ゴマメの呟き・アンモナイトの徒然草 -15ページ目

ゴマメの呟き・アンモナイトの徒然草

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その18

「ただ今」明るい久美の声が、家の中一杯に拡がります。

「お帰り。朝早くから、何処へ行っていたのよ。

あらあら、びしょ濡れ、砂まみれになって。何をしてきたの、一体全体。まさかその恰好で、泳いできたわけじゃないでしょ。

ともかく、早くお風呂場に行って、洗い流していらっしゃい」

「ウン、ちょっとそこらまで、散歩に。

ついでにちょっと、海に足を入れてみたの。

とっても気持ち良かったよ。お母ちゃん達も、何時までも寝てないで、早起きして、散歩してみたら。空気はおいしいし、海の水は綺麗だし、とても爽快な気分になれるわよ」

「それにしても、馬鹿にご機嫌だこと。何か良い事があった?」

「ウン、ちょっとね。お母ちゃん、知っている?」

「なにを」

「家から200メートルくらい北にある、別荘に住んでいる人の事」

「知らないわよ。そんなの。だって私達、ここに、まだ来たばかりだもの。

でも、この別荘地に、まだ人がいらっしゃるの。こんなご時世ですから、もう使われていない家(別荘)ばかりだと思っていたのに」

「それがそうでもなかったの。ここから約200メートル北東に、二階建ての洋館があったでしょ。ほら、電車でここに来る途中、目に入った、ちょっと目立った、こ洒落た家。

あそこにね、若い男の人が一人で住んでいらっしゃるの。それがね、とても良い人なの。背が高く、ハンサムで、しかもジェントルマンで、優しいの」

「私、その人にタオル借りちゃった。後で洗って返しにいってもよい?」

「駄目よ、そんな事。

そんな身元もはっきりしないような若い男の所に、年頃の娘が、一人で訪ねていくなんてとんでもない。お婆ちゃんが聞かれたら、なんとおっしゃると思う。そう言う、無防備で、危なっかしい所があるから、おかあちゃんは、心配でしょうがないのよ」

「大丈夫よ。私だって人を見る目があるから。それに、上に、上がるわけじゃなく、立ち話でお礼を言ってくるだけだもの。

お母ちゃんはそういうけど、身元だってきちんとした方よ。名古屋の山の内胃腸科の息子さんで、第八高等学校の生徒さんだそうよ」

「それじゃ、その人、大学への受験勉強をする為、この夏、こちらで過ごされていると言うわけ」

「そうじゃないみたい。一年半くらい前からずっと、こちらに来ていると言っていたから」

「それで学生さん?じゃー学校へは?」

「そんな詳しい事まで聞かなかったから知らないわ。でもね、お母ちゃんが心配するような人では、絶対ないから」

「まさか“アカ”で、警察に追われているとか、停退学になっているとかという危険分子じゃないわね。

もしそれだったら、絶対に近づいちゃ駄目だからね。憲兵にでも睨まれようものなら、お父ちゃんも困るし、貴女自身だって、とんでもない目にあう事になるからね」

(註 アカ:その当時、共産主義者だとか、無政府主義者、反戦運動家のような時の国家体制に反対していて、憲兵や、警察による取り締まりの対象になっている人に対する、庶民側の呼称)

「いずれにしても、貴女が自分で、タオルを返しにいくのはちょっと待って。お母ちゃんが、その人の事、調べてみるから」

「調べるって?」

「この別荘の管理人のおばさんに、聞いてみるわ」

「フーン、そんな必要ないのに。お婿さんを探そうというわけじゃーあるまいし。どうせ長くても2週間ちょっとで、お別れする事になる、ほんの、行き擦りの人にすぎないというのに。まあ、お母さんが心配なら、良いけど」

その19

「久美ちゃん。あの別荘の人ね、ほら昨日タオル借りたと言う青年」一緒に、朝食の支度をしていた時、母親がきりだしました。

「ウン、どうだった」と久美

「本当に八高の学生さんだって。あんたが聞いてきた通り、名古屋の千種区にある山之内胃腸科という、とても有名な医院の息子さんに間違いないそうよ

名前は山之内淳志(あつし)さんと言うそうよ。真面目で、お金持ちの坊ちゃんらしい所のない、とても気さくな人で、人柄的には申し分のない人だって」

「そうでしょ。そんな変な人とは思えなかったもの」

「でもねー、一つ問題なのは、その人、胸が悪いらしいの。だから今は休学して、ここで療養中なんだって」

(註 胸が悪い:当時は肺結核の事を指す)

