前回、前々回と色々と書き進めてきたが、結局は今の日本を包む閉塞感というのは、首都の東京が抱える「イノベーションのジレンマ」で尽きているのだと思う。そして日本におけるこの問題の解決というのは、インドネシアが巨大首都・ジャカルタから首都移転するようなやり方ではなく、きっと室町時代末期の「下剋上」の時代のようにして話が進んでいくのだろう。前回末尾で書いた「日本の場合は、東京だけが混迷を極めれば良い」「現状に不満な人は国内移動すればいいだけ」というのは、そういうニュアンスだ。

言うなれば、僕がここでとなえているのは「乱世の肯定」とでも言うべきコンセプトだが、実際のところ破壊的イノベーションとはそういうものではなかろうか。それが政治行政の世界に及ぶと何だか物騒な印象を持たれがちだが、現代はさすがに織田信長の時代とは違って簡単には剥き出しの暴力があらわれはしないだろうし、別にそれでいいじゃないかと思っている。

… というか現代日本を〈ざまあみろ的に〉更新する政治行政面での破壊的イノベーションにおいては、そもそも剥き出しの暴力などという現代にそぐわない野蛮行為の発生などは、本当の本当に最小限でなければならないのだ。世の中には病んだ人々や「無敵の人」がいるのは事実だが、現代文明はそういった者による野蛮行為を最小限にするだけの力を持っている。

500年前の室町末期においては、結局は「下剋上」でのしあがった地方勢力による全国的騒乱の末に、織田信長が主導する商業系イノベーションの威力で乱れた世は鎮まった。一方で、この商業を中核とした新文明社会の創設において旧弊に対して破壊的ですらあった織田政権は、地方からの〈上洛〉によって首都を支配した政権の割には、当時の中央政府の政治行政に関しては意外なほどに慎重かつ守旧的に事を進めていた。このことは、もっと知られるべき事柄ではなかろうか。

僕は東京が陥った「イノベーションのジレンマ」を破壊する「破壊的イノベーション」の事を【全ての日本人が幸せになるための処方箋】とまで書いたのだが、政治行政面での破壊に関しては、実は500年前の織田信長のようにむしろ相当に慎重でなければならないと思う … というか「爽快に」事が進むなどあり得ないと言っていい。今回のメインテーマは、そういった少し「憂鬱な」話だ。


おそらくは生身の織田信長の心身にもそれなりの影響を与えていたであろうこの憂鬱さは、きっと「現状を更新する」ようなゴールを抱えたプロフェッショナルに共通するものだろう。それは例えば野球やサッカーの「名監督」たちの、あの独特に不機嫌そうな感じを想像すれば分かりやすい。平たく言えば理想と現実とのギャップがそういうプロフェッショナル的な憂鬱を生む。もちろんこの憂鬱は本物のデプレッションではなく、果断さや徹底した改革への意志の源となるものだ。理想と現実との間の本質的なギャップこそが、あらゆる人の行動を支えるパワーソース(動力源)なのだ。

室町時代の京都は、三代将軍の足利義満の時点で時が止まっていたのだが、現代日本の中央政府が存在する東京に関してはおそらく昭和39年で時が止まっている。直後の昭和40(1965)年にに起きた「昭和40年不況」で冷水を浴びせられたはずだが、そこからの日本は「標準世帯」「日本型雇用」等の腑抜けの幻想にしがみつく事がむしろ美化される世の中となっていった。

そうこうしてるうちに、戦後日本でも室町時代と同様に地方で食えなくなった者たちが流民(りゅうみん)として首都に流れ込み、結果として時が進むごとに日本国内一億人の需要の過半が東京に一極集中してしまった。そのようにして、まさに首都が首都であるがゆえのローカル最適化による「イノベーションのジレンマ」が深まり、その泥沼からどうにも抜け出せなくなってしまった。

室町時代の後期は、よく知られた応仁の乱の後にも「明応の政変」「両細川の乱」という、その経緯をたどるだけで下らなさ過ぎて吐き気を催すような典型的な内訌(ないこう)が続くのだが(ちなみに内訌とは内輪揉めの事)、現代日本の首都東京周辺もまさしく「両細川の乱」レベルのどうしようもない複雑怪奇な混乱状態に陥っている。


「両細川の乱」の時期に際立っていたのは、現実の戦場を担う戦闘部隊が、元々の下剋上の主役たる国人(地侍)という新興武装農民から「一向宗の門徒」へと変貌していったことだ。

