丸森からちょっと秋保へ。

秋保に「坪沼」の地名があり、
坪沼八幡神社があります。

 



この坪は、丸森と同じく阿部氏がいた所で
根添舘(ねぞえたて)があります。

 

源頼義は、前九年の役で、
坪沼にあった安倍一族の居館を地蔵原で激戦のすえ攻め落とした
という。

ここにも「愛宕山」があるのです。

 

(右上の山)

エミシを封印するために八幡神を置いたとも聞かれ、
鉄くずも出てくる所です。

 

※偶然並んだ三つ星(雨が降っていたので雨粒のオーブです)

この坪沼が、ツボケ族と関わりがあるのでは?
と、専門家が地名調査に来た所なんだそうです。

ツボケ?

津軽外三郡誌にある「ツボケとアソベ」のこと。

津軽外三郡誌、うひゃ~。
あれ偽書でしょ~、
と言う人いますけど、





ジミヘンになって聞いてみたい。(なんで?)

あんねん。

 

 

 



丸森にある「ツボケ山」

火打石遺跡が気になる・・・

で、丸森の細目氏のいた所「大楯(おおだて)」は、
名取にも大舘山(おおだてやま)というのがあります。

 

明治時代の全容図に、「安倍館」と書いてあるのです。


樽水ダムの伝説では、源義家が、大舘山を攻めてくると、
安部氏たちは、樽に米を入れ水に見せかけて、どんどん流したが、
鳥がきてつついて見破られてしまった
。という伝説。→豊かだったこと

 

※坪沼方面

 

この大舘山から赤石の坪沼へ行けたらしいです。

 

白鳥家ね。

書いてます。(ただ、今は登れません)

 



その秋保の赤石というところに、丹生(乳)の話があるのですが、
以前かいてました~。

 

 

兵庫県(丹波)から由来する伝説です。

赤石観音があるように「赤」は、辰砂の赤で、
多くは、赤色は鉄をさすと思います。

そこに「白」をもってきてますね。

場所の特定は不明ですが、丹生のニュウを乳と呼ばせたようなこと。

伝説の内容は、以前のブログを参考にして頂き、
詳細は割愛しますが、

秋保では「乳考ヶ墓(ちごうがはか)」とあり、
丹生山系(兵庫県神戸市)には「稚児ヶ墓山(ちごがばかさん)
として伝わっている話なので、そっくり。

稚児ヶ墓山の西に位置する丹生山頂には丹生神社があるため、
丹生が乳に転じたことです。


これが、丸森の坪石が乳石とよばれた、

ことと繋がっています。

 

 

 ヒタカミの伊具郡

 

さて、話は角田へ。

(2015年11月の過去記事より)

けっこう前になりますが、角田にある斗蔵山へ何度も行ってました。
とても興味深い歴史本があり、
斗が北斗七星の「斗」ではないか?の説があるのです。

 



阿部氏に関わる話です。

『角田歴史読本』の著者、高橋富雄先生から参考にまとめておきます。
かなり面白い考察になっています。

角田・丸森あたりまで伊具郡と呼ばれていました。
「伊具王族」という言葉があり、それが阿部氏である、という事でした。

伊具郡は、伊具盆地を南西から北東へ向かって流れる「阿武隈川」
で、東西に二分されていました。

 



古来より、西岸(隈西)を西根、
東岸(隈東)を東根

と呼んでいました。

 

 


古くは『先代旧事本紀』に伊久国造(いくのくにのみやつこ)とあり、
この伊久が伊具であり、東根にあたる。
そこに名取郡の郡山遺跡があったので、

東根に郡山遺跡があったことに。

 

 

広大な範囲をもっていた伊具郡。

阿武隈川の西と東では異なる文化があるようです。

多賀城柵は、阿部氏らがいた所をさけていたかもしれない。

 



また、長泉寺古墳群、横倉古墳群、山中古墳群(伊具随一の規模)
台町古墳群、大群古墳などなど古墳群が集中しています。

台町古墳群は、男女の埴輪や花文鏡などが出土し、
直刀も見つかっています。

隈西(阿武隈川を挟んで西)は6世紀頃、
隈東は6~7世紀。

各々二大王族(東と西)が分裂したが、隈東王族に併合した為、
多くの古墳が作られたと考えられているのです。

その王族が阿部氏で併合した力のあった王族と考えられるとの事。

他にも毛野氏、大伴氏などがいたのですが、
後の繁栄に結びつけたのは阿部氏といわれています。

大化の改新にはすでに伊具は成立しており、
郡山遺跡(仙台市長町)隈東にあり、
最終的に隈東に落ち着いていった
と考えられます。

伊具は、最後の阿武隈川の国。

伊具には昔、「伊具郡といって奈良時代すでにあった麻は、
麻積郷(おみのごう)の麻で、ムラがありました。

史書にはあまり伊具郡がないのですが、当時は石城国(山側)にも、
石背国(川側)でも、どちらにも属していた為、曖昧になってしまったと。

前回も書いてましたが、道嶋氏(千葉県)が、無名の人に
阿部姓を与えていたこと。

『続日本書紀』に、丈部(はせつかべ)が登場し、
伊具郡擬大毅陸奥真成らに阿部陸奥臣の姓を賜わる。

と書かれていますが、擬大毅陸奥真成という人がよくわかりません。

いずれにしても、丈部は阿部氏服属の部民だったという事です。

名取郡には、エミシ征伐の際に送り込まれた上毛野名取朝臣がいました。
この方は、吉弥侯部から姓を賜っているのです。(たぶん雷神山古墳)



