誰もが同意することだと思うが、どんな人間にも「生き甲斐」が必要だ。そしてこの生き甲斐という馴染み深くも含蓄ある言葉は、ある種の日々の過ごし方を示していて、そういった日々はきっと概念思考を続ける事で何らかの価値を生み出していくための土壌なのだと思う。また日々の概念思考の成果物たる「作品」は、生き甲斐ある日々という土壌をさらに肥やしていく。

生命が土から生まれ土に帰りそこからまた新たな命が芽生えるように、生き甲斐の日々が作品を産み、作品がまた生き甲斐という土壌を豊かにする、そんな一種の終わらない循環がそこにはあるのだろう。そしてこうした豊かな日々においては、日々の仕事や生活の中で他者との何らかの連携プレーが常に起きているはずだ。通信で言うところのアイソレーション(isolation)状態というかコロナ期のような「隔離」状態みたいなのに、人が生き甲斐を感じる事などあり得ない。そんなのは当たり前の話で、そもそもそういった連携プレーが無いというのは、実質的に社会的引きこもりと大差なく、そんな生活を送る人の内面が豊かであるはずがない。


なのだが、僕が再三その貧しさと異様さを指摘し続けているオフィスという場所は、本来は「人が仕事をしに来る」場所なのに、ほぼ最悪レベルで連携プレーが無い所だと思う。もしかしたら刑務所の中の懲役刑なんかの方が、まだ多少の連携プレーがあるくらいかもしれない。

本当に不思議なのだが、会社での時間もバイトの日々であっても、どうにもメンバー同士の連携プレーが無い。僕が塾講師のアルバイトをしていた頃を思い出すと、最初は各教室ごとに教育長という人がいて、この人を中核に各教室内での具体的課題に対してメンバー同士で「連携して」事に当たっていた。ところが、おそらくは合理化の名目だと思うが、教室長システムが廃止されて各教室から物理的存在としての教室長が居なくなると、いきなり教室内の連携プレーが消え失せてしまったのだ。連携プレーの存続条件は意外にデリケートなものらしく、その条件を具体的に提示することは難しいが、その【何か】が失われるとあっさりと瓦解すると言う事は言える。

随分昔の大学時代にさかのぼるが、僕は某コンピューターゲーム制作会社で作曲アルバイトをしていた事もある。内容自体は、僕の力量から言えばオーバースペックなくらいの大した事ないバイトだったのだが、このバイト現場にはハナから連携プレーが無かった。結果として、よく分からないうちに行き詰まってしまい、そのバイトは続けられなかったというか、何となく気がつけばフェードアウトしていた。これもよく分からない話なのだが後から振り返ってみると、連携が皆無な場所においてはそこの正社員たちと飲み食いをするような関係でもなければ、なかなか続けていけないようだ。

一方で、今の僕が自作曲を楽譜にして音楽系同人即売会で売るというプロジェクトにおいては、僕一人ではパソコンを使った印刷技術の面で困難だったという事情もあったのだが、最初から連携プレーありきで進めていて、そしてこのプロジェクトにおいては僕が連携の責任を負っていることもあって、連携のある環境が維持できている。僕は以前から、会社もバイトも駄目で、優れているのは文化祭展示のような場だというような事を繰り返し述べているが、これも結局は「連携プレーの有無」なのだと思う。

何故に会社やバイトに連携プレーが無くて、少なくとも僕が取り仕切るような文化祭展示的なプロジェクトには有るのかは、どうにもこうにも謎なのだが、これぞまさに先程述べた「デリケートな」何物かのしわざだろう。それはある意味でマジックなパラメータなのかもしれない。


このよく分からないマジックの正体を突き詰めるのはとりあえずやめにして、まずはもう一方の日本的会社やバイト先での「連携プレーの無さ」を見ていくことにする。

何はともあれ、典型的な会社やバイト環境というのは、どういう訳か気がつけば連携プレーが無くなっていく。そしてオフィスや仕事場がこの状況に陥ってしまうと、新入りはそう簡単に「実質がある仕事」にありつけなくなってしまう。というのも、実質がある仕事というものは「連携が皆無」なんて事はほぼ無いわけで、そうすると職場という特殊環境において、入社直後の初期状態たる「連携無し」から非連続な跳躍によって「連携あり」へと到達しなければならないし、そしてそれには純然たる能力パラメータ以外の【何か】が必要となってしまうのだ。先程の作曲バイトのような小さな会社だと、既存従業員と飲み食いの仲を深めることなのかもしれないが、もう少し会社の規模が大きくなればどうなのか?… 正直よく分からない。少なくとも僕には、その【何か】の正体を明確に言い切る事は今でも出来ない。

オフィスの中にも現場仕事の要素があるものもあり、そういう仕事には実質的な内容があるので、それなりに楽しむというか意欲的に関われるし、それこそ連携が発生したりもする。ただ、オフィスにおいてはそういう業務は「なるべく正社員にはやってほしくない」ものらしく、それも別に陰謀とかではなくて「もっと生産性が高く会社の業績に寄与する」事をやって欲しいというもっともらしい理由なのだが、はっきり言って会社が唱えるこの手の「生産性」「業績に寄与」なるは、そんなまっとうなものではない。それは実体のない謎めいた「文学」に身をやつすことで、実のところその手の「文学」が会社にそれなりのメリットをもたらしたりするのが現実なのだが、それはイカれた現実に会社が染まり切ってるだけのことだ。例えるならば、中央政府の官僚は「霞が関文学」に通じる事で昇進するのだろうが、あんな異様な世界はない。まともな神経の人間なら、あんな「文学」と呼ばれる訳の分からない言語空間に身をやつすくらいなら、一兆円積まれたところで死んだ方がマシだと思うだろう。それが「まとも」という事なのだと思う。

僕が先程から【何か】と書いているものは、現在の日本の職場的な「連携の無い異様な」世界から、先程から書いている「連携のあるまともな」世界へと跳躍するためのサムシングだ。そしてその跳躍のキーとなるワードは、僕は「知り合い」なんじゃないかと思う。もちろんこれは推測なのだが、例えば先程書いたゲーム会社のような小さな世界では、たぶん飲み食いの関係でもって既存社員と「知り合い」になってしまえば、かなり状況は違ったのだろう。
ただ、典型的な会社員であったり、自らはバイトであってもそれなりの規模の会社で働いていたりすると、本当に余程上手くやらないと本当に「知り合い」が出来ない。例えば僕は野球が好きなので、ふらっと思い立って近場のスタジアム(例えば大阪ドームとか)に野球を見に行ったりするのだが、そこで一人で見に行ったとかいう話をすると、母親に嘆かれたりする。僕からすれば何を嘆かれてるのか訳が分からなくて(苦笑)、僕の会社以外の人間関係は音楽関係なのでそんな野球を見に行くようなものではなく、そしてもちろん会社には一緒に野球を見に行くような人間関係など無く、大学時代には居たような野球マニアの友人とはほぼ関係が切れているという、単にそれだけのことなのだが。そもそも「親しい」人というのは、大学時代には多数いても就職すると消え失せて、再び「親しい人」が出来てくるのは会社を辞めてからなのだ。こういうのは僕に言わせれば「サラリーマンあるある」的な日本の有り触れた話でしか無い。だからこそ僕は大学を卒業したくなかったし会社になんか絶対に入りたくなかったのだが、そういう訴えはどういう訳かほぼ誰にも理解されない。

今回はここで終わることにする。次回は今回出てきた「知り合い」や「連携プレー」について、そしてその先について、もう少し話を進めていく。