就活がどうとか毎年大騒ぎする割には、日本人の大半は「就職」なんてしていない。「日本人は〈就職〉じゃなくて〈就社〉」とも言われるが、それも本質ではない。

日本人がいわゆる「大人になる」時にほぼ強要されるのは「同性の親の生き方をなぞる」事だ。そしてそれを「就社」と呼ぶのは適切ではない。この行為に適切な言葉をつけるならば、それは「家を継ぐ」だろうと思う。

つくづく思うのだけど、大半の日本人において、金を儲けるなんて話はない。あるのは「家を継ぐ」だけだ。すなわち同性の親の生き方をなぞること。そこには職業選択の自由などあるはずなく、何より「夢」など皆無だ。

そしてみんな家を継ぐもんだから転職も出来ない。日本ではいつまで経っても転職は盛んにならず、副業は出来るけど結局会社は辞めるしか無いというのは、こういう事情による。何しろ就職でも就社でもなく単に家を継いでる訳で、そして「家」というのは無数にあり、どの家庭も非常に「個性的」なのだから。それらの各々に複雑な家庭間に橋を架けるなんてのは、殆ど神業に近いだろう。


日本で転職がやけに困難なのは、通常の転職志望者には「収入向上」という動機があり(←日本の現実においてはこの〈設定〉からしてフィクションだと僕は確信しているのだが)キャリアアップはそのために行うものなのだが、実際には大半の人が「家を継いで」いるだけでキャリアのスタートラインに立てていないからだ。そしてこれは日本のスタートアップ界隈において、儲けるよりも「(人生を)逃げ切る」アーリーリタイア・Exit への渇望が顕著なのと同根だろうと思う。

最近スタートアップ関連の法律が改正されたそうだが、要は「Exit しやすい」ものになったらしい。おそらくこの法改正は「民意に沿った」ものだろう。結局のところ、日本においてはたとえスタートアップであっても「金を儲けたい」動機は希薄で、本当に切実な動機は Exit なのだ。とにかく、みんなどうにかして今居るところを辞めたいのだ。

では何故これほどまでに多くの人が、消極的決断とは言え一応は自分の意志で決めた「家を継ぐ」ことからそこまで切実に Exit したがるのか?これについてはずっとよく分からなくて、そしてこれまでに書いた記事で示してきたように、一つの要因として考えられるのは、多くの人が「家を継いだ」結果として勤めることになる会社という場所が「アノミーまみれの地獄」だからだろうという事だった。そこに至る構造もある程度は見極めたつもりだ。一方で、この話については別の見方も存在するだろう。今回記事で書くのはその「別の見方」についてだ。言わば数学の解法で言うところの「別解」になる。


この「別解」を結論から言うと、現代における Exit への強い情熱の根幹は、そもそもの「家を継ぐ」が何やかやみんな出来ていないからだと思う。つまり同性の親の生き方をなぞろうとして、結局はなぞり切れてなかったのだ。

これは「個性」の強調であったり「自分らしさ」「本当の自分」へのこだわりではない。単に「なぞる」能力の不足だ。そしてこの「なぞる」能力というのは、おそらくは先天的な身体能力と同様に、個人の努力では殆どどうにもならないのだと思う。そしてこの意外なほどに先天的才能や気質・体質に依存するらしい「なぞる」に向いた人というのは、今や現役世代日本人においては少数派なのではないか。そんな気がするのだ。

1972年生まれの僕よりも年上の日本人は、おそらくは総じてこの「なぞる」能力がかなり高かったと思う。それはオリジナリティーの不足と揶揄される事もあったが、実はその時代においては過半の日本人が「なぞる」事に長けていたために、その能力の価値が値崩れを起こしていたのだと思う。モノの価値はやっぱり需要と供給で決まってしまう。

一方で、現代日本人はこの「なぞる」が本当に下手だ。上手な人にはそう簡単にはお目にかかれない。それはまさに希少体験で、こうなると令和日本を制覇する能力は実はこの「なぞる」力なのかもしれない。かつては「米国のコピーの猿真似日本人」などと揶揄された能力が、実は令和日本では高い価値を持つことになるのではないか … 需要と供給の原則からするとそんな気もしてくる。


ところで、これを書いている僕はここまでの内容から容易に推察される通りに、典型的な「なぞる」事の劣等生だ。さらに言えば、僕は人付き合いにおいて「個性的」とみなされる事が多いが、はっきり言って自分の個性を強調したことも重んじたことも全く無い。単に「なぞる」事が下手な人間が、とにもかくにも日々の生活のために自分なりに足掻き続けただけの話でしかない。

この「なぞる」能力については、たぶん動物を例に挙げると分かりやすい。ごく身近なものに限っても動物にはいろんなタイプがいるものだが、例えばカラスという鳥は意外なほどに声真似が上手い。先日なんて、朝に近所の道を歩いているとカラスに「オハヨウ」と挨拶?されてしまった(笑)。きっと近所の住民に餌でももらっている時に声をかけられた「おはよう」を、カラスなりに真似して面白がって遊んでいたのに違いない。

そして当然ながら、犬や猫にはこんな能力はない。どちらもとても愛嬌のある生き物だが「オハヨウ」などと言ったりはしない(笑)。もちろんこれは犬や猫が「自分らしさ」にこだわっているのではない。無理なものは無理なのだ。


