僕は以前から、会社員生活だけでなくアルバイトをやる事にすら相当否定的な見解を述べ続けている。その理由はと言えば結局のところは、会社やバイトで関わる「職場」という場所が敷居の低い欲望というかしょうもない我欲に最適化されている事が大きいと思う。この事は善悪や是非の問題ではなくとにかく〈しょうもない〉という話で、そして実はこういうのは意外に心身にダメージを与える。少なくとも僕には耐えられなかった。
会社やバイト先が絶対にやらない事が一つある。「能力開発」だ。このあたりは日本の職場環境の本質をよくあらわしている。能力開発とは、たとえ3日先であっても未来志向でなければ本質的に成り立たないものだが、会社に見えているのは最悪の意味で「今だけ」なのだ。もっと正確に言えば文字通りの今など全く見ておらず、過去の焼き直しでしかない限定された映像を、無理やり〈今〉とか〈現実〉とか称しているだけだ。こういう「未来に向けたゴールが存在しない」ような場所では、能力開発を含めた未来志向の事柄は一切行われない。まさに理の当然だろう。

その意味では、日本的職場とは「マンネリズムの権化」だ。そう言えば最近はこのマンネリズムを略した「マンネリ」という言葉をあまり聞かなくなったが、マンネリが多くの人の職場において常態化したからかもしれない。さらに言えば、これは「アナクロ(アナクロニズム、時代錯誤のこと)」という言葉についても同様で、きっとマンネリとアナクロのセットこそが、現代日本の職場における定番メニューなのだろう。
何やかや普通の現実世界というものは、もう少し「敷居が高めの欲望」というか、それを満たすために多少手間がかかる欲望が主役となっている。消費者が持つ本物の「不満」はそういった欲望にまつわるものなのだ。だから今でも「不満はヒットの母」だし、楽器のレッスンというビジネスが一貫して堅調なのはそのためだ。楽器レッスンこそは「やりたい時が始め時」で、これぞ敷居が高めの欲望」の率直な表明だろう。
そしてマンネリとアナクロの権化たる会社には、こんな「手間入り」を満たす能力はない。殆ど全ての従業員が抱えた「手間入り」は、社外で業務時間外に満たす以外には無さそうで、実際そう言った〈持ち勝りのする〉欲望は、たぶん能力開発への投資くらいでしかほぼ満たされないのではないか。

実は今回ここまで書き連ねているのは、前回記事で「好循環」について書いた事柄の逆パターンになる。一言で言えば職場における「悪循環」の話だ。先ほどから書いているような事情によって職場内部には常に不満が充満していて、まるで満員電車のように誰もがイライラしている。なので、たとえ僅かな変革であってもそれによって誰かの苛立ちが爆発して挙げ句にハレーションが起こりそうで、おいそれとは改革なんて実施出来ない。無論こんな事をやってたら気がつけばその場はマンネリとアナクロの定番セットで溢れかえる事となり、それが不満をさらに高めてしまう … 以下かくの如しで、典型的な悪循環が発生してしまうのだ
このレベルにまで落ち込んだ日本的職場というのは、やはりいっぺん潰れるしかない。こういう悪循環にまで至ると、典型的な意味での改革はほぼ不可能だからだ。古臭い組織の改革に乗り出した人たちはこういった事例を無数に知っているはずで、言わば今書いているのはネガティブな意味合いでの「大人の見識」なのだ。
改革というのは、例えるならば渋滞の名所のような交差点を上手く改良することだが、状況が悪循環にまで達しているとその類の改革には殆ど効果が無い。多くの車にその渋滞箇所を回避してもらうべく抜け道というかバイパスを新たに通すという、そのやり方でしか当座の対策すらおぼつかないのだ。
悪循環に陥った時の改革効果が限定的である実例としては、江戸後期に繰り返された幕府主導の改革が分かりやすい。享保→寛政→天保と時代が進むごとに改革が浮き世離れして行ったのは、江戸期の幕藩体制がかなり早い時期に既に悪循環にまで至っていたからだ。そしてこの3つの江戸期の改革を見ても、一応の成功をおさめたのは「将軍本人が改革に乗り出した」享保の改革だけだったというのは、悪循環というものがいかに「組織の根本(幕府で言えば将軍)に関わる問題」なのかをよく示している。
大きな組織が悪循環に陥った場合に何らかの新組織を立ち上げるというのは、ここで言う「バイパス」的な対処の一例だ。その新組織とは例えば以前に書いたような摩訶不思議な「社内ベンチャー」だったりするのだが、組織内に溢れ返る不満の大群に邪魔されないためには、こういう妙な新組織は意外に有用だったりする。これも実例を挙げると、悪循環な駄目組織の典型としては霞が関が挙げられるが、コロナ期の菅(すが)政権におけるワクチン接種推進は、まさに「新組織によるバイパス」での難局突だった。あんなの厚労省なんかに任せてたら、間違いなく牛歩の歩みだっただろう。東京五輪だって開催出来ていたかどうか分からない。

