濃ゆいね~~。
もしかして、繋がっているのかなぁ。

2015年11月に「サンカ」をテーマにしたブログを
書いたことがあります。

このブログをはじめて14年近くたちますが、

最も多く読まれた記事が、サンカでした。

多治比氏と山窩(サンカ)のタイトルでしたが、
gooブログの時ですので今はないです。
(後でその内容を書いておきます)

 

 

「どうよ、サンカって。

実は、すごい民なんじゃない?」

と言っているみたいな。ウインク

日々、サンカ記事がいつも読まれていたので、
よっぽどサンカに関心が集まっているのだな~~、
と思ったものです。

興味をもつのは、

サンカはなぜ

 

「集団・社会に属さない」
生き方を選んだのか?


そこに一番の関心をもつのだと思います。

真面目に民俗学として、語りたいサンカですが、
今では、都市伝説のネタにされてる感がありますけど・・・

しかし、サンカの定義は、まちまち。

サンカというより、「ナデシ」といわなければ、
サンカにはわからないそうだ。


ナデシは、漢字にすると、「撫師」と書き、
これが本当のサンカの自称だと言う。

詳細は不明なんですが、撫でる神様がいますね。
テナヅチ、アシナヅチ。

だから、貝塚がある相馬地方~新地町。

山窩(サンカ)は、山人だが、
マタギでも木地師でもない独特の民。

なぜなら「サンカ文字」という特有の文字をもっており、
神代文字らしき言葉を使っていた為
天皇家の歴史にも非常に詳しかったサンカもいたという。

なぜ、サンカに興味をもったかと言えば、

「秩父にサンカはいた」こと。
(横瀬川と荒川の分岐に。と聞いたことがある)

 

※昔の武甲山と横瀬川


それは、地元の人からもいろいろ聞いており、
そこには諏訪神が鎮座しています。

道祖神を置きそうな、塞神のあたり(川の分岐)
にサンカがいたことを聞くと、
三角氏が記録したサンカは、県堺にサンカは潜む
ことと似ています。(犯人だったから潜んでいたのではないよ)

また、サエ(岐神)とサンカの関連も指摘されています。

『風の王国』の著者、五木寛之氏が
サンカをテーマにした小説を書いてます。
興味をもたれたら、まずこの小説を読んでみると面白いですよ。

ちょっとサスペンス入ってますけど、
そのサンカ主人公の生まれが奥秩父に設定されていました。

しかし、ここで思うことは・・・

奥秩父の大血川あたりは、字のごとく、丹党の関連があると思い、
辰砂の赤と血。(微量だが金がとれたとも言われる)
それから、平家、ということです。

平家とサンカがどこか似ているようで、
接点があったと思います。

秩父~吾野、飯能の深い峠は、
東北地方にはない雰囲気をもっています。

そんなサンカがテントをはって暮らしていた所に(三角氏の話から)
焼畑の地名が多いところでもあるので、
神話でいえば「国津神」の方。

 

※「サンカの民と被差別の世界」より

 

 

 

飯能の豆口峠にあるこれが、サンカのテントを彷彿させるんだよな~~

 



なぜなら、サンカにとって「川は故郷だった」
と言われる由縁でもあるのです。(川漁をしていた説)

 

サンカは竹細工など工芸に長けていたそうです。

例として、

 


秩父郡横瀬町(川の道具)ブッテの川は小学校の近くにあったよ~。
ブッテは、グッテ、ジョレン、シダレという、
出水時に岸辺の草むらに集まる魚を鋤簾型の竹製ですくい取る方法のこと。

「秩父民俗考古」より
 

福岡県の脊振山地(せぶりさんち)の語源由来のひとつに、
「サンカ」 の宿営地の言葉「セブリ」と言うのですが、
神話に出てくる「ソホリ」が似ているという。

そのソホリは、都のことで「ソウル」なんだそうです。

しかし、サンカは移住生活だった為、

戸籍がなかった人たちといわれ、

実態が、よくわかっていません。


そんなサンカが、東北にもあった!凝視

柳田国男の『山人論集成』に載っていました。
(山人考)

