前回記事で、東京において優勢な「コンカフェ」(「コンセプト・カフェ」の略)の話をしたが、比較で言うとこのコンカフェは明らかに大阪では劣勢だ。例えば大阪のガールズバーが当初は昨今の東京風味でネコ耳とかで営業していたとして、単にあまりウケないというか別にそのコンセプトで実際に店が回っているわけではないので、気がつけば普通に女の子とお話するだけの20年前からあるガールズバーに落ち着いて行くような感じだ。要は普通に商売してるうちに、勝手に東京から伝来した余分なコンセプトが落ちていくのだ。

ガールズバーのネコ耳一つ取っても、東京と大阪とでは随分と事情が違う。これは結局は環境がオープンかクローズかの違いなのだと思う。オープンが大阪でそこでは好循環が回る。クローズが東京でまさに前回書いたような悪循環が支配的となる。

前回末尾に、今回は東京に典型的な悪循環と「行き場のない閉塞」に関して「その後」を見ていくと書いたのだが、まあ割と憂鬱な話になるのは間違いない。ネコの耳だけではなくしっぽが生えて … みたいな話では済まなさそうだ。


環境がオープンかクローズかで大きく異なるのは「メンバーが固定するか否か」だと思う。もちろんどんな飲食店でも経営の肝は常連を作ることなのだが、店に活気を与えるのは常連ではないお客さんの出入りだろう。固定客で木の幹の部分を作りつつも、雰囲気づくりにおいて大切になるのはむしろ「ライト客」の存在なのだ。

現況の大阪を含む関西圏では、取っ替え引っ替え人が集まる飲食店や喫茶店であふれている。それはこの関西圏の以前からの強みだったのかもしれないが、インバウンド対応が上手だった事もあってか明らかにその「取っ替え引っ替え」っぷりに拍車がかかっている。

これを書いている僕からして最近の関西圏には結構驚いているのだけど、実際に僕が梅田の某所で呑んでいたら結構な確率で隣が韓国語話者だったりする。しかも最近はそんな生やさしいのでは無くて「韓国語とめちゃくちゃ流暢な日本語とをダブルで話す韓国人二人組」が居たりする。明らかにネイティブの韓国語に混じって「おもろないし、めっちゃハズして」とか「そういう流れになったとして」とかの〈明らかに日本語の音〉を発しているのだ … 本当に驚きで、しかもこれは一度きりの事では無いのだ。

もちろんこのレベルの日本語力なので、店員さんに「すいませーん、メガハイボール」などと余裕で言えてしまう。以前に僕とアジア系米国人の方とのカタコトのやり取りを紹介したが、それとは全く次元の違う言語能力なのだ。

これは大阪に限った話ではない。僕は奈良県出身だが、地元・奈良市内で馴染みのバーに行くと壁に何やら世界各国の言葉でメッセージが書きつけられていた。ポピュラーな英語・韓国語・中国語だけではなくフランス語やスペイン語もあり、さらには僕には文字がよく分からない言葉(たぶんアラビア語)だって書かれていたのだ。

推測だが、ここ最近の関西圏では各所でこういう事例が増えていると思う。そしてこんな感じの店が街のそこかしこにあって、その店の中だけでなく街全体が何とも言えない開放感に包まれているのだ。ああ、ここは「バザール」なのだと。そこには余所者を排除する「壁」なんて無い。みんなぶらりと入って来てめいめいに出ていく … そんなオープンスペースなのだ。

その意味では、関西圏ではありふれた飲み屋においてごく自然に「普通の日本人にはあまり馴染みのない事」を感じられる。そしてこういうお店には、この良い雰囲気のおかげで常連客になった僕みたいな客がいる。これはオープン環境における好循環そのものだろう。


一方、クローズ環境の東京では、前回も少し書いたように事情が全く違う。

東京の飲食業界には、前回書いた「コンカフェ」以外にも際立った特徴がある。それは「イベントバー」の存在だ。これも大阪では希薄なムーブメントだ。

このイベントバーというのは、誰でも「一日店長」としてその場に立って自分の好きなテーマでお店を開けるという形で運営されるらしい。バーそのものの管理側の役割は場の提供で、その意味では、音楽のライブバーにおいて演者として主にシンガーソングライターを起用するような箱に近い感じだろう。ただこのイベントバーにおいては、ソングライティングと歌唱および楽器演奏という敷居を巧みに無くしている。要は歌もギターも出来ない「ただの人」が、所謂〈自分らしさ〉を開陳するために(まあそれは単にその人の〈人となり〉だったりするのだが)一種のワンマンプレゼンテーションをやるような感じなのだろう

ここまで書いてきた話だけでも、既にやり方が何とも東京的だ。前回記事においてコンカフェは「コンセプトによる差別化」をする事で飲食店同士の競争や淘汰から逃げていると指摘したが、イベントバーの場合は演者の方がソングライティングや歌唱や楽器演奏の腕前による淘汰から逃げ回っているのだ … 何かもう「どこまで逃げるんだよ?!」と呆れ返ってしまう。そしてはっきりしてるのは、こういう妙ちくりんな事を続けてると必ずどこかに歪みが出る事だ。そんなウマい話なんてこの世のどこにも無くて、必ず何らかのしっぺ返しを喰らう。それがこの世の定めなのだ。


