日本は「世襲の国」だと思う。それは男性において著しい。憲法にある職業選択の自由は、実質として機能していない。同性の親(つまり父親)の生き方をなぞって、少し逸れるくらいしか許されていない。まるでインドのカーストだ。これを聞いて「そんな馬鹿な」という人もいるだろうが、それこそ「これが現実」だと思っている。

このことをもう少し真面目に考えていくと、おそらく日本において少なくとも成人男性が生きていく上で「同性の親(父親)から受け取った資本」の重みが、後天的に自分で伸ばす資産 … すなわち「能力」よりも比重が大きいのだと思う。ちなみにたまに見る意見で「人生は生まれつき」というのがあるが、今ここで僕が現代日本について書いてるのはそういう事ではない。この手の論はアスリート等のように遺伝が効きやすそうな業界の話がそれ以外の例えば知的職業にも通用するんだよという一つの説なのだが、僕が今言ってるのは、そもそも「能力で結果が決まる」事自体が日本社会において殆ど機能していないという話なのだ。

親に起因する資本が大きく意味を持つ「身分やカーストに近い世襲構造」は特に男性においてキツいのだが、当然ながらこういう話は前近代においてはどこの国でも当たり前の事だった。そしてそれらは近代文明の浸透で少しずつ打破されていった。それはまさに「身分という資本」の比重の低下の歴史だ。近代社会が始まる時に身分というものは建前上否定されたが、多くの場合は人々の命懸けの苦闘はありながらも結局は単なる理念に終わらずに、現実にそれなりに社会をうまく進める事が出来たのだ … それが近代の成果であり、もちろんこの偉大な成果をもたらしたのは「文明」の威力で間違いない。


さて日本という国は、基本的にはかなり上手に近代化・文明化に成功した国のはずなのだが、どういう訳かこの30〜50年にわたって「身分という資本の比重」は、むしろ上がっているようにも見える。言い換えれば、前近代への退行現象が起きていると思われる。

おそらくその理由は、この時期から各業界内部にローカルかつ暗黙のルールが急増して、どこの業界にも「下から」しか入ることが出来ないという、実質的に親の後を継ぐしかない状況に陥ったのだと思う。よくよく考えてみれば、近代文明の威力が存在しつつも「能力よりも業界の慣習のほうが比重が高い」という事態は論理的に起こり得る。そして一旦そうなってしまえば必然的に世襲社会に近くなるだろう … もちろん転職だって殆ど不可能になる。

この妙な事態の原因は、日本という国が文明化の過程でどういう訳か「地縁血縁および宗教をヒステリックに弾圧した」からだと思っている。本来は社会の文明化と「地縁血縁や宗教を大切にする」事とは無関係のはずだが、日本の場合はサラリーマン化を推進する過程で、まるで急進左派革命のような具合に「地縁血縁と宗教を削除する」ような過激な政治運動が特に流血を伴わずになされたように見える。要は知らないうちに人々を結ぶ古くからの紐帯をわざわざ破壊してまわったのが、会社であり日本的サラリーマンシステムだったのだ。

旧来の紐帯が死滅すると、会社の構成員たちは必然的に「社内の風習」への依存を強めることになる。人間は機械では無いので、社内という場所を何とかして「新しいムラ」にすることで失われた紐帯を回復しようとするからだ。

こうなると当然ながら「能力よりも業界の慣習のほうが比重が高い」事態になる。もっと言えば、仕事をすることよりも「新しいムラを作る・維持する」事の優先度が高くなる。こうして「近代文明の威力が存在しつつも、身分という資本の比重が高い」という奇妙な事態が発生する。それは大都会都心部のオフィスにおいて著しい。


そしてこの「過激な政治運動」の終着点が、日本における「発達障害」なのだろう。精神医学上の発達障害については世界中でほぼ共通の概念だろうが、日本に関して言えば完全に「職場」の問題だ。もっと言えば、あの悪名高き亡国イベント「就活」の問題でしか無い。実際、現実生活の中で、発達障害なんていうワードは就活(あるいは婚活)関連以外ではほぼ出て来ない。昔は「知恵おくれ」と呼ばれた「知的障害」とは訳が違うのだ。

もう今の若い人は知らないかもしれないが、今から15年ほど前に「KY」という言葉が流行った。意味は「空気読め(Kuuki-Yome)」で、言うまでもなくこの言葉は特定のコミュニティにおける「空気を読まない」事に対する苛烈な弾圧の存在とその猛威を示している。当然ながら、このような弾圧は卑劣かつ残忍な言語道断の非道なのだが、この「KY」流行時に元々意図されていた「会社組織に逆らったり馴染まない人間をKYだとかラベル付けして排除する」ような話にエビデンスだなんだの小理屈を付けたのが、現代日本の「発達障害」の正体だ。はっきり言って、日本の文脈においてはこれがファイナルアンサーと言い切ってよい。

ここまでの話を見ていけば自明だと思うのだが、実は発達障害こそが「まともな人」だ。大半の「発達障害」者は、むしろ地縁血縁や宗教といった古い紐帯を持っていて、それゆえに会社内やそもそもの就活において訳の分からない迫害・排除をされるのだ。言い換えると、発達障害の対義語の「定型発達」こそが、生身の生き物として異常な存在なのだ。街の野良猫やカラスの事を思えば、いかにこの「定型発達」者が異常なのかがよく分かる。


先程「終着点」と書いたが、はっきり言ってこの手の日本の会社っぽい話は、実際にはもう完全にどん詰まりだ。この先は無い。以前の記事で書いた「主夫(ハウス・ハズバンド)のように生きる」というのは、この「終着点」を別の表現で書いたものだ。

日本人の過半における働き方である「勤め人」の世界において、どういう訳か構成員の地縁血縁という紐帯がシステムによって無根拠かつ残忍に破壊され続け、もちろん会社という所は「新しいムラ」になんてなれなかったので誰もが途方に暮れている。これが現行日本の実態で、もちろんこの状況が一番酷いのは東京だ。

この後の展開はどうなるか?以前の「主夫のように」というメッセージの含意の一つでもあるのだが、まずは勤め人や元勤め人が「地縁血縁を回復する」必要があるだろう。元勤め人が「会社は辞めても辞めても辞められない」のは、辞めるだけなら一瞬であっても地縁血縁の回復には時間と手間がかかるからだ。

そしてその次には「何らかの能力の獲得と向上」が来るはずだ。これは僕が以前から「大人の再教育」と呼んでいたものだが、もちろんこの能力というのはお金儲けに直結する必要は全く無い。というかそんな事を言ってる場合ではなくて、地縁血縁を回復しながら、その人が自分自身を取り戻すための何かが必要なのであって、そんなお金儲けとかじゃなくて単に人としての正気を取り戻すための「能力」の開発がなされるべきなのだ。


今回はここで終わる。今回記事の内容は、現代日本という「世襲の国」が何だかんだで終わっている事を横目に見つつも、この先の真っ当な日本国を〈ぼんやりと〉眺めてみたものだ。その意味では近未来日本のビジョンでもある。

はっきり言って、この50年くらい信奉されてきた価値観は完全に終わっている。理屈はどうでもいいから我々日本人は【その先に】進まなければならない。それが何なのかはとてもじゃないが言語化は出来ないが、本物の「未来」とはそういうものだと思う。