さとはかなり違うというのは、多少まともな感性があれば誰にでも合点出来る事だろう。それこそあの野球の故・野村克也氏の「ノムラの考え」と医学と呼ばれる学問との間に、本質的な差はあるのだろうか??

こうしてあらわになるのは、世の中全体に蔓延っている社会通念における「医療にまつわるアレコレ」が、実は非常に基盤の脆弱な、猛烈にあやしく胡散臭いものであるという事だ。

そもそも、昭和の昔から今の令和に至るまで、ある程度の年齢に達した大人であれば、医者なんてのは「別にそんな大して偉くも何ともない」と感じるのが普通の感性であるはずだ。一方で、現代日本の社会通念として医者と言えば「エラい人」で、一度きりの人生の早い時期を生きる若者たちはその直感的選択の結果として誰もが医者を目指す傾向にある。田舎の青年が「食うために」医者を目指すケースもあるとは思うが、東京のような都会でまさしく「エラい人」になりたいがために医者を目指すようなケースは、それこそ無数にあるだろう。

僕はこの文章で「虚栄心」を否定しているのではない。そうではなくて、何で〈医者なんかに〉虚栄心を求めているのか、心底から意味が分からないと言っているのだ。はっきり言うが「エラくなる」ために医者になるなんてのは、間違っているというか馬鹿とか白痴の部類だ。


僕が今やっていることは、医者にまつわる「設定」の出鱈目と嘘っぱちを暴き立てることだ。もっと言えば医者なんか「裸の王様」であると天下に曝す事だ。

本当はこういう事を「週刊文春」あたりにやってもらいたいところで、ジャーナリズムが「公益」をうたうのであれば、これくらいのレベルの「今の日本社会に真に求められていること」をやらなければ嘘だろと思うのだが、東京大手メディアはもうこういう「本当の事」は書けなくなっているのは自明なので、仕方が無いからこうして僕が頑張っている。

メディアの話はともかく、医者というのはつくづく裸の王様だと思う。そもそもの仕事内容からして、社会通念上の権威性とは裏腹に、医者の本質は「手当てをする人」だ。言い換えると具合の悪くなった人を何とか世話をする「お世話係」で、介護分野に「ケアマネージャー」という要職があるが、医者の本質はこのケアマネージャーとかなり近い … だからどうだと言ってるのではなくて、要はカッコをつけたいのならば、あまり目指さない方がいい生き方が他でもない医者なのだ。

現場の臨床医はそれに近いかもしれないが、基礎研究や先端医療の開発はイノベーティブでカッコ良さそうみたいな事を思う人が居るのかもしれないが、これも随分おかしな話で、何と言うか前提がイカれてしまっている。

そもそも医療とは、元来はイノベーションから一番遠いところにあるものなのだ。これは弁護士もそうなのだが元々「他人の不幸で食ってる」職業で、要はみんなが健康ならこの医者という職業は存在しなくなるのだ … 別にこれはそんなに大袈裟な言い方ではなくて、古来から万能薬的に使えるとされてきた植物の「アロエ」には、本当に「医者要らず」の異名がある。実際のアロエの効能はともかくとして、みんなが健康なら医者なんて要らないよというのは、古来から人々の生活に浸透してきた生活常識なのだ。

それゆえに、医療にまつわるイノベーションとは「医療行為そのものを減らすこと」でなければならない。そしてそれは現代においては「ライフサイエンス(学部で言うなら農学部の農芸化学)の浸透」の事であり、無論それは結果として医学を退潮させる。医学という学問は、元々そういう性質のものなのだ。

僕は過去のブログで「ワクチンは間違っている」という事を言った事があるが、この理由は単純で「ワクチン接種とは代表的な予防医療だから」だ。ワクチン接種の推奨は「治療から予防」という医療系の社会運動なのだが、これは全くイノベーションではない。それどころかむしろ逆で、ワクチン推奨等の施策でもって予防医療を増やしたって、結局医療行為は減らないどころか却って(かえって)増える。これじゃ「医者の役得」でしかないじゃないか … そしてこんなのは常識とか良識の範疇の事柄だと思うのだ。

実際、かつての医療は産業としては今よりもはるかに小さいものだった。それを予防だ延命だと言って、本当に必要なのかも不明な検査でもって病気をどんどん作り出すことで、その「領地(ジッツ)」を拡大してきた。もちろんその費用は税金や保険から引き出される。なので、その範囲を縮小しようとする動きに対しては、医療界は全力で潰しに来る。こんなのは単なる医療界によるレントシーキングでしかない。考えて見て欲しい。何で健康で元気満々な一般国民が、こんな医者どもの銭儲けに付き合ってやらなきゃならんのか。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろう。


今回はここまでとする。ここまで医学と医療の「裸の王様」っぷりを暴いてきたが、次回もこの路線で書くべきことを書いていく。