サンカの前に気になっていたのが、
二宮尊徳(藁を背にのせて本を読む像)
で有名な二宮金次郎のことでした。

小学校の校庭には必ずあったけれど、
今はほとんど撤去されて、ないですね。

大人はいろいろ言うと思うのですが、
正直、子どもってあんまり気にしてないんです・・・よ。

けれど、大人になった時に、

「ふっと風が吹く時がある」UFO

AIでは風は吹かない。

風がわかるAIロボットくれ。

豊に生きるためには「知恵」にある

と二宮尊徳は訴える。

そんだから、スマホバカになるなよ、と。

 

(子どもたちに本を与えてください)

で、ここまでの経緯を説明しますと・・・

私は「本」とすごく縁があり、

本という活字は、ケルトのように文字そのもので「生きもの」です。
「これを読め」と。
すると、知りたい答えがみつかることがとても多いです。

ある時、なぜか、その柳田国男の『山人集成』を
読んでみたくなったのです。

本を買っても隅々まで読むことはないので、
小説でない限り、歴史本というのは、参考程度ですから。

そこで、「サンカ」項目で相馬のデンバを知りました。
どこのサンカだろうと「石神」とマップを調べたら、

「二宮尊徳・富田高慶の墓」とでてきた。

ん?

なんでだろう~
なんでだろう~宇宙人くん

なんで二宮尊徳が相馬に?

最初にいっておきますが、
二宮尊徳は、相馬には来ていません。
子が来てます。
それに出身は、神奈川県です。

今回、繋がった理由は、紙幣だったことがわかる。。。
今日は、新紙幣が誕生しますね。キョロキョロ

(とうとうキャッシュレスの時代になりましたな・・・)

そこにきた二宮尊徳。たぶんね。

 



一度、紙幣(一円)になっていたが、発行後、停止されていました。

日本銀行の停止になった一円券の紙幣が、なかなか。
真面目に日本銀行は、紙幣になりやすいタイプの人を
説明しています。

 

 

あるサイトに、こんな話が。

二宮尊徳が紙幣に選ばれたのは、
1946年にアメリカの占領下にあった日本の民主主義の
普及啓発に利用するために採用されたという。

二宮尊徳が民主主義の先駆者として
GHQが評価していたからだそうです。

GHQのジャーナリスト
「ダニエル・キャリントン・インボデン」というのが。


wikipediaより

1949年には、日本青年館発行の雑誌『青年』に
「二宮尊徳を語る-新生日本は尊徳の再認識を必要とする」
と題して寄稿し、二宮尊徳を

「近世日本の生んだ最大の民主主義者」などと評した。

 

 

 相馬藩と二宮家との繋がり

 

まあ、そんなことがあり、
サンカというよりは、
二宮尊徳が、とても気になってしまいました。

 

しかも、今日というタイミングで書くというのは、

なかなか、です。

あんまり二宮尊徳の思想はよくわかりませんので、
ここでは、相馬とのご縁の歴史を記録します。

 

※二宮尊徳図

山人論に登場する二宮徳というのは、
二宮尊徳の子か孫か、と思うのですが・・・。

それで思いだした。
相馬中村城跡。

 



天之御中主神を祀る相馬中村神社。
(今回はたちよらず)

 


気になっていたので、最初に、相馬中村の城跡へ。

 



ここの森がすごくいい。
とても気持ちよい空間。

ここ何があったんだろう。

 

 



この神秘な森の向かいに、
二宮尊徳の像があります。

 



ここに二宮尊徳の像があるのは、
十一代藩主相馬益胤が飢饉に悩まされていた時に
二宮尊徳が提唱した農法を取り入れたことにあります。


その結果、復興させることができたので積極的に
取り入れることになったそうです。

でも、うまくいかない村もあったと言われます。

当時の二宮尊徳の思想は、
斬新というか常識はずれなこともあったらしく、
なかなか受け入れられなかったという話もあります。

 

 

 

看板より一部抜粋----------------

「天明・天保の大凶作で貧困に陥っていたところ、
相馬中村藩の人々に、生きる光と力を与えてくれたのが
二宮尊徳でした。

 


