いつの頃からか、この国では「博士持ちニート」などという妙な現象が話題になっているが、僕の居た工学部に関して言えば、学部生から修士課程に入ったあたりから急速に一般社会と没交渉になっていく。博士課程に進んだのならいざ知らず、まだ修士も取ってないのに。
いわゆる「実学」の典型とされる工学部は、実は修士課程あたりからは理学部の雰囲気が漂ってくる。僕は京大出身だが、理学部というところは別名「就職無理学部」と呼ばれていた。それだけ浮世離れしているという意味なのだが、これが工学部でも修士課程になると起こってくるのだ。そして修士課程でこうなのだから、博士課程は何をか言わんやだ。
僕は以前から、日本には元来の本来あるべき形の博士課程なんて無いんじゃないかと感じていた。何らかの学問を修めた上で、古来から人類がずっとやって来たように世の中にある膨大な量の知識を体系化してまとめあげるというような … そういった意味合いでの博士課程なんて日本には本当に無いんじゃないかと。
そしてその異様な事態の理由はと言えば、単純に一般社会が博士を必要としていない、いやそれどころかむしろ博士なんて一般社会の邪魔者だからなのだと思う。
日本という国は、社会のあれやこれやが数多の世襲政治家だとかつまらないゾンビ企業(要するに既得権益だ)を保護するために作られていて、そしてこういう既得権大威張りな国では、研究開発という形で「実際に価値を生み出せてしまう」博士のような人材は、むしろ邪魔者なのだ。何故なら「価値を生み出す」ことは、既得権の破壊に直結するから。

このような既得権に溢れた息苦しい社会主義的な体制の国においては、そこに住む多くの人たちを権力が不条理な力で「馴致」させなければならなくなる。そうでなければ、国家が転覆するからだ。もちろんサラリーマンというあり方はここで言う「馴致」が完了した姿で、それは「社畜」という言葉のニュアンスによくあらわれている。

そしてこの不条理な抑圧のために使われる代表的なツールが「符牒」だと思っている。符牒とは仲間同士でだけ通じる合言葉などのことで、仲間同士であるかどうかを示すしるしだ。その意味では一種の「踏み絵」でもある。要は「馴致されざる者たち」を取り締まるための仕組み・仕掛けとして、隠語めいた暗号のような何かが使われるのだ。

隠語というのは嫌な感じのものだが、それが仲間か否かを識別する符号という形で内部支配のツールとして使われた場合にはなおさらだ。何しろ、強い閉鎖性を持った集団が内部でしか通らない隠語で会話し、そしてこれら隠語という内部の符牒を持たないものを軽蔑し、謎めいた特権意識を持つに至るわけだから。そしてそういう自集団の地下組織的な「秘密結社」っぽさに、自分で酔っている。


サラリーマンと言えば「JTC」と呼ばれる古参日系大企業の従業員のイメージだが、この JTC の内部には、多くの人が想像するよりもかなり深刻なレベルで、まさに JTC 的と呼ぶべき「社内文化」が残存している。むしろ今や JTC もさすがに落ち目なのが明らかな事もあって、かえって先鋭化・濃縮化しているかもしれない。そもそも隠語というものは、元よりそのようにして濃縮化する傾向を持っている。

馬鹿げた話だがこの手の「カイシャ的空間」では、まさに符牒による暗号支配としての「踏み絵」やら「痛めつけ」でもって人を〈育てる〉傾向がある … いや、これをもって人を育てるとは言わないだろう。こんなのは単なるペットの躾だ。

ここで言う躾というのは、いい年した大人に愚にもつかないことをやらせる、というような形を取る事が多い。本当に下らない話なのだが、例えば社員同士のオフタイムの交流の機会に何かの食べ物を完食させるだとか、職責を昇級させる際のプロセスとして仕事内容と直接に関係のない名言なのか何なのかよく分からない短文?みたいなものを暗唱させるとかだ。これらの無意味そうな何かが一種の内部的な暗号(コード)となっていて、そこに不可思議な価値を持たせているのだ。

他にも、何らかの仕事上の不始末があった者に対して訳の分からない「再教育」を施して降格処分を免除したりする。これは、当該の不始末への処分をなあなあにするための言い訳なので、その内容は〈道徳的で謎めいている〉方が都合がいい。まるでかつての学校教育の「修身」みたいなものだが、暗号としては非常に上手く機能することは請け合いだ。