 

 

 相馬石神のテンバ

 

柳田国男『山人論集成』の「サンカ」より。

「東北地方にても磐城相馬郡の石神村などに
毎年来往する数家族あり。


二宮徳君の談にこの村の外山には
山腹には十数の土窟があり。
村民この穴より煙の出ずるを見て今年も来て居ることを発見す。

この地方にてはこれをテンバという。
ササラまた箒などをも作りて売れど
主としては農家の箕を直すをもって活計とす。


村民とは年久しき馴染みとなり居り
テンバの女房は家々を廻り注文をきき
箕を持ちてその土窟へ帰り行く由なり。

右の箕直しの職業は関東いずれの地方にても
特殊部落に属するものにて、
サンカ問題については極めて重要な観察点となりとす。

 

サンカのことを、テンバとも言います。

 

舞台は、

南相馬市原町区石神と思われます。

 

※石神の地名は、おおよそのマップ。

 

右上のまるの囲みは、二宮金次郎家族の墓なので、

サンカとは関係ないです。

 

サンカの岩窟がなんだかわかりませんので、

参考程度としておいて下さい。

 

山人論を読んでいると、普通に、山の暮らしをしており、
竹細工をしていた人の話であり、

ほとんど山民の暮らしと変らない。

しかし、盗人が出たりするので、

警察沙汰になることもあったようです。

サンカ研究をしていた三角 寛氏は、記者でしたが、
刑事を追っている人の情報から、サンカに興味をもち、
サンカの本を出していますが、その内容について
サンカが犯人扱いされており、また、創作も含まれていると専門家からの指摘。


最終的には、誤解を与えたと謝罪するまでになりましたが、それでも、その内容は、とても興味深いものです。

 

 

 

 サンカがいた石神の地

 

ところで、石神がサンカと関係するのかは、
わかりませんが、シャグジの由来がある石神です。

柳田国男の説によれば、

「石棒石剣のごときはことに霊物なり」

仮に和合神の信仰に混ずることなくとも
神として久しく幽界に君臨すべきものなりき故に、
シャグジは、石神の呉音(音読み:渡来の和音)
に非ずるとするもこれを石神と称して些も誤謬なし」


ミシャグジで思い出すのは「サングージ」という地名。
秩父にある地名ですが、漢字では「三宮司」。
祭祀を行う所につけられており、諏訪信仰がルーツ。

その石神のそばにあるのが、
何度も繋がってくる「イシコリドメ」を祀る高座神社。

 



石神と高座。

なんかあると思うんですよね~。

しかも、原町区といえば、前に何度も行っていた所で、
とても気になっていた神社「冠嶺神社(かみね)」がある所。

また、鶏足(けいそく)神社というのがあり、
冠嶺神社であると称していたという。

冠嶺の冠とは、頭にかぶることを指す。

鶏の頭(とさか)=冠とし、
鶏の足(けいそく)を足とすることから、

頭と同じ意味をもつ「手」。

それは、頭(手)「はじまり」
足は、「終わり」


この意味と同じ神といえば、
手長・足長明神では!?

そして、トベのハイヌベレは、頭と胴体と足を3つに分ける伝承。

やはり、巨人説と貝塚の
ダイダラボッチと重なるのです!