※尊徳座像(出身は小田原)


「文化の厳法」といわれている藩政刷新
の道を文化年間から開いてくれた。

単なるの農村の改良などという程度のものではない。
ひろい世界観と人生観から生まれた徳を以て徳に報いる
「報徳」というおおらかな指導理論によるもの。」


報徳思想とは、
「至誠(しせい)」を基本とし、「勤労(きんろう)」
「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」を行うという考え方です。

やはり、禅ですか?
地名が「秦」ですが「波多」の方。
(関東は波多の名が多い→藤原家についた秦氏)

参考に、
相模国蓑毛村(現:秦野市蓑毛)出身の安居院庄七
という人が二宮尊徳の教えを受け継いでいました。

 

 

二宮尊徳は「独学で」神道・仏教・儒教などを学び、
農業の実践を編みだしたと言われます。

二宮尊徳の報徳について、

道心にそったこころの状態を報徳教では「誠」とよぶ。

この誠は、儒教で言うところの「徳」や「仁」という
概念に等しいものであるという。(wikipedia説)

これは、報徳思想の啓蒙活動をしていた「岡田良平」の言葉。

で、その徳と仁を持ち合わせている人といえば・・・

名前が

徳仁(なるひと)。

天皇陛下です・・・

報徳社は、

現在、内閣総理大臣認定の公益社団法人にある
報徳社があります。

 


※静岡県掛川市


しかし、
この報徳が利用されて「誠」で戦ったのが、
薩長同盟に放浪された若者たち(新撰組)であったことを
付け加えておく。真顔

 

 

 戊辰戦争で逃れた二宮家族

 

さて、場所は、サンカがいた石神へ。

 

「石神公園」が気になりチェックすると、

お墓があることを知り、駐車場は、生涯学習センターを利用してよい、

とあったので行ってみると・・・・

 

駐車場敷地内に、

二宮尊徳の家族の看板がありました。

 

 

戊辰戦争の頃、二宮尊徳の子ら、尊行は日光にいたそうです。
時、1853年、二宮尊徳(金次郎)日光へ赴任。


日光の今市には二宮神社があります。
(梅家紋なんですよ)

戊辰戦争が始まるとその手は、日光まで及んだため、
尊徳の思想の存族と、膨大な資料を守るために、
相馬へ向かったとされます。


二宮尊徳の子(尊行)と孫の孫親、の家族らを呼んだのは、
相馬藩士の富田高慶(とみたこうけい)。

 



1839年に二宮尊徳に入門し、
報徳仕法を実施し、指導した方でした。

 

 

 

 



相馬には、尊徳の弟子とも言える復興に尽力した
富田高慶がいたことが、相馬と二宮尊徳とを繋いでいたのです。

現在、石神村役場として一部を利用し、
当時の家は老朽化して取り壊されています。

 



北海道から寄贈された像もありました。

 



明治30年、孫の二宮尊親は、賛同者をつのり
現在の北海道豊頃町に移り、開拓に取り組む一方、
尊徳の教えを北海道に広めた。

震災で原発事故により被災した先祖の故郷が
力強く復興することを願い、本像を南相馬に寄贈することを
申し出られたということ。

 



この像は、北海道にあったんですね!

 

二宮家族のお墓は、道を出て左にすすむと、看板があります。

 

 

 

 

ただ、二宮尊徳のお墓は、ここではなかったはず。

前に尊徳のお墓か何かに出会った気がしたが・・・

 

富田高慶は、尊徳の教えを広めることに尽力し、

77歳で亡くなりここに葬られたとあります。

 

※伝:尊徳の墓

 

 

サンカはいねが~~(なまはげ風につぶやいてみる・・・)

 

 

右下:生涯学習センター。

 

参考に。

 

 

 

 

 冠嶺神社の復興

 

