日本の奇習は、全て東京発だ。そして東京とは JTC であり、JTC とは東京だ。どちらが鶏でどちらが卵かは、今となっては分からない。
以前に書いたかどうかは忘れてしまったが、東京以外(←東京弁で言うところの「地方」)は東京のミニチュア版というのは、ロクでもない事に関しては完全にこの通りだ。そしてこの嫌な話は JTC の本社と支店の関係によって支えられている。すなわち悪しき事は必ず本社で起きて、そしてミニチュア化しながらじわじわと支店へと浸透していく … 会社というのは、そういうところなのだ。

数ヶ月前の事だったと思うが、僕が梅田の居酒屋で飲んでる時に、隣に東京弁サラリーマン二人が居た。まあ居酒屋でのオッサン同志の会話なんて大体はしょうもないものなのだが、それにしてもその二人のやり取りは微妙かつ決定的に変だったので、その時は本当に苦痛だった。自分でも驚くほどに気が滅入ってしまった。
一例を挙げる。東京と大阪の居酒屋を比べる話があって、まあ要は大阪の居酒屋は美味いのだと。これ自体は「くいだおれの街」の底力という程度の話なのだが、曰く「大阪は美味くないと潰れちゃうんだよね」とか言い出すのだ … あのさあ、はっきり言ってそんなの当たり前でしょうと(苦笑)。じゃあ何かい?東京の居酒屋はマズくても潰れへんのか??それって猛烈にヌルい(ヤバい)話なんだけど、そんなんで大丈夫なんか???
まあ大体において、隣席がこんなノリの時は自分でも体調の悪さが分かるほどに変な酔い方をするものだ。無事に家に帰れるのかな?などと本気で心配になってしまう。

そして実はこの時に関しては、僕に神風?が吹いた。というのも、この東京弁の二人連れサラリーマンが有り難い事にあっさりと席を立って、そこに関西弁(←つまりは地元)の若い女性二人組が座ったのだ。
まあこの二人組も、少々失礼にはなるがぶっちゃけどうってことない若い女の二人連れで、それこそ「前の彼氏が〜」とかのアホみたいな感じだったのだけど、実はこの時の僕はこの二人組に真底で癒されてしまった … というか急に周辺の空気感がまろやかになって、普通にリラックスした上で美味しくお酒が呑めるようになったのだ。
言うまでもないが、この二人に僕が「癒やされた」のは、前後の「差分」によるものだ。これはプロ野球の投手で言う「緩急」のような感じで、要は最初に80km台のスローボールを投げられると、次が140kmそこそこの真っ直ぐであっても打者は速く感じて空振りするというアレだ。
もう少し詳細に書くと、この「前の彼氏〜」の女性二人組は、少なくとも生身の生き物の声で注文してくれていた。それは「すんませ〜ん(ここで手を挙げる)、ハイボール2つ〜」とかのたわいない言葉なのだが、この柔らかなイントネーションの言葉は、要は街の野良猫やカラスのようなものだ。つまりはごく自然であり普通の感じなのだ。「お腹すいた」とか「そろそろもう一杯」とかと同じで。
ところが東京弁サラリーマンの方は、別に横柄とかでは全く無いのだが、とにかく不自然なのだ。その違和感についてどこがどうと言われると困るが、それでも明らかに「おかしい」のだ。所作が微妙に変だし、何か別にお酒や食べ物が欲しいわけでもないくせに、薬でも処方して貰うようにして店員さんに注文するのだ … 何なんだろう、この変な感じは??

