このお話はフィクションです。似たような,名前、事柄が出てきましても、偶然の一致で、実在の人物、実際の事件とは全く関係ありません。又、実在の地名が出てきましも、フィクションの中の一場面として利用しているだけで、実在の土地、人物、家名とは無関係です。
その31
日比野明子さんの話、続き
敗戦後8年、日本は著しい復興を成し遂げました。
全面、焼け野原だって町には、新しい家が立ち並び、復旧した商店街には品物が溢れるように積まれているようになってまいりました。
しかし、そんな日本経済の復興を横目に、久美ちゃんとお祖母ちゃんは相変わらずで、半分だけ焼け残った土蔵を改造したバラックの中で、お祖母ちゃんの和裁仕立の内職賃と、久美ちゃんのお勤め先から貰ってくる僅かな月給、そして手元に残された、僅かな農地からの収穫物を頼りに、押し寄せる物価高と戦いながら、細々と暮らしておられました。
所が、その当時、世の中は、彼女たちの知らない間に急速に動いておりました。
日本経済の復興と足並みを揃え、全ての土地が高騰しはじめたのでございます。
久美ちゃんのお祖母ちゃんが持っていた土地も、宅地は言うまでもなく、それまで、買い手がなく、あまり値段が付かなかった、雑木林の山林までもが、宅地として開発されるようになり、思わぬ高値で、借り手が現れたり、買い手がついたりするようになってまいりました。
それを知ってか、知らなくてか、市役所にお勤めだった、お祖母ちゃんの次男が、彼女達が住んでいた屋敷を半分に区切り、彼女たちの住んでいたバラックの隣に家を建て、お祖母ちゃんを引き取ると言ってきたのでございます。
ちょうどそんな時、仲人を通して持ち込まれた、久美ちゃんの縁談話の相手が、前のご主人でございました。
船場の大きな繊維問屋の次男坊で、外見的には大人しくて、優しそうで、且つ、ハンサムな彼に、お祖母ちゃんが、すっかり気に入ってしまわれたのでございます。
その為、あまり気乗りのしなかった久美ちゃんを説得して、強引に彼との結婚を進めてしまわれました。
お祖母ちゃんとしては、自分がいる為に、30の大台に、手が届くという年になっても、尚、行きそびれ、独り身でいる久美ちゃんの事が気懸りでならなかったのでございます。
だから、なんとか自分の目の黒い内に、良い所に嫁がせ、幸せにしてやりたいと焦っておられました。
そんな時、持ちあがってきたのが(自分の)次男との同居話と、久美ちゃんの縁談だったのでございます。
お祖母ちゃんは、渡りに船とばかり、あまり相手の身元を調べる事もなく、男の外見に騙され、仲人口を信じて、それに飛びついてしまわれたのでございました。
本音の所では、お祖母ちゃん自身は、息子(次男)との同居は、あまり望んでおられませんでした。
ただ、久美ちゃんの幸せを思い、彼女を結婚に踏み切らせるため、次男と同居を決心されたに過ぎません。
久美ちゃんにも、祖母ちゃんのその気持ちは伝わっておりました。
それだけに、久美ちゃんとしては、その結婚話を、すげなく断る事が、できなかったのでございます。
その32
しかし、その結婚は大失敗でした。
これによって彼女は、青木から後藤に姓が変わりましたが、それは、彼女にとっては、その時から始る、その後の、最悪の人生の序章となってしまったのでございます。
先ほども、申しましたように、彼女の前の夫というのは、とんでもない賭け事狂いでございました。
結婚早々から、家には全くお金を入れてくれませんでした。
彼は、給与として入ってくるお金の全てを、賭け事か、賭け事で負けたお金の清算に使ってしまい、一円も家にいれてくれなかったのでございます。
それどころか、給料として入ってくるお金だけでは足りず、親戚は言うまでもなく、知人、友人にいたるまで、借りられる所からは全て、借りまくっていたのでございます。
それだけで済めば、まだよかったのでしょうが、結婚して3年目くらいになりますと、集金してきたお勤め先の売掛金にまで手をつけるようになりました。
そして最後は、高利のお金に迄手を出し、結局、二進も三進も(にっちもさっちも)いかなくなって、久美ちゃんには一言もなく、行方をくらましてしまわれたのでございます。
逃げてしまって、家に帰ってこない夫に代わって久美ちゃんは、それらの処理の全てに対応せざるをえませんでした。
夫の勤め先からは、弁償してくれなければ刑事告訴すると脅されました。
借金取りには、朝は早くから、夜は遅くまで押しかけてこられ、お金を返せと、責められ、脅されつづけました。
中には、お金を返してくれそうにないのに業を煮やし、主人に替わって、彼女に、トルコ風呂で働く事を、強要する輩(やから)さえ、でてまいったのでございます。