一向宗(浄土真宗)と書いたが、要は本願寺だ。宗教による強い結びつきに支えられたこの教団は、徐々に畿内の権力闘争の主役となっていった。

現代日本においてこの本願寺と同様の勢力と言えば、もちろん創価学会を母体とする公明党だ。そして今の東京政治の著しい特徴は「公明党依存」が進んでいることで、このあたりも今の東京が「両細川の乱」的状況に陥っている事をよく示している。

しかしそれにしても、最近の東京関連の選挙の帰趨を殆ど創価学会の組織票が決めてしまうというのは、これはなかなか凄いことだ。少し前までは日本の政治の世界では「創価の大阪、勤め人の東京」だったはずなのだが、今や大阪や兵庫では維新が公明党殲滅を成し遂げようとしていて(少なくとも公明党はその計算をしているはずだ)、一方で東京では着々と公明党の存在感が増しているのだから。

社会的な構造について言うと、創価学会というのは「終戦から1970年までの貧困層」を根幹とする強い地盤だ。一方で1970年以降の都市部の貧困層を吸収したのが「日本的雇用」を標榜する会社組織で、先程も書いたように前者は大阪に顕著で後者は東京に顕著なはずだった。なぜなら1970年以降に日本中から流民を集めたのは東京なのだから。なのだけど、その状況が昨今は変貌しつつあるのだ。

ここまで書いてきた話と関係するが、改革が進む大阪は実は元から東京よりも改革がしやすい街だった。何故なら、1970年「までの」貧困の後始末をして、後は左派系貧困ビジネスを叩くだけでよかったからだ。でも東京は1970年「からの」貧困にケリをつけなきゃいけないから大変というわけで、実際に東京の小池都知事は結局通勤ラッシュをゼロに出来なかったのだが、これは「会社」の問題がいかに深刻なのかをよく表している。

ところが今となっては東京が両方の貧困の面倒を見なければならなくなった。現在の選挙情勢から見れば、そうと言わざるを得ない。そしてこの「1970年までの貧困」と「1970年からの貧困」の両方の面倒を見るなんてのは、はっきり言って無茶だ。そんなの出来っこない。


結局のところ現実がどう進んでるかと言うと、大阪だけが勝手に「東京の改革」なんて知らないよとばかりに動き続けて、その結果として公明党潰しで再生を加速させ、東京一極集中によってむしろ古臭い JTC 仕草だけを選択的に東京に押しつける形になっていった。こうなると東京は勤め人の群れと底堅い創価勢力とで雁字搦めになり、一方で万博を控える大阪は勝手に外国と繋がっての繁栄へと向かうという妙な構図となってしまう。もちろんこの構図は、大阪を福岡に置き換えても大体似た話になるだろう。

そしてこの何とも妙な状況も、実は「両細川の乱」の頃に似ている。この時期というのは、少し前の細川政元による専制支配期とは違い、首都の権力者が本当に首都近辺以外に興味を示さなくなっていたのだ。そうすると、関東の北条氏などは中央からの小言のような介入から解放されて、本当に独立勢力として自由にのびのびと動き始めた。これに近い感じが、現代日本にも見られるのだ。

結局、中央政権が地方そっちのけで骨肉の争いをやり出した場合は、地方勢力サイドの最適解は「中央ガン無視」なのだ。どうせ何やったってあの連中はこっちになんか興味ないのだから、俺達は外国と繋がって上手くやっちゃえばいいだけじゃないかと … 500年前と言えば奈良時代や平安時代とは違って既に大航海時代でポルトガルから鉄砲までやってきてたくらいだし、もちろん現代においては言うに及ばない。むしろ適当に何かやってれば、気がつけば外国と繋がってしまっているくらいのものだろう。


こんな状況で地方勢力が中央に出てきてあれこれやるなんてのは、そりゃ憂鬱にもなるだろうし、大体馬鹿馬鹿しくてやってられないだろう。現に「両細川の乱」に加担して京都に出てきた大内氏(今の山口県が拠点)は、疲弊させられた挙げ句に地元に帰ってしまったのだから。

こうなってくると、他のどこの地方政権も成し遂げられなかった事を、何故織田信長だけが完遂できたのか?そんな疑問がわいてくる。そしてそれに対する答えは、おそらく織田政権とは徹底して「民衆の力で動く」ようにデザインされていたからではないか。そう思っている。さらに言えば、政権のメインである商業系のイノベーションに関しても、それまでの権力者とは「民衆をアテにする」度合いにおいて完全に別物だったのではなかったかと。

あの時代の軍事的リーダーだった織田信長にとって決して「爽快」では無かったはずの中央政界での「守旧的な態度」は、実は民衆をアテにするという政権の性質によるものだった可能性が高い。そしてそれは、遠回りのようで結局は一番の近道だった。細川政元のような専制支配は、実は解決を遠ざけるだけのものだったのだろう。

