どうしても覚せい剤を辞めようと思うけど、またやってしまったとか、
どうしてもパチンコを辞めようと思うけどまたやってしまったとか。
昔は、意志が弱いだとか、精神力の問題と巷で言われたものでした。
精神科では、これは依存症という病気のせいだからと病気にすり替えました。
生まれついての病気というわけです。
病気、病気といっても、薬物なり、賭博なりに遭遇せずに過ぎた人の中にも依存症という病気があるのでしょうか。
依存症の治療のためにアメリカに行きましたが、そこではヘロイン中毒、ヘロイン依存症の治療として、ヘロインよりも半減期が長い麻薬を毎日窓口で飲ませる療法というものがありました。
医師に電話をかけて、またやってしまったと懺悔されるので、医師が、またのみにおいでという電話精神療法ともいうのでしょうか、あるいは悪い言い方をすれば法の下での正規の売人とでもいうのでしょうか、そういう状況でした。
突き詰めたものがあるはずと思っていたので、その時は、急場しのぎ、まだまだ改良改善していく療法の途中と漠然とやり過ごしていました。
それが1999年、それから4分の1世紀が過ぎましたが、聞くと変わっていません。
つまり、コントロールしやすい麻薬に変えることが終点。
アルコールも同じです。禁酒法の時代から、何が変わったか、2人の男の考えた12ステップが受け継がれています。
九州医療センターで同じ処方がどんな入院者にも適応され(緑内障など身体的に服用禁忌、あるいはそれと類似状況を除く)、皆退院していくのでした。
その処方が非常に有効なわけです。
驚くことに、クリニックに勤務して、同じことは、残念ながら起きませんでした。
20年以上そのことがなぜ起きるのか、自分なりにじっくり考えました。
入院中は、家庭での生活から全く別の生活に変わり、そこでは他者から完全にコントロールされます。
このように違う世界に入っています。そして、そこでは、その環境で治療という、ある意味共通の意思統一された流れに乗らざるを得ません。
外来で、いくら口酸っぱく言っても、そこに強制力は生じません。
否応なく治療に乗せられるのではなく、自分で変わらないと、自分で乗せないといけません。
アルコール依存で、変わらないといけないと自覚しましたという内容を言っても、底つき体験をしても、スリップが生じるのは、心が弱いのでもなければ、覚悟が足りないわけでもなく、私たちの心は、その時、その時で考えているということではないでしょうか。
人が、人に攻撃する際に、その影響を考えてする人もいれば、感情に走ってやってしまう人もいます。
やってしまって、しまったと思うのは一時の感情に任せてやってしまったとよく言われますが、同じ状況になればやはり同じことをやるでしょう。
その時その時で考えた自分にとっての最良のものをやっています。
考えるとき、そこに心がある、心はころころ変わる、だからどんなに覚悟していてもやってしまう時もあれば、やらずにいるときもある。
もっと気楽に、もっと気楽に、心はその時その時で変わります。
心が暗いほうにあれば、いやなことをします。
明るく考えましょう。明るく、明るく。
まあいいか、なんとかなる、自分を許していきましょう。