そんな二宮尊徳と家族の繋がりが相馬にあったことは、
よほど、関心をもっていることでない限り、
繋がることはないのです。

ただ、相馬には二宮尊徳の話があるのは知っていたので、
出身がこっちなのか、と思っていました。

ひとつ、気になる神社があり、
これも以前から書いていた所ですが、

冠嶺神社(さかみねじんじゃ)のことです。

ここに二宮尊徳の話がのっていたのを思いだしました。

2つあり、信田沢の方。

こんな話があります。(wikipediaより)

 



冠嶺神社は、1781年~住民が減り、

当地の農夫が御神体を民家の小祠へと遷座。
これを隠し長年本山派修験の大学院が祀ったそうです。


その後、佐藤氏という他の村から来た者が

冠嶺神社を祀っていた農家に住み始め、
佐藤氏が小祠を修理し祀っていたと。

1815年、相馬益胤は、行方郡内の式内社八社を調査し、
家臣に命じたところ、


多珂神社、鹿島御子神社、御力神神社、
押雄神社、高座神社、日祭神社は特定したが、

冠嶺神社、益多嶺神社は不明で特定できず。

1819年、「村に冠嶺の神を祀る小祠がある」と聞いた郡官は、
再度調査しようとしたが、


村人が不審に思い冠嶺神社の鎮座を否定した為、

調査できず。

1855年に、二宮尊徳の農業復興策により、
冠嶺神社の復興が命じられ、
名工の匠人上杉主殿頭が社殿の造営を行った。


原町区の他、鹿島区と鹿島区北海老に鎮座する鶏足(けいそく)神社も
冠嶺神社であると称していたが、原町区の冠嶺神社のみが往古から
「冠嶺神社」と称し御神体も千年以上の歴史があるものとされ、
 当社が冠嶺神社の本社であるとされた。」

 



ということで、復興を命じたのが
二宮尊徳の農業思想がきっかけになっている話が。

 

こちらの冠嶺神社は、

 

スクナヒコ命です。

農業と薬師のスクナヒコというと、

神農が浮かぶ。


この冠嶺神社にきた時、最初は、間違ってきてしまいました。
真名にある方の冠嶺だと思ったら、
行った先が信田沢の方で、神社へいく入り口は、
まるで遠野のマヨイガのようでした。

うっそうとした森に、空間があり
大きな石碑が2つ並んでいました。

そこには大きな「太田」の文字。
2つ並んでいたのですが、ここの地主であることがわかる。

本来の神社の入り口は、長い階段を登るのですが、
その場所がわからず、地主さんの入り口から入ってしまったことが
とても不思議な体験でした。

 



相当、サカミネ考察してました。

トサカの「サカ」から、とったと思われる。
それは、ニワタリ権現。

また、天の岩戸開きは、阿波忌部のフトダマ。

 

 

 

天岩戸の中心になって書かれたのは、

天太玉命のフトダマ。

これが、アマノコヤネで中臣氏の方。

 

しかし、本来は、日鷲の忌部氏の方だという説がある。

後に、中臣氏に改めさせ、「斎部」と名を変え、

祭祀を行うことにしたという。

 

忌部氏は、弦を奏でると鷲が止まった、

という伝説に基づくが、この鷲が金鶏(トビ)であるとの説も。

 

実は、もうひとつ、

天道根命という紀国造もありました。

これが、前回のヒタカミとヤマトで書いた

名草の日前宮の鏡と矛の2つのこと。

 

あ、思いだしたけれど、「足」の「タリ」とつく

豪族の名前もいますね。

 

もしかしたら、このニワトリという鳥は、

金鶏のトベのことを指すのかもしれないですが・・・

 

そこまでに至るまでの繋がりがないので、

ミッション終了。

 

 

■追記--------------------------

 

みつかった!

 

 

二宮尊徳のお墓とは、「散髪」を葬ったという愛宕山。

数年前にいってました。

 

 

 

相馬の人々が、二宮尊徳の遺髪を乞い受け、

石碑をたて愛宕山山頂に供養したとあります。

 

 

 

冠嶺神社の建築、復興した名工が

愛宕山地蔵堂にもありました!

 

 

 

 

 

 

そこまで、二宮尊徳と相馬藩が交流していたことが、

すごいですね。

 

おしまい。