以前の記事でイベントバーを論じた時に書いた事だが、東京という日本の首都には「わざと負ける」という妙な性癖があって、しかもこれは長らく定着している。この要因の一つは「無意識でのサボタージュ(サボり)」で、要するに本当はその仕事をやりたくないので、わざと負ける事で仕事の現場から外されようとするのだ。そしてそれは無意識に行われる。「わざと負ける」というと何だか妙な話だが、漏れ聞こえてくる東京における建前の強さと本音のさらけ出しにくさからすれば、こういう事はどうしても起きてしまうのだろう。

そして今回取り上げるのは、もう一つの「わざと負ける」大きな動機のことだ。それは端的に言えば「間抜け野郎を食わせるため」となる。


周知のことだが、最近の大阪経済はあらゆる分野で非常に活況だ。こうなると、大阪方面から起こりがちな声として「大阪の経済を発展させて、東京に流れた大企業を取り戻そう」みたいなのがあるのだが、僕に言わせればこういう考え方は時代錯誤(アナクロ)だと思うし、もっと言えば「敗北思想・敗北主義」に過ぎないとも思っている。だってそんなの、大阪の新興企業がどんどんデカくなればいいだけの話じゃないか … 少なくとも会社の社長ならそう考えるだろう。

そしてそもそもの話、東京企業も東京そのものも実のところ全然強くなんか無いのだ。それは多くの東京企業が「外国のマーケットでどうなのか」を見ればすぐに分かる。

何のことはない、東京企業なんてのは「世界で負けまくる内需産業」だらけだ … というかこれは話の順序が逆で「そういうところ」ばかりが各地から東京に「一極集中」しているだけだ(なので東京の都市規模だけは猛烈に大きくなる)。

そして世界の時流に乗るというかそこまで大きく構えずとも例えば外国人観光客を相手にするような会社の場合は、大阪を含めた「東京以外」を戦場として設定する方が理にかなっている。もちろん観光でなくとも外国との関係が強ければ同様だ。商売も含むあらゆる勝負の世界において、事の帰趨は「戦場(議論であればアジェンダ(議題))の設定」の時点で決まっているというのは古今東西の常道で、そして今の時代に外国と強く関連する会社の場合は、ほぼ確実に東京以外を戦場にした方が商売がしやすいのだ … 例えばあの TOTO の本社は福岡県の北九州市だが「東京に本社を移す気は無い」と明言している。これは間違いなく商売そのものの事情による判断だろう。他にも僕自身の故郷である奈良県大和郡山市が発祥の地の DMG森精機など、こういった事例はいくらでもある。


先程、東京に集まってくるのは「世界で負けまくる内需産業だらけ」と書いたが、これも戦場というよりはその会社における「ゴール」の設定がまず先にあって、そのゴールから導かれた必然として東京へと集まるという実際の行動が起きているのだと思う。

まあそのゴールは無意識的に設定されたのかもしれないが、ともかくそのようにして東京に群れてくる企業のゴールが何かと言えば、最初に書いた通りに「間抜け野郎を食わせる」だろう。もちろん慈善活動としてこのようなゴールを設定する社長なんて殆ど居ない。こういう福祉的なゴールは厚生労働省(というか旧労働省)が推奨するものなので、国の庇護によって … もっとはっきり言えば補助金で会社を存続させるために、必然的にこうなっていくのだと思う。要は自らの保身にしか関心が無い駄目企業が、寄らば大樹とばかりに東京にぞろぞろやってくるという、単にそれだけの話なのだろう。

「間抜け野郎を食わせる」事の優先度が上がると、必然的にその組織の生産性は下がる。それは生産性の定義から見ても明らかだ。何しろ売上が一定のところに朝の通勤電車のように可能な限りの社員数を詰め込む(もちろん一人あたりの給料は少なくなる)のだから。

そしてそれは会社というところにおいては「わざと負ける」と同義だ。何たって生産性こそが競争力で、もちろん競争力こそが会社の「勝つ力」なのだから。つまり結局のところは、会社(というか社長)の保身が優先されると、その会社は実質的な「敗北行為」をやるようになるのだ。そして東京の巨大規模の経済は、実はその内幕ではこういう部分が非常に大きな割合を占めていると言っていい。さらに言えば東京の持つ「国内限定の金融(お金の融通)機能」とは、実はこの類の「食わせる」の言い換えに過ぎない。以前から言っているように、日本に蔓延るのはお金を配る方の「『配金』主義」なのだ。


さて、こうして東京に集まってくる会社が何故「内需産業」ばかりになるのだろうか?この答えは簡単で「間抜け野郎を食わせる」ような会社は生産性が低く、そしてそのような会社を維持するためには内需ベッタリの内需産業」でやっていくしかないからだ。

どこの国のどんな産業であっても、外国に出られるのは生産性が高い企業に限られる。それは野球の世界で自他ともに認める圧倒的な実力者こそがメジャー移籍するようなものだ。逆に言えば、内需産業においては生産性の低さはあまり問題視されない。そして特に日本において内需産業に強く期待されるのは、雇用の意味でもサービスの意味でも「国民を食わせる」(場合によっては「遊ばせる」)事だったりする。それは日本国民の国民感情(パブリック・センチメント)でもあり、霞が関の要望でもあるだろう。

