26・07・06アメーバへ送付
その36
それから更に、5年余の歳月が流れました。
村人達の生活は、お天道様(おてんとさま)次第、うまく収穫できた年もあれば、作付した作物、全てが駄目になってしまった年もあるといった具合で、生きているのがやっとといった、綱渡り状態に、変わりはありませんでした。
村に残った者たちは、川の増水の季節を考慮して、それに合わせて、作付けする作物の種類を決めるといった事によって、何とか食べ物を、確保してはおりました。しかしそれでもうまくいかない年は、草や、草の根、芋や南瓜の軸や葉までも食べて、飢えをしのぎながら生き延びておりました。
その日その日を生きていくだけで精一杯でした。
もう決壊部分を、堰き止める話なんか、口の端(くちのは)にも上らなくなりました(人手も、お金も足りない現状では、もはやそれは、不可能である事が、誰にも分かり切っておりましたから、諦めてしまったのでした)。
今ではこの村の土地は、川の中に浮かぶ、川洲か、河川敷のような状態でした。
祐貞は、せめて自分達が住んでいる場所だとか、作物を作っている場所だけでも、土手で囲めないかと思い、その費用を賄うために、桑名の廻船問屋に運用を任してあったお金を、返してもらおうと、催促にいってみました。
しかし廻船問屋の主人は、相変わらず、のらりくらりと言い訳をしながら、待ってほしいの一点張りで、期限が来ているにもかかわらず、返してはくれませんでした。
祐貞はもう半分諦めていました。
ここまで待っても支払ってくれないと言う事は、相手に、支払ってくれる意志がないとしか思えませんから。
しかしご先祖様から託されたこの土地を農地として再生して、今一度、昔の繁栄を取り戻したいという望みだけは持ち続けました。
今の彼には、その望みだけが、生きていく上での糧となっておりました。
彼には、以前、村落の在った場所を、歩き回って、村の土地の再生策を考える事だけが、今の、唯一の楽しみでした。
他に行くあてもなく、やむをえず村に残っていた村人達は、と言っても数戸しか残っていませんでしたが、祐貞のそんな話、落ちぶれ若旦那の、たんなる夢物語として、誰も、相手にしようともしませんでした。
村に残った者達は皆、落ちぶれてしまって、自分達に何もしてくれない、頼りにもならないような青木の家の当主なんか、もう馬鹿にしきっていました。
彼ら小作達は、土地は青木家の物で、自分達は借りているだけということは知っているはずなのに、最近では、何やかにやと理由を付けて、地代も払おうとしないほどになっていました。
そんな彼等ですから、今更、金もないような馬鹿旦那の、くだらない夢物語なんかに、付き合っておれるものかという気持ちでした。
祐貞の村再生の話は、お米と、お兼以外は、吉六でさえも、まともに聞こうとはしてくれませんでした。
しかしお兼とお米は別でした。彼女達は、お大師様がおっしゃったとおり、いつの日か、この若旦那様が、この村を再建してくださるに違いないと、固く信じておりました。
だから、苦しい事や、辛い事があっても、愚痴一つ言う事もなく、ただひたすら若旦那様に付いていました。
その37
祐貞の心の中には、そんなお米の事を、愛しく(いとしく)思う気持ちが、日増しに膨らんでまいりました。
いつ壊れるかわからないようなこの危なつかしい、今の生活が、彼に、愛を告白するのを躊躇わせ(ためらう)、自制させているだけでした。
その膨らんだ愛は、お米の何気ない仕草にも、近くに寄ってきた時の、その女らしい薫りにも揺さぶられ、燃え上がります。
今にも、その思いが爆発して、衝動的に抱きしめてしまうのではないかと、思える時があるほどでした。
ただ相手の意向も考えず、理不尽な行為に走りたくないと思う、理性だけが、今のところそれを押し留めるものでした。
一方お米のほうも、祐貞の事を嫌いではありませんでした。
18歳の頃、一緒に学問所に通っていた頃はまだ、その素直さと、子供っぽさや、むきになって彼女に負けまいとして、懸命に努力する祐貞の姿に、弟のような可愛さを持っていただけでした。
ただそれだけでした。
男性として特に意識した事はありませんでした。
しかし共に、苦労を重ねてきた、この5年余の間に、彼女も密かに、祐貞の事を慕うようになってきておりました。
この5年間、野良仕事によって鍛えられた彼の身体は、全身の筋肉が隆々と盛り上がって、とても逞しくなりました。それが高い身長とうまくかみ合い、その均整の取れた逞しい身体は、男でも、ほれぼれするほどです。
性格も変わりました。読書好きで、思慮深く、しかも実行力と、決断力をともなうようになり、とても頼れる存在となっておりました。
いろいろな人達との交渉事を通して、いつの間にか、少々の事ではへこたれないタフさも、具わってまいりました。
祐貞からは、もう以前の気弱さは、影を潜めてしまっていました。
誰かを頼りにするとか、誰かの顔色を窺いながらしか、何事も決められないなどといった、頼りない面は、何処にも見当たらなくなっておりました。
読書好きで、研究熱心なのは、変わらず、作付をする作物などについても、以前のように吉六任せではなくなりました。
自分から、その土地、その土地にもっとも適した、作物を探し出してきて、それを植え付けるようになっていました。
しかし何よりお米が強く惹かれたのは、祐貞の思いやりのある所でした。
祐貞は、朝早くから夜遅くまで働き続ける自分達、女の身体を心配して、少しでも負担が少なくなるよう、栄養をつけるようにと、何かと気遣ってくれました。
それは口で言うでもなく、態度ではっきり表すわけでもありません。
自分や、お兼などが、仕事でおそくなった時だとか、食事が進まなかった時、食事の量が足りなくて、自分達が遠慮した時、夜なべ仕事で遅くなった時などなどに、何気なく、そっと示してくれる配慮でした。
そんな祐貞の姿に、お米もまた男性として意識するようになっておりました。
たくましい身体付きと、その男らしい体臭に、彼が近くにいるだけで、胸が高鳴ってきて、息苦しさを感じるようになっておりました。
書物を読んだり、考え事をしたりしている時の、その思慮深げな姿に、ついうっとりとみとれてしまうこともしばしばでした。
彼女にとっては、祐貞が、村の、再生への夢を語ってくれる時ほど、楽しい事はありませんでした。
お米は、それを聞いていると、我を忘れ、祐貞と一緒に、その夢の中の村の、住人の一人になったかのような気になりました。
しかし、とはいっても、祐貞は、お米にとっては、あくまでご主人様です。
例え、今は食うや食わずのその日暮らしの貧しい農夫に過ぎないとしても、ご主人様はご主人様です。
そして自分は、観佐衛門の、遠い親せき筋に当たるとはいえ、単なる使用人にすぎないという事をよく弁えて(わきまえて)おりました。
従って、祐貞を慕う心は、彼女にとっては、あくまで誰にも知られてはならない、秘め事でした。
彼女は、祐貞の語る、夢の村の中にあっても、奥様の座に、座ってはいませんでした。
そこにあっても、彼女は、あくまで女中であり、祐貞を助けている使用人としてしか、夢みていませんでした。
続く