前回記事においては、東京圏の飲食業界は好循環が起きている大阪と比較してあまり上手く行ってないという趣旨の事を書いたのだが、あれは実はかなり穏やかに書いている。本当の事を言うと、東京圏の飲食は「上手く行ってない」のではなくて、既に変な事が変な事を呼ぶ「悪循環」に陥っていると思うのだ。

ある時期からの東京圏の流行は「コンカフェ」だ。「コンセプト・カフェ」の略であるこの言葉は、元来は何らかのコンセプトに沿った飲み屋さんの事だ。あの有名な「メイドカフェ」はコンカフェの一例で、要はメイドというコンセプトで他と差別化された飲み屋さんの事なのだ。

この「コンセプトでもって差別化する」という発想からして実に東京的なもので、大阪に関して前回書いたような「『分厚い層』の飲食店同士で鍔迫り合いの競争が行われて優勝劣敗による淘汰が起きて、そして業界全体の生産性が上がる」みたいな話とはかけ離れている。要は事が始まる時点で既に、フェアな競争と淘汰から逃げているのだ。

そしてこの次の展開は、まあみんな大体の想像がつくだろう。すなわち競争を避けるためのコンセプト(例えば「メイド」)に多数が群がり、そうするとまた新たなコンセプトがひねり出され、その繰り返しでコンセプトの飽和状態が起きるのだ … そして気がつけば外部からの来訪者には全く理解不能な「コンセプト群」が乱立し、客層が一種の〈通(つう)〉に固定されてしまい、その事で業界は閉塞し、そうしてますますコンセプトは「濃い」ものになる … これを悪循環と呼ばずに何と呼ぼうか?ちなみにこの悪循環は約30年前にあの「コミケ(コミックマーケット)」が辿った道だ。


こういった行き場のない閉塞は、実は反社会勢力には非常に都合がいい。当たり前だが、所謂「いかがなものか」案件とは、人の入れ替わりが無く固定メンツが毎日のように大量に訪れる場所でこそ維持拡大しやすいからだ。悪事を成すにも「兵法」がある。あのオウム真理教が地下鉄の霞が関駅を狙ったのは、凶悪なテロリスト側から見た必然だったのだ。

東京経済に対する観測としてコロナ期の僕の発言で「東京の主産業は風俗」というのがあるのだが、これはコロナで飲食が弾圧された時期の事で、東京の飲食の主要客は会社員と大学生なのだが、会社はテレワーク化・大学はオンライン化していた中では風俗しか生き残れないという類の話だった。もちろん風俗の多くは反社会的勢力がバックアップしてるので、コロナ期の抑圧もどこ吹く風だったのは言うまでもない。

ところが、昨年5/8の五類化でコロナは終わったのだけど、東京はコロナ期の「反社による地下経済の優勢」が惰性で続いてる気がするのだ。典型がパパ活だが(東京での梅毒流行もパパ活が原因で間違いない)、今や立ちんぼの流行もあったりして、東京のこういった感じはちょっと止まらない気がする。やはり大阪等の他の大都市とはスケールが違いすぎるし、それはもちろん東京が首都であるが故の「反社のスケールの違い」によるものだろう。

振り返ってみれば、首都・東京で地上げをやる事で地下経済が見える化してそれによって表向きは随分と経済が活性化したように見えた … それが80年代バブルだった。

まああんな間抜けはそうそう続かないもので、結果としてバブル崩壊以降は古臭いものはどんどん縮小していってるのだけど、大きく見ればバブル後の東京においては新しいものは何も生まれずに、結局は最もしぶとい性産業・地下経済・反社・地上げ屋だけが生き残り、そしてコロナでその流ればかりが加速した … こんな感じが現実の東京だと思うのだ。


今回はここで終わる。次回はこの東京に典型的な悪循環と「行き場のない閉塞」について、その後の展開を見ていく。