初めて骨寺村に訪れた時、
最初に厳美渓を観光してから向かう流れでした。

骨寺へ向かう道から大通に出るつもりが、
橋が工事中だったので、渡れず。

そのまま裏道をずっと進むルートでした。
すると、正面に鳥居がみえてきました。

スル―しようと思ったんだけど、主人がせっかくだから
お参りしようと言うので、何の神社かいってみると、

 



「駒形根神社」

駒形に「根」がつく。
栗駒山の麓は大体、「根」がつきます。

ネのクニ。
「本拠」の意味があるそうです。

 

 



詳細は、以前こちらに書いてましたので、割愛します。

 

 

 

駒形神については、

『日本書紀』より、

「崇神天皇の4代目、彦狭嶋王が景行天皇の
命令で東山道十五ヶ国の都督に任じられる。

ところが、東国下向の途中で病死。
毛野国に葬られその子、御諸別(みもろわけ)が、
国造となり上毛野君となる。

この祖神は駒形神、赤城山の側にある駒ケ岳があるので、
陸奥に入り、会津郡に駒形神を鎮座したという。」

 

 

 

 

 

 

・・・百済人は中央アジアの騎馬民族の
イメージがよく浮かぶのですね。

 

というか、もうマロでしょっ。指差し

骨寺村にきてます。

達谷窟に近いからね。(後に円仁が追って)

 

※茨城県の駒形神社

 

エミシ征伐といったら坂上田村麻呂で、駒形を祀ることになっている。

 

だんだんエミシが、毛野氏の言うことを聞かなくなったので、

マロが毛野氏を都に戻し、代わりに物部姓の人をエミシにつかせたと。

エミシの言葉を理解していたから、という。


武蔵もそうですから、朝廷とは中央アジアの軍馬を
ひっさげて東北へやってきた感じはします。

その馬を神格化してきた朝廷の軍馬と、
エミシ馬は、違うようだ。

北東北の豊かな自然と古くから稲作を行っており、
「農業馬」としてのエミシ馬(どさんこ馬や甲斐馬に近い)
よく働くまるっこい馬は、大和朝廷など西の地域では人気があったという。

稲作を奨励し年貢を治めてもらうには、
仏教の教えを学ばなければならない上に、
馬との付き合い方も必須。

エミシとの契約とは、馬にあったと思うのです。

当時、エミシ馬が素晴らしいので征伐として派遣された豪族たちは、
エミシ馬との交易をしたいがために、仕事をほっぽらかしていたとか。

なので、仕事しろよ、といったお触れの記録があったとか。

「馬牧」とか「牧」という言葉は馬に関係し、
秩父でも馬を飼いならしていました。(天皇家に献上するための)

石巻に伝わる魔鬼女と坂上田村麻呂の伝説からも、
「マキメ」というのは、「マギ=牧」説があり、
エミシの地だからこそ、牧=馬という地名から由来するのも
征伐したマロ伝説が残る由縁。

そこは「津」ですから馬の交易も活発だったのです。

馬+鉄=エミシですから
「駒形」として祀られている、という事がふさわしいと。

ちなみに、高麗の由来もありますが、
どっちも同じ意味ではないかな。

 

 

 

 

■もうひとつの駒形根神社-----------------

 

骨寺村という小さな村に2社(実はもう1社あり)
駒形根神社があるのは、よっぽどですね。

 

 

 



それは、栗駒山が「駒」だからなのですが、
秋田側は須川岳。
山名は東北は、県によって違います。

太平洋側は「駒」なのだと思います。

 

不思議な絵・・・

 

※行山鹿子踊供養

 

 

 

 

茨城県の駒形神社で、織物の妄想してました。

 

※茨城県に多い駒形神社(グーグルマップ)


車輪と織物。
友人に教えてもらったのがなかなか深い。

織物は毛皮製品もあるため、戦車と一緒に遊牧している人たちが、
 絨毯なども作っていたと。

もしくは、織物の知識をもっていた人が戦車文化と融合していく過程で、
 ウールの織物を作っていたかもしれない。

アジア全体にある文化の基盤に「戦車」と「織物」があるという。
戦車は、西ギリシャ、東は中国まで広範囲。


織物文化もそれと対をなすように広がっており、
 戦車=鉄器、織物、綿や蚕などと結びつけられた。

それを「織姫(織女)と彦星(牽牛)」と伝えようとしたのではないか? 
と言ったこと。

古くは、BC2500年頃の「シュメール」のウル第三王朝に、
 四輪の戦車が描かれているという。

 

※およそ2000年前、ローマ時代の貴重な床モザイク画。(ナショジオより)

牛車と馬車は運搬用と乗り物用にわけられていた。
速度や重量によって牛車か馬車か使いわけていたそうです。

 



生駒も車輪なんですよね。

 

※土田生駒氏の家紋(波引車(なみひきぐるま)


ケルト文明にも「割れた車輪」が彫刻されていますので、 

車輪は、かなり古いモチーフです。

 



二ギハヤヒは、火の回転のイメージが強く、
これも回転する車輪のような。

いずれにしても、アラハバキや、ハパルキなる言葉は、
中央アジアの鉄民を想像。(ヒッタイト)
当然、エミシもそうであり、朝廷もそうであると思うけどな・・・

互いに日本列島で分断したのは、和解ができなかったと。

それがなんだかわからないけど、

伝わらなかった。

 



今もそうですけど、
地域で何かを束ねることは、まず無理ですよね・・・。ニヤニヤ

丸く収まることなんてありません。

マロは、アテルイとモレのように束ねることができる
サパネクを喜んだと思うが。

 

 

立派な石碑

 

 

 

 

平泉もそうですが、今は、ほぼ何も残されておらず。

 

 

ただ、小さな像が、田んぼに向いて微笑んでいた。

 

 

後世に残すべき、原風景。

 

 

月夜の静かな光の中で、

大武丸ミッションは、おしまい。

 

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↓の過去記事に「御崎明神」の石碑がありました。

これは、栗原寺のことで源義経の伝説があるところ。

 

 

鹿舞のこともあり、御崎明神は、唐桑半島にある神社ですが、

骨寺村の駒形根神社にも御崎明神の石碑があったんです。

 

もしかしたら、源義経のことなのかな・・・

唐桑阿部氏からの、大森館。

 

ところで、先週の3連休に姉が仙台に遊びにきてました。
「平泉に一度も行ったことがない」というので、
平泉に行ってきたのです。車

今年は、平泉へ行くつもりはなかったのに、
もう2回目だぞ・・・


姉妹で平泉探訪でしたが、合わせて過去記事を。
猫

 

<参考に>

栗駒麓にある「五十瀬」のこと。

 

 

これも3社巡ったな~~。

すご~~くエミシ色が強い所でした。