何やかや、現実の世界を決めるのは民衆なのだ。室町末期のように権威者たちが犬も食わない内訌(ないこう)に明け暮れていても、民衆の生活は日々続いていく。そしていつかは誰かがその民衆の声を掴んで、天下に覇を唱える。まさに織田信長がそうしたようにして。


そして、乱世を起こすのも民衆ならば、乱世を終わらせるのもまた民衆だ。それは織田信長の後の豊臣秀吉の時代を見ればよく分かる。

国人(地侍)という武装農民集団が「刀狩り」で武器を政権に献上したのは、とうの昔に乱世の生き方なんてものが時代に合わなくなっていたからだ。貧民の出自の豊臣秀吉や下層武士出身の石田三成はそれを読み切っていたはずだ。要は余った農業生産物を市場(マーケット)に回してしまえば、もうそれで下剋上なんてのは誰も起こす必要がなくなっていたのだ。
現代日本の創価学会や室町末期の本願寺のような宗教勢力に対しては、このような理屈は通じないかもしれない。何せ宗教なので感情の世界だし、これら強力な教団は混乱期特有の「アノミー」を緩和したことで肥大化したという一種の必然性もある。本願寺光佐(顕如)も故・池田大作氏も、その意味では俗世の乱れをよく収めた「大物(おおもの、Big Shot)」ではあったのだ。
織豊政権期においてこの厄介なアノミーが根本的におさまったのは、結局は豊臣秀吉による奴隷解放(人身売買の禁止)こそがトドメだったと思っている。人身売買とは雇い主の都合で勝手に居住地を変えられてしまうという暴挙で、こんな状況では各所に拠点がある本願寺の信徒にでもなってなければ誰も正気を保てなかったのだと思う。奴隷(奴婢)だって人間だ。生身の人間は道具ではなく、地縁血縁のような紐帯で生きている。それを奪われた者たちは、宗教による紐帯で生き延びるしかなかったのだ。
豊臣政権による人身売買の禁止は、この状況に見事にフィットしたはずだ。居住地の選択権を与えられたかつての農業奴隷たちは、以前にも書いたように「水呑百姓」となり、ダブルワーク・トリプルワークを駆使してそれなりに稼いだ者もいたらしい。この新興勢力は、戦乱が過去のものになった平和な時代に大いに活気を与えたはずで、近世巨大都市の大坂(上方)周辺においては特にそうだっただろう。こうして強固な政治勢力としての本願寺は、過去のものとなっていった。

さて、今の日本はどうだろう。
テレワーク程度のことで東京一極集中が既に関東平野において瓦解し始めた。JR 東日本が京葉線の通勤快速廃止を表明した #京葉線地獄 においては、東京圏特有のテレワーク定着による鉄道会社の経営難が露呈している。
そしてどうやら千葉県のみならず北関東においても、同様の「切り離し」が始まっているそうだ。これは要は勤め人という生き方が時代に合っていないということで、コロナきっかけのテレワークの上に生成 AI まで登場してしまっては完全にトドメだろう。本当に関東地方の勤め人と大手鉄道会社はどうなってしまうのだろうか?
勤め人という生き方に心理的な意義があるとするならば、それは会社に依拠した家族制度なのだろう。だが、こんなものは所詮は偽りの紐帯に過ぎない。フラット35だの標準世帯だのと言うのが間抜けな幻想でしかないことは、もうみんな薄々気づいている。
このようにして、東京圏を中心にして連帯や紐帯の欠落によってアノミーが拡大すると、まさに室町末期の本願寺のように創価学会を支持母体とする公明党がやっぱり存在感を増すのだろう。宗教による紐帯は、良し悪しは別にして紐帯としては本物なのだから。

今回の記事を書くにあたって、僕はかなり憂鬱だった。その理由は、まさにこの「今の日本」というよりは東京の現状のせいだ。はっきり言って、こんな室町末期の京都みたいな話を500年後に書き続けるなんてのには、それなりの気力が要る。
それでも、今回の記事を書くことが出来た理由は、実は既に書いている。「結局は民衆が決める」だ。少なくとも僕はそう信じている。はっきり言って、室町末期が実際にどのようにして終わったかをちゃんと見ていけば、それは疑いようがない事だと思えるのだ。
その意味では、今の僕には日本の未来の姿が見通せているわけではないが、そんな僕でも言い切れる事がある。即ち、きっと全ては民衆が決めるのだと。
生身の生き物である人間の生きる力が、そんなにヤワなはずが無いのだ。もちろんあの織田信長が信じた〈原理〉とは、この人間という生き物の「本物の生きる力」であったはずなのだから。