この「居酒屋で薬を処方してもらうように注文」というのは、おそらくは典型的な「東京の奇習」だ。そこには「自発性」が欠片ほども無くて、そしてその行動が何やかや選択されている理由は「そういうものだから」「お約束だから」なのだ … こんな異様な話があるだろうか?
だって街のカラスであれば、カァとか言いながら「あぁ腹へったなあ」と感じたら、それこそあの翼でもって道路脇のゴミ袋へと飛んで来るだろう … といいつつそれは大体は黄色のネットに阻まれてしまうのだが(苦笑)、それでもこのカラスの振る舞いは、生身の生き物として正常そのものだと思うのだ。
なのに、梅田の居酒屋であっても東京弁サラリーマンにはこの街のカラスの普通な感じが欠落している。要は、食事を摂るという生き物としての切実な事項すら、東京弁サラリーマンにおいては「お約束」なのだ。そしてこんな存在とは、平たく言えば、毎分毎秒において死ぬほどつまらない存在だ。そしてさらに言えば、最近だとこういう異様なつまらなさの事を「定型発達」とか言うのだろう … もちろん生身の生き物として真っ当なのは、言うまでもなく「発達障害」の方に決まっている。
こういうのが、いかにも昨今の東京的な「絶対的貧しさ」なのだろう。そしてこの貧しさは、野球の投手の緩急のようにして「若いだけでどちらかと言えばだらしない印象の女性」の価値を爆上げし、そして以前の記事でも書いたが、本質的に貧しい東京男性はこの「140kmの速球」に対処出来ずに、結局はこのレベルの女性に膝まづいた上で結婚まで申し込むのだ … まさに倒錯という他はない。

結局、こういう事の蓄積でもって、昨今の東京の異様な空気感が形成されているのだろう。そして「奇習」が生まれて、JTC というおかしな組織を経由して全国にバラ撒かれ、そしてこれまた典型的な奇習たる「就活」でもって無防備な若者たちをその異様な世界に取り込み続ける … こんな馬鹿げた事を長らく続けてきたのが東京であり JTC なのだ。

さてそんなおぞましい東京という街においては、つい数日前に画期的な出来事が起きた。もちろんこれは 7/7(日)の都知事選挙のことを指している。

この選挙は、事実として「現職が三選(しかもゼロ打ち)」という典型的な無風選挙だったのだが、そういう本来の選挙としての意義や位置づけとは全く別のところで、言わば先ほどから書いているような「東京の奇習」の集大成イベントとして、尋常ではないほどのインパクトがあったのだ。

この選挙においては、主要登場人物にも選挙中に起きた諸々出来事にも、実は殆ど何の意味も無い。それこそ、そんな事を話題にするのは退屈な東京弁サラリーマンくらいのもので、普通の生活者は東京以外はもちろん東京ですらほぼ無関心だったろう … あくまでもこの選挙そのものに関しては。

そして、あの選挙の高い投票率が示すある種の熱気、そして公示数日後からこの選挙に〈まとわりつく〉妙な何かへのはっきりとした亢奮 … 要は表向きは選挙でしかないこのイベントには間違いなく【大当たりの花火】とでも呼ぶべき雰囲気がずっと漂っていたのだ。そしてこの冷厳な事実が示す事はと言えば、実際にあの2週間には選挙にかこつけてとんでもない事が起きていて、そして民衆(特に若者)は何やかや本質がよく見えていて、その「とんでもなさ」を感じ取っていたからこそのあの妙な熱気であり亢奮だったのだろうと思う。


この「とんでもなさ」が何であるか??決まっているだろう。それはまさに「東京の崩壊」なのだ。もちろんここで言う「東京」とは、「東京すなわち JTC」「JTC すなわち東京」という「本当の意味での東京」の事を言っている。

要するに、直近の都知事選において、東京イコール JTC は完全に終わったのだ。民衆はその【大火事】のような有り様をさながら見世物のように見に来て、そして切実な亢奮のあまりに大声を上げたのだ … さすがは「火事と喧嘩は江戸の華」で、文化的遺伝子はこの街の無名の民衆にも受け継がれている。

補足しておこう。ここまで僕が書いてきたようなモノの見方は、一般には「皮肉」と呼ばれる。実は僕の脳味噌も、本件に関しては元々は皮肉をベースにした評論を展開すべく動いていた。

ところが、気がつけば僅か2週間で本当に皮肉が現実になってしまったのだ。瓢箪から駒でもなく、冗談から駒でもない。まさしく「皮肉から駒」だ。これは異様な事だが、それでも、それでも、それであっても、これこそが本物の【現実】なのだ。


毎度ギリギリの事を書いているつもりだが、今回は今までの記事の中でも最もギリギリかもしれない。

そして、この東京の「混沌(カオス)」については、残念ながらもう少し書き続けなければならない。なので、次回ももう少し、直近の都知事選で「格好をつけられなくなった」東京について書いていくことになるだろう。