その石神のすぐ隣にある地名「牛越」には、手長神社がある!
(でも、お稲荷さん)

 

 

 



この冠が、鶏のとさかのことでは?
な、話にもあったりして、やっぱり「ニワタリ権現」

王様の冠みたいだ。

 

こちらは、きつねさんの赤い頭巾。

 

 

ここのお稲荷さんは、ユニークです。

 

 

神社の詳細は、わかりませんが・・・

 



とにかく、相馬地方は、歴史がいろいろと深すぎて、
行く度に新しい発見があります。

 

 

 手長・足長明神とは

 

新地町の鹿狼山に祀られているのも、
貝塚のダイダラボッチ伝説がある手長足長明神です。

宮城県一帯に貝塚があるため、ぼっちさん伝説は非常に多い。

テナヅチ・アシナヅチとも言われ、
シナとは、中国の「港の神」の意味があるんだそうです。

その足名椎という漢字をもつのが、
中国浙江省(せっこうしょう)出身の神から由来する説がありました。

トメやトネ、トベというのは、
手長・足長や土蜘蛛説では?といった話がありますが、

興味深いのは、こんな中国から。


『三才図会(1607年)』という書物に

赤水の東にあり
その国人長臂(ちょうひじん)国と近く
長臂人を負ひて
海に入って魚を捕ふ


長臂とは、手が長い人で「東の海にいる」。


隣の長股人は、その長臂を背中に背負って
海に潜るという。


日本でいう手長・足長のことですが、

背負って海に潜るってなんだろう・・・

その手長・足長は、長野県に手長・足長明神として
祀られているのが本山とされ、
群馬県までおりてきて、栃木との「戦場ヶ原」の戦いで、
破られたムカデのことでもあります。

ムカデは、土蜘蛛と同じ意味をもち、

秩父の和銅に祀られます。


土雲とあてれられることもあり、
蜘蛛は、手足が長いことからつけられたと考えられます。

(ムカデは、五行説の「土」と炭鉱の民の意味がある)

その土蜘蛛や手長明神たちは、利根川沿いに住んでいたため、
トネは、その母系社会から由来する説と思われます。

そこには「八束脛(やつかはぎ)」と呼ばれ、
群馬県に彼らを祀る神社があり「長脛明神」とされています。
しかも地名が「閉」なのです。

岩手県の閉伊郡と同じでは・・・?びっくり 

→高身長の地域。


しかも、洞窟だった!!

 

 

 

「月夜野石尊山」という。

月見してたん?

 

ここが、ナガスネヒコと繋がりそう。

群馬も秩父も養蚕で有名で、諏訪信仰が多い。

 

で、
ヤツカハギたちは、秩父へは荒川を経由して入り、
和銅黒谷の銅を発見した炭鉱の民でした。
「八束小脛」と言い、秩父では「小」がつく。

 

秩父和銅黒谷の伝説

 

※不思議な羽をもつ家来の助けで、

空飛ぶ鳥より速く黒谷の和銅を奈良まで

毎日送り続けた男の話。

彼らは「13」の数字と由縁が数多く秩父にのこされ、
「羽をもち足がとても速い」伝説を残しています。

 

※即道さんという人も、足が早い伝説をもつ。

即道神社には、(黒い)お薬師様。

その速さは、

まるで、サンカのようで。。。

ヤツカハギは、茨城県で土蜘蛛として語られ、
ナガスネヒコと共にいた先住民(まつろわぬ民)であると。

 

ですので、手長・足長明神とは、

土蜘蛛なり八束脛らと、同族の可能性あり。

 

神武天皇が葛城の土蜘蛛を誅し給う条に、
「土蜘蛛の人と為りや身短く手足長く、侏儒と相類す」とある。

 

※侏儒とは、手足が短い意味。

 

土蜘蛛が、「集団や組織ではなく個人名として登場する」
ことからサンカとも似ている。

 

サンカがいたとされる石神から、

手長神社があり、貝塚などから探れば、

 

八束脛という人々の痕跡もみえてくるものです。

 

そのルーツが、はるか昔のナガスネヒコに至れば、興味深い。

ということなので、サンカは、
私たちとは身近なようであって、
そうでもなく、距離を置かれていたわけですから、
実態は、謎が多いです。

せっかくなので、二宮尊徳(金次郎)家族が相馬にきており、
サンカの舞台である南相馬の石神にお墓がありましたので、
その話を次にしておきます。


つづく