さて、かつての日本と違って現代日本は「なぞる」力が大きく低下しているのだと、今回ここまで書いてきた。そしてその世代的分岐点は、おそらく僕の少し上あたりだろうと。その理由は不明だが、大体そのあたりに切り替わる分水嶺があるのだろう。

この事をとりあえず事実として認めると、今の日本の諸問題に対する強力な処方箋が見えてくると思う。それは何かというと、僕の世代あたりから下の日本人は、あくまでも「消極的選択」として「自分らしく生きる」事を選んだ方がいいということだ。もちろんその理由は過半において「なぞる」能力が低いからで、そして大切なことは、この「消極的選択」をする時に決して上の世代の言う事を聞かないことだ。何故ならばその世代は「なぞる」能力が高い人がマジョリティーな世の中を生きてきたので、こんな「消極的選択」としての自分らしさなんていう発想は、容認どころか理解からして出来るはずが無いのだから。


僕は #開国しなさいニッポン を主導してきた「開国派」で、外国との交流に極めて高い価値を置く人間だ。だがその一方で、現代日本人が海外旅行が嫌いで内向きになって来ている事については、実は「仕方がない」と思っている。

これは矛盾しているようだが、そうではない。どういう事かというと、現代日本人は語学習得で重要になる「なぞる」力が低いので、外国語習得のハードルがかなり上がっていると思うのだ。特にあの「シャドウイング」というトレーニングが実に厳しい。そうなると外国旅行はかつての世代よりも億劫となるだろう。そしてそうなると、自分が生身で訪問してもいない外国への体感はどうしても落ちるので、ある程度内向きになるのは仕方がないと思うのだ。

そして、一番狭い意味での #開国しなさいニッポン 運動とは要はインバウンドの振興の事だったりするのだが、まさにこのインバウンドを通した国際交流こそが現代日本人にも十分に可能な、そして切実な価値を持つ行為なのだと思う。なぜなら観光客というのは、先方にとって外国である日本という国にわざわざ来てくれた上で、その滞在時間を楽しもうという強い意志がある人たちなのだから。このようなシチュエーションにおいては、はっきり言ってこちら側の「なぞる」力の不足はあまり問題にはならない。大切なのはホスピタリティであって、この場合は「なぞる」技術はさほど問題ではないのだ。

そして多くの日本人が「なぞる」力の不足で外国旅行を嫌がる中においては、インバウンドで来日した外国人との交流体験は、従来の日本社会では考えられないほどの希少価値を持つはずだ。すなわちインバウンド観光客を大いにフレンドリーにもてなすのは、現代日本人においては「極めて合理的な行動」なのだ。


ここまで総論的に書いてきたのだけど、先日僕が体験した具体的な実際の話をして、今回の記事を締めくくろうと思う。

僕が梅田のとある飲み屋で一人呑みしてる時に、カウンターの隣席にアジア系の方(後で分かった事だがどうやら米国の生活者らしい)が居た。その方は店員さんとの意思疎通にやや困っていたようなのでちょっと心配して見ていたのだが、よく分からないうちに僕がその方を地元関西の日本人としておもてなしする事になってしまったのだ … もちろん僕はと言えば超カタコト英語連発のドタバタ状態だったのだが、実のところこの体験は非常にエキサイティングで、しかも僕がお勘定をしようとしたら、先に出ていったその方が奢ってくれていた!… という何ともグレートな国際交流を偶々にやってしまっていたわけだ。そしてこの体験をした僕は、いつも通りに奈良と大阪を往復していただけで、飛行機どころか新幹線にすら乗っていない。単に向こうさんが自由意志でこっち(日本の大阪)に観光に来てくれただけだ。

実際のところ、何やかやこんな程度の話なのだと思う。現実の世の中では、日本国内だけの変なセオリーでもって「なぞる」力が不足した者がやけに低く扱われ、当人もそれを真に受けたりすることが少なくないが、実際はせいぜいこんな程度の事なのだ。すなわち「なぞる」力の不足は #開国しなさいニッポン 的なオープンマインドとは矛盾しないし、もっとはっきり言えば「なぞる」力なんかあったところで、せいぜい JTC で出世しやすくなる程度の事なのだ … そしてもう今の時代なのではっきり言うけど、そんなのはもう正味の話どうでもいいじゃないかと(笑)。

そんな事よりも、カタコト英語で訪日外国人とそれこそオープンマインドでやり取りする方が絶対にエキサイティングだし、もちろんそれ以外にも現実の世の中にはエキサイティングがあふれている。そして「なぞる」力の不足でこの手の話で不便を感じることなんて、実際には殆ど無い。

もうはっきり言ってもいいだろう。「なぞる」力なんてのは現代日本においては殆ど要らないのだ。そんなのは必須の能力ではない。そして僕らはみんな「消極的選択として」自分らしく生きることを選んでしまおう。自分の勝手な判断として。それでまわりに迷惑かけるなんてことはまずあり得ないし、そんな事で小言を言うような上世代が居たとしたら、「はいはい」てな感じで馬耳東風に聞き流しておけばそれでいいのだ。