「フーン、そうなんだ。若いのに可哀そうに。でも、見た所、病人とは思えないほど元気そうだったけど」

「でもねー、あの病気はうつる(感染する)から、気をつけないと」

「心配ないよ。私、丈夫だから。病魔なんか、私の姿を見たとたん、向うから、尻尾を巻いて逃げだすくらいなんだから」

「それに昨日も言ったように、私、別に、大した(たいした)ことをしに行くといっているわけじゃないのよ。ただ借りたタオルを返しにいくと言っているだけなの。

そんな大騒ぎするほどの事じゃないと思うけどなー」と口をとがらせて久美。

「そうかしらねー。でも、若い男の人の所に訪ねて行くのだから、お母ちゃんだけでは決められないわ。お父ちゃんにも聞いてみるから、それからにして」

(註:当時は、「男女7歳にして席を同じゅうすべからず」などといわれたほど、男女交際には、厳しい世間の目が注がれていた時代でした。従って良家の子女が、独身の男性と二人だけで話しているのをみられると、それだけで、世間の好奇の目と非難の声に曝される恐れがありました。

まして、久美達のような女学生には、男女応際は固く禁じられていて、文通をしていただけでも、そんな事が学校に知れると、停学または退学処分になりました。許嫁は別でしたが)


次回に続く

このお話はフィクションです。似たような,名前、事柄が出てきましても、偶然の一致で、実在の人物、実際の事件とは全く関係ありません。又、実在の地名が出てきましも、フィクションの中の一場面として利用しているだけで、実在の土地、人物、家名とは無関係です。

その16

翌朝、眠れないままに、早く目覚めてしまった久美は、自分の隣に、母が寝ているのに気付きました。

母は、横向きになって、両手を久美の方に差し伸べて、久美を抱きかかえるようにして眠っておりました。

顔に幾筋もの涙の痕を残して眠っている母親の顔は、とても頼りなげで、悲しそうでした。

その顔を見た時、久美は、これ以上悲しませるような言動は避けようと固く心に決めました。

考えてみれば、子煩悩な母親です。僅かな時間の逢瀬の後、再び、子供と別れて暮らさなければならないと言う事一つをとっても、彼女にとっては、耐えがたい辛さであるに違いありません。

それが、その上、親からも身内や、友人からも別れて、夫以外は、知らない人達ばかりで、言葉も満足に通じない異国へ、それも平和な時ならまだしも、動乱の真っただ中にあって、命の危険性さえ伴っている異国へと、出かけて行かなければならないわけですから、母親の寂しさ、辛さ、心細さは、久美なんか比べものにならないほどであろう事は、容易に想像できました。

久美は、母親を目覚めさせないように、そっと起き上ると、浴衣に着かえ、窓から、裸足(はだし)のまま庭に降り立ち、そのまま、海の方へと足をむけました。

まだ朝早いせいか、あるいはもともと、この辺りは別荘地で人が少ない為なのか、海岸沿いの道を通る人も、海辺を歩く人の姿もありません。

白い砂浜が拡がる、潮の引いた海岸には、沢山の小蟹が、忙しそうに走り回り、それを追っかけて、一匹の柴犬が遊んでいるだけでした。

風の殆ど無い朝の海は穏やかで、透き通った海水が、小さな浪音を立てながら、波打ち際に、寄せたり返したりを繰り返しておりました。

水際までやってきた久美は、辺りを見回し、誰もいないのを確認すると、思い切って浴衣の裾をたくし上げ、その端を帯にはさむと、水に足を浸しました。

前日の日射の影響の残る海の水は、ひんやりする程度で、気持ちがよく、潮の匂いの混じった朝の空気を胸一杯に吸い込みながら、浜辺に打ち寄せる波と戯れていますと、昨夜来、頭の中に澱んでいた、もやもやしたものが、綺麗に吹きとんでしまって、とても爽やかな気分です。

先ほどまで蟹を追っかけるのに夢中だった、あの柴犬が、いつの間にか潮と戯れる久美の足下に寄ってきて、久美の浴衣の裾にじゃれつきはじめました。

「痛い、痛いがね。やめて、跳びつかないでよ。ほら、お前が跳び付いたもんだから、こんなに濡れてしまったじゃない」と言いながら久美は、浴衣をさらに高くたくしあげて、さらなる深みへと逃げました。

