幸せの泉 悲しみの泡 二人は口を拭って
どれほどの時が経った時のことでしょうか。風に乗って運ばれてきた、伝衛門を呼ぶ、大勢の人の呼び声とざわめきに、二人は、突然、現実の世界へとに引き戻されました。
見回すと、遠く伝衛門の部落の方から、伝衛門を探す人々の声と、沢山の松明の明かりが近づいてくるのが見えます。
「こんな所を、皆に知られたら大変。もう二度と会えなくされてしまう違いない。送っていくから、逃げよう。走れるか。」と言うと、伝衛門は焚き火を消し、おみよの手を引いて、走り出しました。
道もはっきりわからないような真っ暗な沼地を、伝衛門は、まるで自分の家の庭のように迷いなく、ものすごいスピードで草を掻き分けながら駆け抜けていきます。
おみよもどちらかというと活発な女の子で走るのは苦手ではありませんでしたが、さすがに男の彼のスピードには付いていけません。引っ張られる手は痛み、息は切れます。しかし痛くて苦しいのですが、秘密を共有していると思うとそれが嬉しく、ただただ一生懸命に付いて走りました。
おみよの家の入り口近くまで来ると、伝衛門は、「じゃー、又三日後。昼下がりに、あの場所で。」とおみよの耳元に囁き、暗闇の中にさっと溶け込むように消えていきました。
しばらく伝衛門の消えたあたり見送っていた彼女は、やがて何事もなかったかのような顔をして、家の中に入っていきました。
しかし始めて握られた男の手の感触に、顔は上気し、胸はどきどきしておりました。思い出す度に、恥ずかしさで、顔が赤くなって来るのですが、心は踊りだしたいほどに弾み、身体は火がついたように火照ってまいります。
家ではおよし婆さんが、あまりおみよの帰りが遅いので、心配して待っておりました。しかし幸いなことに、眼病を患っていて目が不自由な、およし婆さんは、おみよの微妙な変化に気付きませんでした。
もともとあまり付き合いのなかった近所の人たちですから、あの口うるさい女房連中に気付かれることもありませんでした。
夫の死んだ後に受けた、世間の冷たい仕打ちから、およしは、近所の連中を恨んでいました。従って今回も、誰にも知らせなかったからです。
しかし、あまりにも遅いおみよの帰りに、一人でヤキモキしながら帰りを待っていましたから、それだけに、およし婆さんの怒りは強く、その夜の小言はきつく、長くなりました。
一方、伝衛門の方は、少し遠回りして、自分を探してくれている人々の方に辿り着くと、何食わぬ顔をしてみんなの前に顔を出しました。
「ご迷惑をお掛けしました。実は魚とりに夢中になっているうちに、暗くなり、路に迷ってしまったようです。どうも同じ場所をぐるぐる廻っていたようです。皆さんの松明のおかげで、やっと方向がわかり、帰ってくることが出来ましたが、ほんとうに危ないところでございました。ありがとうございます。」とお礼を言ってから、更に続けました。
「それにしても、あんな所で迷うとは。前から時々行っていた場所だったのに。狐にでも化かされたのでしょうか。」
「そういえば今日、あの土地で恐ろしい光景に出会いましたよ。あの柳が、突堤の所に茂っているあの湿地、あそこの大川から少し中へ入った所にある大きな沼、あの沼、一見すると、それほど深いようには見えませんが、実際には底なし見たいです。間違って足を踏み入れたら最後、チョットやソットでは出られないようですよ。
現に今日、あそこを通った時、偶然、あの沼で小鹿が溺れているのを見たのですが、その小鹿、もがけばもがくほどに、ずるずると、沼の泥のなかへと引き込まれていってしまって、どうしてやりようもありませんでした。
可哀そうに思って、助けてやろうと思ったのだが、あっという間にしずんでいってしまって、助けてやりようがなかったのです。あの沼には、あまり近寄らない方がいいかもしれませんよ。何か得体の知れない不気味なものを感じますから。」と独り言のように言いながら、部落の人達が、この後、あの沼地に近寄らないように牽制しておきました。
捜索に加わった村の衆は、伝衛門の思惑など知るよしもありませんから、伝衛門の父親が出してくれた振舞い酒に、したたかに酔って、「良かった、良かった。坊ちゃんが無事で何より。それにしても、あの怖いもの知らずの源太坊ちゃんでさえ、気味悪がるような所なら、あまり近寄らない方がいいだろうなー。お互い、気をつけることにしよう。くわばら、くわばら」と口々に言いながら、千鳥足で帰っていきました。
以下次号に続く
次回投稿は8月16日を予定しております