東京のような閉じた環境においては、このイベントバーのような独特の妙な現象が流行る。それらは総じて言えば「脳みそをこねくり回してわざわざ負けに行く」ような感じで、言い換えると「ねじれた敗北行為」とも言えるだろう。何しろ「わざわざ負ける方に向かってクリエイティビティを発揮している」のだから。

この妙なクリエイティビティが発揮される状況というのは、端的に言えば「嫌々ながらやらされている」時だ。もう少し丁寧に言えば、本当はやる気がないのだけど「潔く辞めたり諦めたりするほどの気迫も無い」とか「その本音を正直に口にすることが出来ない」時だろう。

その本音をスパッと口にしてしまえば話はクリアになるはずで、実はこういう話においてはそのような猛者も一定確率であらわれるのだが、閉じた環境の真骨頂?はここからで、せっかく本音を言ってくれているのに「そんな事を言うな」とかの〈説得・説教〉が始まるのだ。どうしてもその場の建前通りにしかやらせてくれないし、「出ていけ!」とすら言ってくれない。閉じた環境とはそういうもので、結果として「嫌々ながらやらされている」が常態化する。

「脳みそをこねくり回してわざわざ負けに行く」のは、本当はやりたくないからだ。負けることでその舞台を降りたいからだ。閉じた環境においては、構成員の役割や表向きの建前が厳格に決められているが、負けてしまえばさすがに最前線からは撤退出来る。だから「ねじれた形でわざと負けに行く」のだ。

そんなに降りたいのならば、労働闘争のストライキのように押し付けられた建前を断固拒否してしまえば良さそうだが、殆どの者はそれはしない。いや、出来ない。だから「ねじれた形で」すなわち分かりにくい表現で敗北行為を行うのだ。

では何故その「断固拒否」が出来ないかというと、それは「メンツを気にする」からだ。これだってそんなメンツだなんて下らない事をと思われそうだが、それは違う。この手の閉じた空間においては、誰もが「殺されるわけにはいかない」という生存本能のために、とにかくメンツを保とうとするのだ。裏を返せば、メンツを失うような事があれば、本当にその場所では生きていけない。物理的に完全に切り離されたところまで逃げない限りは、大マジで「いじめ殺される」リスクが発生するのだ。

「メンツを気にする」という一見しょうもない態度は、実は切実なものなのだ。それが所謂「見栄っ張り」であれば何だか笑えると言うか可愛らしいところすらある。何たって、見栄っ張りというのは「自分をよく見せたい」という割と明るい方の本能だからで、おそらくはクジャクのような鳥のオスに顕著な生物的本能に近いものだろう。もちろんこのクジャクのオスが持つ本能的動機は、子孫を残したいという生殖本能そのものだ。

「メンツを気にする」はそうではない。根拠は「死にたくない」という生存本能だ。メンツを潰されてしまうと、そのコミュニティに居る限りは本当に「いじめ殺される」事を警戒する必要が出てくるので、どうしてもメンツを確保しなければならないのだ。こうなると、先ほど書いたように「やる気がない」のに「潔く辞めたり諦めたりするほどの気迫も無い」あるいは「その本音を正直に口にすることが出来ない」となってしまう。

イベントバーの「楽器や歌の練習すらしたくない」くせに「自己表現だけはしたい」というのは、まず間違いなくその自己表現行為をしたという事実がどういう訳か「メンツ」として成立しているからだ。こうなると、生殖本能ではなく生存本能でもって人前に立とうとする … というか目立とうとする。本当は別に目立ちたくもないのに。本物のクジャクのオスが、自分の子孫を残したいがためにあの見事な羽を広げてメスのクジャクに自己アピールをするような、そんな健全な話ではないのだ。


冒頭に書いたように、今回は本当に陰気でじめじめした話になってしまった。今回のテーマは悪循環の「その後」だが、もう答えは自明だろう。それは「内部での殺し合い」だ。閉じた環境での悪循環は、必ずそこに至る。それは安保闘争のような左派系の運動が必ず内ゲバで終わることであったり、あらかたのカルト教団は外部から摘発される前に内部で既に私刑(リンチ)の連鎖が起こっている事を見れば自明の事だ。

言うまでも無いが、今回の結論は一つしか無い。「閉じた世界」なんかロクなもんじゃないという事だ。一方で、この世界には「てめえらの内部の矛盾を外部に押しつける」事だけに命をかけているような集団がある。テロリスト集団はもちろん、国家の体を一応はなしている北朝鮮やロシアがそれに相当する。東京の大手メディア(新聞・テレビ・出版)も同様で、特に最近は出版が本当に酷い。まさに自己矛盾を外部に押しつける事だけで命脈を保っている。週刊文春もそうだし、一番酷いのは音羽グループ(講談社、光文社など)だ。もう完全に一線を越えてしまっている。

そして、今回はその手の集団とのやり取りについてまでは書かないが、はっきりしてるのはこの手の「閉じた集団」はどう考えてもまともに相手をすべき存在では無いということだ。それはもう今更議論する余地は無いだろう。