そしてこうした謎めいた(まさしく暗号的な)「社内文化」に染まりきれない者を、やれ「まだ染まっていない」だの「君がここで変わるしかない」みたいにして痛めつけて(というよりは〈しごいて〉)、それをもって「指導」とするわけだ … 本当に馬鹿げた光景だが、もちろんやってる教育担当者?は大真面目だ。

こういう愚劣さに「馴致されざる者たち」は耐えられない。もちろんその感性の方が正常なのだ。そしてこんな「社内文化」は、体育会系の部活とかに顕著な、内輪ノリの「絶対的な上下関係」みたいなものと大差ない。言い換えれば、上意下達の絶対的な専制支配で、そういう低レベルな事を符牒による暗号支配によって行うのが、JTC を典型とする日本の古臭い組織なわけだ。もちろんこの手の組織は中身はボロボロのくせに、未だに経団連だなんだと言って社会の主役ヅラをしている。


結局、多くの人が不本意ながらも、そんなに大した額じゃない生活費だけのために、「ペットの躾」のような獣同士が序列を決める手順の如き馬鹿げた事を続けている。それが日本の現実で、もちろんこんなことをやっていて経済成長やイノベーションなんて出てくるわけが無い。

符牒による暗号支配の面倒なところは、それがどれほど深刻な害をもたらしていても、符牒そのものを叩いたところで無意味なところだ。というのも、支配・統治する側にとっては符牒の中身なんてどうでもいいからだ … というか、そもそも支配の道具としての符牒は、支配する対象や状況によってコロコロと変わるものなのだ。そもそも暗号とはそういうものだろう。野球の「サイン」のように。

分かりやすい例を挙げると、仮に支配(というかコントロール)対象がオシャレを好む若い女の子たちならば、符牒として選択されるのは例えば何らかのファッションになるだろう。そして機械好きの男性に影響を及ぼしたいなら、符牒は最新 IT ガジェット等となったりする。00年代だと「WindowsVista」だったりしたわけだ … もちろんこんな怪しげな符牒として利用されているなんて事は、製造元の Microsoft のあずかり知らぬ話だ。そして、正体のよく分からない新型ウイルスが流行した状況ならば、感染拡大防止とか言ってマスクが符牒と化す … 要するにその何物かが支配者にとって都合の良い暗号ツールであればよくて、それ自体の意味なんて全く考慮されていないのだ。


冒頭に書いたように、日本に普通のよく知られた意味合いでの博士課程が定着していない理由は、この日本社会では博士はむしろ邪魔者だからだ。あらゆる事が既得権の維持のために作られていて、その結果として国全体が地盤沈下したのが「失われた30年」だ。よく言われるような日本における格差拡大なんてのは大嘘のマスプロパガンダで、実際は国全体の社会主義化で「みんなで貧しくなった」だけだ。

このような社会主義が跋扈する既得権の王国では、研究開発という「本質的な危険分子」は弾圧の対象だ。権力者は自分で権力を手放すことは決して無い。抑圧された人々が、既得権や権力と戦って叩き潰すしか無いのだ。

ここで、あらゆる符牒の製造元は「テレビ局と出版社である」という事を確認しておくことは、おそらく誰にとっても有用だと思う。具体的には、東京から全国ネットで配信されるテレビ番組と、コンビニに並んでるような一般雑誌の事だ。これらは「符牒という悪魔」をバラ撒いてる元凶で、もちろんテレビ局や出版社のような「メディア会社」はマスコミ(マス・コミュニケーション)と言われているくらいなので、悪質なマスプロパガンダの老舗中の老舗だ。つまりは日本のような社会主義国を一党独裁的に支配する、まさしく悪の総元締めと言っていい。

この符牒そのものであったり符牒をバラ撒く勢力は、以前に書いた「人間関係を固定化する傾向」そのものでもあるし(支配や抑圧というのはそういうものだ)、人々を土地に縛り付ける意味では少動傾向を加速される元凶でもある。そうやって辞書的な意味での社交(←以前にも書いたように、この「社交」は「音楽」とも言い換えられる)を弾圧し、マスコミの収益構造にとって都合のいいような「社会主義的な」大衆概念を維持するものでもある。その意味では、符牒そのものや符牒をバラ撒き続ける勢力は、間違いなく「日本国民の敵」なのだ … この事は、全てのまともな生活者が強くしっかりと認識しておく必要がある。それ程の「重大事項」だろう。