しかし犬は構わず後を、追っかけてきて、水飛沫(みずしぶき)を上げながら、跳びはね、跳び付き、なおもじゃれつきます。

「こらー、いたずら坊主め、懲らしめてやるぞ。こりゃ待て、こりゃ待て」と言いながら追い掛けますと、犬はよろこんで、逃げ回ります。

追い掛けるのを止めて後ろを向くと、すかさず、また戻ってきて、悪戯をくりかえします。

しばらくこんな追いかけっこをしていた久美は、そろそろ帰らなければと思い、海から上がって、歩き始めました。

犬も尻尾を振りながら後をついてまいります。

「何、お前、もしかして捨て犬?一人ぼっちなの。それじゃー、私の所へ来る?」と言いながら、頭を撫でようと、しゃがみこみますと、「そうです」と返事をしているかのように、その犬は尻尾を振りながら久美にすり寄り、久美のさしだした手を、舐めはじめました。

「まあ、可愛い」と言いながら砂浜に座り込んで首を、抱き寄せますと、「クィーン、クィーン」と小さな甘え声を出しながら顔中を、ぺろぺろと舐めます。

「よしよし、お前も一人ぼっちで寂しかったのだね。それじゃうちの子になる?」と言いながら、自分の髪を結んでいた赤いリボンを、犬の首にまきつけようとした時の事です。

「ゴロー、おいで」と言う若い男の声が後から降ってまいりました。

誰もいないとばかり思っていた所へ、突然の人の声、驚いた久美が振り返り、仰ぎ見ますと、そこに、ちょうど、従兄の寛太くらいの年頃の青年の顔がありました。

その17

「イ(ギィ)ヤーッ」誰もいないと思っていた所へ、思いもかけない人の姿、それも若い好感のもてそうな青年の出現に、しどけない(服装が乱れて、しまりがないの意)格好をしている自分に、とり乱した久美は、言葉にならないような悲鳴をあげると、慌てて跳び起き,逃げ去ろうとしました。

所が、あまりに狼狽していたので、足下にいた犬に躓いて、顔を砂浜に突っ込むような形で、転んでしまいました。

「イテェテ」慌てて砂を払い落しながら起き上った彼女は、その時気づきました。

ザンバラ髪で、砂まみれの自分の姿に。その上濡れた浴衣が身体に貼りついて、まるで裸になったかのように、身体のラインが透けて見えている、あられもない(とんでもない)姿に。

一度立ち上がりかけた彼女は、自分のその姿に、思いが至った瞬間、まるで呪文にでも掛かったかのように、身体の力がぬけてしまい、ペタンと砂の上に座り込むと、膨らんだ胸元を両腕で覆いながら、首筋まで真っ赤にして突っ伏してしまいました。

見渡す限り、海と砂浜です。身を隠す所など、何処にもありません。

久美は身体を竦ませ(すくむ)ながら、「いやっ、もういやっ、早くどこかへ行って、早く早く」と口の中で呟いていました。

所が、彼女の願いとは逆に、その青年はむしろ近づいてきました。

「ごめん、ごめん。朝のうす明りで、良く見えなかったものだから、ザンバラ髪の黒い人影をみて、てっきり、ここら辺りの漁師のおかみさんだとばかり思ってしまって。

まさか、こんな時節に、若いレディが、こんな所に、いらっしゃったとは。

御免ね。良かったら、これ使って。洗いたてで、綺麗ですから」と言いながら、タオルを差し出しました。

俯いた(うつむく)まま、引っ手繰るように(ひったくる)タオルを受け取るには受け取った久美でしたが、タオルを手にしたまま動く事が出来ません。

青年の目が気になって、どうにも身動きが出来ませんでした。

もじもじしている久美を見て青年は、「アッ、そうか、僕が近くに居てはいけないのだね。

気付かなくて御免。僕、こういう性質(たち)だから、いつも妹の英子に怒られるのです。じゃー、むこうの方へ行って番をしているから、安心して身体拭いて。

もし誰か人が通るようだったら、大声で知らせるわね。

さー、ゴロー、行くよ。おいで」と言うと、海岸の縁(へり)に建つ石垣近く迄離れて行ってくれました。

つづく



このお話はフィクションです。似たような,名前、事柄が出てきましても、偶然の一致で、実在の人物、実際の事件とは全く関係ありません。又、実在の地名が出てきましも、フィクションの中の一場面として利用しているだけで、実在の土地、人物、家名とは無関係です。


その13

久美達、親子3人が、その夏を過ごすことになった長浦の別荘は、新名古屋駅から、名鉄電車にゆられて、約30分、水族館のある新舞子駅より、一つ手前の駅を降りた所にありました。