久美ちゃんは、お祖母ちゃんに、苦労をかけまいとして、いろいろな事があっても、長い間、黙って、一人で耐えておりました。
しかしそこまで追いつめられますと、さすがに身の危険を感じるようになりました。
そこで止む無く、お祖母ちゃんに事情を話し、助けを求めたのでございます。
驚いたお祖母ちゃんは、早速、婿方の親と話し合って、「結婚する時、久美ちゃんがもって入った全ての財産を、その中には、お祖母ちゃんが新婚の久美ちゃん夫婦の為にと、建ててくれた家屋敷、そして、持たせてくれた持参金、久美ちゃんが、お勤めしていた時の給料の中から貯めてきたお金等が入っていましたが、それらの全てを、久美ちゃんの夫の借金の清算の為に差し出す事と引き替えに、夫とは別れさせて貰うことになりました。
そして、夫の借金については、万一、この後、久美ちゃん達に内緒の借金が、未清算のまま残されていたり、久美ちゃんが、知らない間に、彼の借金の保証人にされている物が、未清算のまま残っていたとしても、それらを含めて、今後は、それらの全てに、一切関わりを持たない」という取り決めをして、夫から別れさせてもらったのでございます。
結果、結婚の時、建ててもらった新居も、その屋敷も、結婚に際して持たせてもらった持参金も、若い時から、コツコツと貯めてきた彼女の貯金も、そのすべてを失ってしまいました。
しかし、これによって、やっとの事で、不幸だった、結婚生活から自由になり、彼に代わって受けていた借金地獄の責め苦からも、(久美は)解放される事が出来たのでございます。
所が彼については、離婚後もなお、あちらこちらに、新たに、借金を重ねているという噂が伝わってまいりました。
そのためお祖母ちゃんは、自分が死んだ後、財産を孫の久美ちゃんに相続させたのでは、人の良い久美ちゃんのこと、その財産を守りきれないのではないかと思われたのでございます。
そこでお祖母ちゃんが、お亡くなりになる前に「久美の相続分の全てを、ひ孫の菜穂に相続させる」という、遺言書を残されました。
その33
皮肉なことに、その肝心の菜穂さんによって、天命浄霊会へ、その土地を寄贈されてしまったのですから、久美ちゃんは、運がないといえば、運がなく、その土地との縁がなかったと言えば縁がなかったといいうわけです。
お嬢さんもご存じのように久美ちゃんって、優しくて、よく気がつき、スタイルが良い上に、目鼻立ちも整い、どちらかと言うと美人の部に属する方です。
その為、彼女の回りには、彼女に思いを寄せる男性が絶える事はありませんでした。
でも、気位が高い上に、前のご主人との結婚によって、男性に懲り懲りになってしまわれた彼女に、生きた人間を愛する心を、復活させてくれるような男性との出会いが、訪れる事はありませんでした。
結局久美ちゃんは、その後はずっと独り身を通されました。
それだけに、亡くなった淳志さんへの思い入れはますます強くなっていかれたようでございます。
淳志さんは、完全無欠の理想の男性として、彼女の心のど真ん中に居座り、また藤田画伯の絵の中にある、この少女は、二人の間の、掛け替えのない最愛の子供として、久美ちゃんの心の中で、生き続けていました。
今はもう彼女、この苦界の世から解放され、親子三人が手をつないで、天国のお庭を散歩されている事でしょう。
従って私、久美ちゃんに、お悔やみの言葉をかけるより「長い間、ご苦労さまだったわね」とか「やっと苦界から解放されて良かったね」と声をかけてあげたい気持ちで一杯でございます。
と言うことで、日比野さんの、長いお話は終わりました。
エピローグ
さてこのお話、後藤のおばちゃん側に立って考えれば、とても素晴らしい美談です。
しかし美術品を愛し、それを扱う事を生業(なりわい)としている者の立場から考えますと、後藤のおばちゃんには申し訳ない事ですが、全面的にそれを肯定して、感心できるかは、微妙です。
このお話に出てくる、フジタ画伯のこの絵画が、そのような長い、命を持った芸術作品であったかどうかは、議論の分かれる所でしょうが、
一般的に言いますと、優れた芸術作品というものは、本来、この世に生まれ出た瞬間から、人間の生命を幾世代も越えた、長い、長い寿命を持っております。
それを、その芸術作品の一時的な身の寄せ所に過ぎなかった、その時の所有者が、自分のエゴによって、途中で、その芸術作品の命を断ってしまう事が、果たして、許されることでしょうか。
もし仮に、芸術作品に命が宿っているとしたら、いくらその時、その持ち主に愛され、大切にされていたとしても、はたしてそれを望むでしょうか。
私には、そのような目にあわねばならない芸術作品の姿は、親のエゴによって、親子心中に巻き込まれ、命を断たれた、憐れな子供のように思えてなりません。
終わり