本日は、広島に原爆が落とされてから73年目の日、地元新潟市でも追悼式典が行われました。

原爆で亡くなった多くの皆さまに哀悼の意を表します。原爆の悲惨さを強く認識し、世界の非核化に向けて皆で決意を新たにする一日となりました。

 

実は、新潟が第四の原爆投下予定地であったこと、皆さんご存知でしょうか?

 

戦争終結のポツダム宣言の直前まで、実際に新潟は広島、小倉、長崎と並んで米軍の原爆攻撃の対象地でした。

ただ、最終局面で新潟は、工業地と居住地が離れている市街地のため外されたといわれています。

 

9日に長崎に原爆が投下された翌日、次は新潟かという危機感を持った当時の新潟県知事である畠田昌福(はたけだしょうふく)知事が緊急会議を開き、避難措置を決定、「徹底的人員疎開」を命じました。11日午後には市民の避難行動が開始されました。

 

当時も新潟市は重要港湾都市であり、工業・商業の中心都市でした。当然、米軍の行動を正確に把握することが難しい中で、畠田知事は決断したのです。また、市民も郊外への避難行動を町内会単位で忠実に実行したとのことです。

 

私も、祖父・祖母からこの話をよく聞いていました。この避難行動から二つの教訓が得られます。

 

一つは、リーダーとしての畠田知事の決断力の高さです。日本の軍部との調整も不十分な中での覚悟の決断であったと言われています。6日の広島、9日の長崎の原爆投下の情報など、様々な情報を入手しながらの急遽の徹底的な避難措置命令は結果的に投下されなくとも、適切な判断だったと思います。

 

もう一つは、急な避難措置にも関わらず、着実に避難を行った市民と町内会組織の団結力の大きさです。当時は、自動車も少なくリヤカーなどでの避難行動だったそうです。助け合い、まとまって行動しなければ迅速な避難行動は取れなかったでしょう。

 

決断力あるリーダーと、団結力ある市民。両者が相まって、いざという時の適切な行動に繋がる。大きな教訓を偉大な郷土の先人たちは示しました。

こうしたことも考える一日となりました。

 

あらためて、広島、長崎で原爆によって亡くなった多くの方々に哀悼の意を表し、家族を失った方々、未だに原爆症で苦しむ皆さまの痛みにも思いをはせながら、恒久平和と非核化に向けた行動を、国会議員の一員として市民の皆さまと共に前に進めて参りたいと思います。

 

衆議院議員 石崎徹