松林の中に建つその駅は、降り立つと、前面に、視野一杯の、海が拡がり、爽やかな涼を含んだ潮風が、通り抜けていきます。

山と海に挟まれた、その土地は、一面松林で、その林の中に、瀟洒な別荘がポツリポツリと建っているだけでした。

戦時中であることもあってか、どの別荘も、殆ど、人のいる気配もなく、全体として、とてもうらびれておりました。

久美達親子3人が、借りる事になっている別荘は、駅から歩いて、僅か5分ほどの所にある、海に面した、3DKほどの純和風の、こ洒落た感じの家です。

海側に広く開いたガラス窓を開けて窓際の縁側に立つと、伊勢湾から太平洋に連なる大海原が、全面に拡がり、磯の香りが、鼻腔一杯に飛びこんでまいります。

細かい砂に覆われた庭には、所々に、雑草が地を這うように葉を広げ、その間から、月見草が首を伸ばし、人待ち顔に花の頭を揺らしておりました。

庭に降り立ち、芝戸を開け、家の前を走る、細い道を横切ると、海と陸とを隔てる1メートル50センチほどある,海の浸食を防ぐための石垣に達します。

そしてその下には真っ白な砂浜に連なる遠浅の海が広がり、満潮になると、透明で美しい海の水が、その砂浜を埋め尽くし、岸壁の石垣の高さ二分の一位に達するくらいまで、押し寄せます。

その14

夕方別荘に到着した3人は、そのまま縁側に置かれた籐椅子に座りこんで、ただ黙って海を眺めておりました。

電車に乗ってから後、3人の間には、この重い沈黙がずっと続いておりました。

ドロドロに溶けた鉄の塊のような夕日が、対岸の三重県側の山々に姿を消し、その後、しばらくの間、残照で真っ赤に染まっていた西の空も、次第にその光を失い、替わって辺り一面、漆黒の闇が支配するようになってまいりました。しかし三人は、電燈をつけることもなく、暗闇の中、身じろぎもせず、押し黙ったまま、じっと海を眺めておりました。

風は、すっかり止み、三人の回りを取り囲む重苦しい沈黙が、澱んだ(よどむ)暑さをより強く、感じさせます、

家を出る時は、あれほどはしゃいでいた久美も、沈んだ顔を海に向けたまま、黙って座っておりました。

働きを止めてしまった、心の中を、時間だけが過ぎ去っていく感じです

生れて始めて目にした夜光虫の幻想的な輪舞も、彼女の沈みきった心を、照らす事はできませんでした。

暗黒の海中に点滅する夜光虫の、その儚げな光は、彼女の心の沈鬱の度を、より深めただけでした。

両親が海外へ去っていった後の寂しさが、彼女の心を捉えて離しません。

彼女の心は、真っ暗な寂寥(せきりょう)の洞窟のなかに閉じこめられ、その中で、悶え、涙を流しておりました。

頭の片隅には、両親の辛さや、悲しみを理解している理性と、良い子にみせようと繕っている、体面の片割れがなお残っていて、怒る事も、声を出して泣く事も強く留めておりました。

久美は代わりに、何度も、何度も、もれ出そうになる嗚咽を、ショッパイ涙と一緒に飲み込みました。

その15

話は少し、遡りますが、一ヶ月後には再び外国に戻っていかなければならない事を、久美に話す機会は、両親が予定していた時より、早くやってきました。

ここ長浦へくる前、3人は、観音さまへのお参りと、買い物を兼ね、大須に立ち寄りました。

観音様への御参りを済ませた後3人が、茶店で一服していた時のことでした。

「私、この後、学校どうしたら良いと思う?お母ちゃんの行っていた学校はどうかしら。結構、入るの、難しいんだってね。

でも、転校試験の事なら、私、心配ないと思うわ。これでも、学校の成績は、良いほうだから」

「ただね、最近足腰が、弱ってきた、おばあちゃんの事を思うと、どうしたものかと悩んでいるの。

本当は伯父さんの所へ行ってもらうのが一番良いのだけど、伯母さんとの仲がねー。だから悪い気がして」と久美からその話をきりだしたのです。

しばらく顔を見合わせていた父と母はやがて、

「実はねー、久美ちゃん。お父ちゃんたち、あまり長く日本に居る訳に行かないのだよ。今度の休暇も、一カ月貰えただけだから」と父。

「一カ月、それじゃー、一緒に住めるの、この夏休みの間だけなの。

いやだ―。

もっと長くおられないの」驚いて、悲鳴に近い声で言い返す久美。

「お父ちゃんだって、お母ちゃんだって、できればもっと長くこちらに居てやりたいよ。でも、こういう時節でしょ、そう言う我儘を言っておられる場合じゃないのだよ、今はね。