吉弥侯部(はせつかべ)=丈部(はせつかべ)→軍事的な部民。
部民(べたみ)の意味は、大和王権に使う、従属する人のことです。

そのため、この吉弥侯部は「俘囚」として記録されているわけです。


その中でも差別があったと言われ、
アザマロ(伊治)は道嶋氏などに対しうらみがあったとも。

大和朝廷は、朝鮮半島の情勢から朝廷とともに戦った人たちを
部民にし、朝廷の仕事を行わせ、朝廷側についたまつろわぬ民の集団をつくります。

関東~東北地方へ軍を送り込んだ人の中に、
阿部氏や毛野氏(上毛野・下毛野)、大伴氏らがいたわけで、

後に、百済政権に仕えるようになるのです。

物部氏は、もっと古くからいたと思うので、
迎える形になっていたのかもしれません。

さて、その伊具郡には、麻をもたらした人がいました。
これが、秦氏ではなく忌部氏の方なのか・・・

 

 

ここに麻をもたらした麻積郷は、小手姫がいるように、
大伴氏の存在が大きいです。

出羽三山の蜂子皇子のことで書いてましたが、
皇子の母が大伴氏であるのは、丸子(わに)の系譜だからですよね。

また、瀬戸内海を経由して太平洋へきている海民は、
安曇氏がいました。

※志賀(滋賀)の地名が岩沼に点在している。

すでに大伴氏や安曇氏の海人は伊具郡にいたと思われ、
多賀城の瓦は伊具から納入しており、

麻を栽培し紡いで衣服にし、
伊具郡は中心的な生産地でした。


市内の麻山(おやま)の名残があり、
ひとり麻や芋(からむし)の生産だけではなく、
すべての面で郡の中心をなしていたそうです。

 

伊具郡は、静戸郷麻績郷杵葉郷、餘戸郷、廣伴郷の5つ。

静戸郷(しずりべ)、麻積郷(おうみ)は、

古代織物の職業集団で、
丸森から移住してきたムラでした。


その中の麻の織物を担当した地域が丸森でした。


高蔵寺を建てた人は、岩城氏級の地元豪族で、
信夫佐藤氏、名取郡司、熊野別当など
皆、平泉の有力な郎党であったそうです。

→このような人たちのバックに、阿部氏や物部氏がいたと想像。

※角田歴史読本より参照

 

 

ちなみに、伊具郡の語源由来は、アイヌ語説があり、

阿武隈川を堺にしているためアイヌ語の「イクスン」から、と。


「川向」「向こう側にある」「向こう岸にある」などを意味する。

 

 

 

九州筑紫の防人が、千葉県(現:印旛)へ連れてこられたこと。

ここは、印波(イニハ)だったことは、

庭のことで書いてました。

 

九州~千葉県の印旛といったら「忌部」でしょう。

インバの「ん」は、古来は発音してなかったのですが・・・。

 

九州の防人が千葉県(印旛=印波)にいて、

「イニハ」だったこと。

そのニハのハは、波ですが、庭にも当て字としていた事。

 

それが「壺」の隠された意味であると。

 

土に「平」の漢字にあてているのは、

聖域を整備して土を平にしたことからで、

その、整備とは土を盛って古墳を作ってきた、

という方の整備だとしたら?(もーそー)

 

壺=前方後円墳。

 

と、いっても東北には、ほとんど前方後円墳はありませんので、

山中に埋れているケースが多いですが、

なぜ、前方後円墳を壺と表したのか?

 

大阪難波(なには)だった海は、

淀川が流れており、「西と東にわけている」ものでした。

そうして堤防を築いた人が「仁徳天皇」と伝わるからです。

 

その堤防のことを「コワクビ」とよび、

川の神=河伯と呼んでいたという。

 

難波と同じことを阿武隈川でやったという事になるのでは?

阿武隈は、川の神なので、安福河伯神社と言っていた。

 

 

 

その頃、ヤマト王権が積極的に開拓を始めた時期。

 

と、いったことも出羽三山の蜂子皇子(140年ぶりご開帳)

で書いてました。

 

その時、安倍氏は登場してなかったけど、

繋がってきました。

 

といったことで、九州~千葉の間にヤマトが入ると、

堤防を築いた川が重要になってくる。

港(津)をつくるため。

それができる技術者をたくさん難波から派遣されていた。

 

千葉県は、日本最古の霞ケ浦があったよね!

 

もう少し深堀します。たぶん。