はっきりしてるのは、内需産業がこのような「営利企業らしくない」要求を平然と受け入れるのは、要するに「競争力を上げて他国の企業と戦って勝てる自信がない」からだ。だから霞が関や「国民の声」に守ってもらうべくこの手の〈福祉的な〉振る舞いするのだ。

おかしな話と思われるかもしれないが、日本の巨大なGDPの多くを占める「内需」を満たす会社は、生産性を上げる必要が殆ど無いどころか生産性を下げる圧力がかかる。すなわち「勝つ」よりも「馬鹿を食わせる」事を求められる。一方で、日本のGDPの中ではむしろ割合としては小さい「輸出」に寄与する産業においては、生産性は企業の存亡に関わる一大事だ。これは、自動車を国内で作って外国に輸出するような産業だけでなく、インバウンド観光のような「客が日本にやって来る」業種であっても同じ事だ。


今の日本ではこのような状況がますます進行し続けているのだが、その結果として気がつけば東京という街は「低生産性で燃えている」状態に陥っている。そしてこういう泥沼状態になった街というか人間の集団には、古今東西似たような特徴があらわれる。それは「退屈」の蔓延だ。

以前に「かまってちゃん」について論じた時に、こういう変な人たちの基本は「暇」であり「退屈」なのだと指摘した。その時に「かまってちゃん」と「2ちゃんねる(現5ちゃんねる)」との親和性も指摘したが、要はこれら現象の特徴は、まさしく「低生産性で燃えている」東京にこそ相応しいものなのだ。

東京は巨大人口を抱えているので、どんなに下らない事であっても〈東京民にウケる〉という理由だけでそれなりに商売になってしまう。そして東京の基本は「低生産性」と「退屈」なので、そこでは必然的に「かまってちゃん経済」が主流になる。

考えても見て欲しい。文春も新潮も本当に当該有名人を論理的かつ計画的に「潰そう」だなんて大それた?事は考えてないはずだ。さらに言えば講談社や光文社といった〈音羽グループ〉だって、本気で大阪万博を潰すつもりなんてたぶん無いと思う。というか、そこまでの計画性など無い。有り得ない。それはさながらパレスチナのハマスのようなもので、凄惨な暴行は衝動的かつ思いつきで行われ、少し先の未来すら想定していない。起きている事柄の悲惨さからすれば信じがたいほどに、この手の蛮行は「いい加減で間抜け」になされてしまうのだ。

話を日本に戻すと、文春も新潮もかつての2ちゃんねるも(もちろん今の5ちゃんねるも)、この手の程度の低い商売は単に東京という街の絶望的な低生産性と退屈に合わせただけのものだ。そしてそもそもの動機が退屈の解消なので、実は「どうでもいい揉め事が延々続く」事が最大の成果になる。そうでなければ自社の経済が回らないのだから。

ちなみに国家単位でこの状態に陥っているのがロシアだ。もう1年半以上も親ロシアの軍事ブロガーにすら呆れられるほどに「戦争目的」を失っていて、あんなに現地は凄惨なのにその内実は「ただの嫌がらせ」に終始している。そして明らかにロシアは「終わり無き泥沼」こそを望んでいる。言い換えれば、勝つことよりも戦争が続くことを望んでるのが、今のロシアでありプーチンだ。そしてそれはあくまでロシアの経済維持のためであって、言わばロシアにとっての【生命維持装置】が今の「もつれた戦争」なのだ … あんなに凄惨な事が現場で起きているのにも関わらず、実態はどこまでもこんな調子でしかない。


これら事象が示す真実はシンプルだ。要は、文春も新潮も音羽グループも2ちゃんねる(5ちゃんねる)もロシアも、低生産性と退屈に完全に同化した組織はどれもこれも「かまってちゃん経済」にすがりつくのだ。

子育ての経験がある人なら即答すると思うのだが、この「かまってちゃん経済」のロジックは駄々っ子と同じだ。もちろん駄々っ子同様に、動機は実は切実だったりする。

そして、この「かまってちゃん経済」への対処方法は、以前に「かまってちゃん」を論じた時に述べた「かまってちゃんへの対処」と同じになる。すなわち「物語(フィクション)を徹底して拒絶する」事だ。もちろん以前から言っている「人間を外して考える」もほぼ同じ事を言っている。

日本人に限らず人類全体は「人間を外して考える」必要がある。何故なら「物語(フィクション)を徹底して拒絶する」事が、今や人類の至上目標たる「世界平和」と直結しているからだ。もっと言えば「人間を外して考える」事こそが世界平和そのものだからだ。

我々人類がもしも世界平和を求めるのならば、間違いなく誰もが「人間を外して考える」必要があるだろう。それは諸々のテロリスト的な人々の紡ぐ「物語(フィクション)」を徹底して拒絶する事だ。

そしてまずはこの日本国から始めよう。みんなで人間を外して物語(フィクション)を拒もう。

もしもそれを徹底出来たら … 世界平和は目の前にある。