おまえのお友達の中にだって、もう従軍看護婦になろうとしている子だっているでしょ。今度の戦争で、お父さんを兵役にとられてしまっている子なんかも、沢山いるでしょ。

私達大日本帝国、国民はね、この国の、今の難局を乗り切る為、自分の命を投げ打って、国の為、天皇陛下の御為に、尽さねばならないのだよ」

「だから、仕方がないの、お国の命令とあればね。お父ちゃんたちのように、天皇陛下の臣(おみ)である官吏は、特にね」

「それで、何時まで、こちらに居られるの、この日本に」

「今度、貰ってきた休みは1ヶ月。だからこの夏の終わりにはもう、日本にはおられない」

「発つ前、役所での仕事やら、あちこちへの挨拶回りやらがあるから、一週間前には、東京に戻らなければならないんだよ。

だから、私が久美ちゃんと一緒におられるのは、20日弱くらいかな。

お母ちゃん(久美の母)とも相談して決めたんだが、お祖母ちゃんだって、久美ちゃんやお母ちゃんと一緒に過ごす時間を持ちたいだろうから、長浦を切り上げた後、お母ちゃんは,お祖母ちゃんの家に少しの間、残しておくから、その間は、お祖母ちゃんと3人で過ごしなさい」

「久美ちゃんには、この後も、ずっと、寂しい思いをしてもらわなければならないのに、その上、こんな事頼まなければならないのは心苦しいけど、私達が留守の間、お祖母ちゃんの事、くれぐれも頼んだよ。口では、お強い事、おっしゃっているけれど、気力も身体の方も、随分、お弱りになっておられるようだからな。

お母ちゃんも、その事を、とても気にしているから、久美ちゃん、お母ちゃんに

代ってお婆ちゃんのお世話、くれぐれも頼むね」

「・・・・」久美は無言で、首を横に振り続けました。その口元はゆがみ、その目からは、大粒の涙が、こぼれ落ちて、止まりません。

その時以降、別荘の窓辺に座って海を眺めているこの時まで、久美の心の動きは、止ったままです。

目に入ってはきてはいるのですが、見てはいません。耳にはいっていても、聞いてもいません。何も考えていず、何も認識していない状態、例えて言えばそれは、古いフイルムが映し出す、色と形を失った、暗い画面に、漠然と目をやっているような状態の中にいました。

それからどれだけ時間が経った事でしょう。久美は懐かしい匂いを持った気配が、自分に、迫ってくるのを感じました。

やがて、その気配から、柔らかい腕が伸びてきて、久美を頭ごと優しく包み込むと、

「可哀そうにねー。身体こそ大きくなっているものの、この子、まだ子供だというのにね。

またまた、これから一人ぼっちにして、寂しい思いをさせなければならないなんて。ごめんねー。ほんとうにごめんなさいね。

悔しいけど、今のお母ちゃんには,久美ちゃん、貴女の為に、何もしてやる事が出来ないの。

だから、貴女とは、ほんの僅かな時間しか、一緒にいてやることはできないけど、せめて、お母ちゃんといる時くらいは、良い子でいなくて良いからね。

せいぜい我儘を一杯、言ってちょうだい。

声をだして泣いても良いし、怒っても良いのよ。

何かに当たり(あたり)たければ、お母ちゃんに当たりなさい。

何も堪えていること(こらえる)ないから、生地のお前を存分にだしなさいね。

今の、お母ちゃんに出来る事はといえば、それを受け止めてやる事くらいしかできないけどね」と耳元で囁きながら、抱えている一方の手で、優しく背中を摩って(さすって)くれました。

久美を抱きかかえながら流す、そのものの涙が、久美の襟元を濡らすにつれ、凝結し、動きを止めてしまっていた久美の心は解きほぐされていきました。

しばらくの間、久美の背中を摩って(さする)いた母親はやがて、

「久美ちゃん、お腹空いたんじゃない。今日は、お昼、早かったから。そろそろお食事にしましょうか?」

「せっかくお婆ちゃんが用意してくれたお弁当、皆で美味しくいただくことにしない?

支度をするから、久美ちゃんも手伝って。

貴方、貴方も食卓を並べてくださらない」と言いながら、立ちあがると、電灯をパチンと点し(ともす)ました。

その音と共に、部屋はきゅうに明るくなりました。

彼女の心の中にも光が差し込んでまいりました。

気付くと、自分の顔を覗き込んでいる、悲しそうな母の顔と、心配そうにこちらをみている父の顔がありました。

慌てて、目をそらした久美は、顔を伏せ、洗面所へと駆けこんでいきました。

次回へ続く