思ったより秋保は雪が少なかったです。
風が冷たくて、参拝終わったら風がびゅーびゅー。



■坪沼八幡神宮

今より凡そ千年の昔、陸奥の豪族阿部頼時が乱を起こした前九年の役で、
征夷大将軍に任ぜられた源頼義は、
京都男山八幡宮(石清水八幡宮)に戦勝を祈願し、
阿部一族の支城・根添館があったこの坪沼にやってきました。

激戦の末、乱を平定し、天喜四年、源義家が城跡の前方、
丘の上に京都男山八幡宮の御神像を祀ったのが、
坪沼八幡神社
だと言われます。

約千年の歴史を持ち、仙台の中で八幡様を祀る最も古い社です。

 

 

 


南赤石と坪沼には、

落城した安倍氏の館跡(根添館)があった。

源頼義は、前九年の役で、
坪沼にあった安倍一族の居館を地蔵原で激戦のすえ攻め落としたという。

根添館跡の南の高地には、
源頼義が勧請して祀ったといわれる坪沼八幡神社がある。

しかし、源氏の軍政はどこを通って攻略したか、
道筋がわからない。

相馬文書によると、1367年大崎氏より
相馬讃岐守に勲功の賞として与えられた所領だった。
今も宿場、などの屋敷跡の面影がある。

(太白区の街道と史跡より)

 

(2016年6月)

確か、コンビニの斜め向かい丘の方と思います。

愛宕山の木々が伐採され、
ハゲ山になっていた・・・

 

before

 

after

 

 

別宮、不動尊ともに、電気をつけて拝観することができます。

 

 

駐車場ができたのかな?

広くなっています。

 

 

前は、こんな感じで草ボーボーでした。

 

■お篠峠の丹生伝説

さて、
この付近に、兵庫県(丹波)から由来する伝説があります。

赤石観音があるように「赤」は、辰砂の赤で、
多くは、赤色は鉄をさします。

場所の特定は不明ですが、丹生のニュウを乳と呼ばせたようなこと。


「昔、赤石(秋保)にお繁という気立ての優しい嫁御がおった。

ある日のこと、お篠は用事が出来て隣村の碁石に行くことになった。

赤ん坊をおんぶして上り下り八町も
ある峠道をこえて行かなければならなかった。

やっと峠を上りつめた所の木の下にみすぼらしい衣をまとった坊さんが倒れていた。
痩せこけて苦しそうな様子だった。

「お坊さんどうしたのっしゃ」と声をかけたら、
かぼそい声で「水を恵んで下さらんか!水をー」
と言ったので、お篠は抱き起して
竹筒の水を飲ませてやった。

「どなたか存じませぬが、かたじけない。有難い事じゃ」
と言ってまた力なく横になってしまった。

お篠はお坊さんを何とか助けたいと思ったのか、
後を向いて自分の乳をしぼり
少しづづ竹筒にため始めた。

「お坊さん、私の乳だげんど飲んでけさいん。なんぼか元気出っぺがらー」
坊さんはコックンコッククンと目を細めながらうまそうに飲んだ。

お篠は次の日も、また次の日も乳をしぼって峠道を通って飲ませてやった。
けれども、坊さんは段々痩せていくばかりだった。

そうしたある日、坊さんはお篠の顔をじっとみながら、低い声で
「そなたは拙僧にとって御仏の使者じゃ。これをお礼に差し上げたい」

と懐から金包を取り出し無理やりお篠に渡して息を引き取った。

お篠は泣きながら村に戻り、
村人に相談してみんなで坊さんの墓を建てて供養してやった。

その後、村人たちはそのお墓のことを乳考ヶ墓(ちこう)とよび、
この峠をお篠峠というようになった。」

(太白区の伝説)


秋保では「乳考ヶ墓」とありますが、
丹生山系(兵庫県神戸市)には「稚児ヶ墓山(ちごがばかさん)
として伝わっている話があります。

※稚児ヶ墓山

神戸市北区山田町岩谷の丹生山系と呼ばれる山塊に
属する標高585.9mの山。この山系の最高峰
である。

稚児ヶ墓山の西に位置する丹生山頂には丹生神社があり、
この丹生神社は甞て同じく丹生山頂に位置していた明要寺と一体を為していた。

豊臣秀吉別所長治に対する攻撃の際
別所側についた明要寺は容赦なく焼き払われた。

この攻撃においては多くの幼子も犠牲となり、周辺の人々はこれ哀れみ、
「稚児ヶ墓」と呼ばれる墓をこの山の頂上すぐ下に作って弔った。
山名はこの「稚児ヶ墓」に由来する」


残酷な戦国時代。


明要寺にある丹生神社は、


丹生神社の祭神である丹生都比売(にうつひめ)を祀り
北九州の伊都(いと)を発祥とし、
水銀鉱業を生業とする丹生(にう)氏族の氏神である。



えーー、伊都だったの!?

『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つ。

 

なるほど。

だから、伊都母=イズモ?となり、

伊をぬくと「都母(ツモ)」となる。

坪の石文、青森の千曳神社の都母。

 

母を国に置き換えると、伊都国

=糸

 

という話を、昨日Mさんとしていたばかりだ!

 

伊達の「い」

秋保氏の「あ」

で、秋保にもどり、
僧侶の伝説は、
丹生山系から逃れて来た僧侶や子孫などでは?

秋保では、村人たちが、
そのような戦場から命からがら逃れてき
た武士を供養したように感じます。

丹生山系関係なくなってきますけど、
坪沼あたりでもいまだに鉄くずがとれるそうです。

 



赤玉、白玉があったよ~。


秋保氏と月霊

月の名をもつ武将の話。

戦国時代の末期、秋保氏は「伊達政宗に反抗した」
黒川月舟斎と長江月鑑斎を預けられた。

黒川月舟は境野城に、長江月鑑は豊後楯城に預かった。

そして、伊達氏から秋保氏に対して「月鑑斎を切腹さすべし」
という命令がもたらされた。

長江月鑑斎は老齢ながら歴戦の勇将として知られた人物であった。

豊後楯城の摂津守定重・長門頼重父子は一計を案じて、
ついに月鑑斎を討ち取った。

長江月鑑斎を討ち取ったことで、秋保の武名は大いにあがり、
家格も一家のうちの右上席となった。

しかし、事件から十二年後に秋保氏は所替を命じられ、
刈田郡円田村北境に移動し、秋保の馬場村は伊達家の蔵入地となった。

ところが、円田へ移った秋保氏には不思議と災が続くようになった。
そのため「月りん様」を祀ったらその災の根が切れたという。


いまでも毎年七月十九日には「月りん祭」を行っているといわれる。
「月りん」とは「月霊」と書き、
「月鑑斎の霊」であることはいうまでもない。



月鑑斎とは、長江 勝景(ながえ かつかげ)の別名。
葛西清重の三男清員を養子とする。

キレると手におえない伊達政宗。

 

あー!

あの白山神社がそうだったのか!

 

伊達家臣 秋保頼重(あきうよりしげ)によって再建された、

由緒ある神社です。

 

 

https://www.dokitan.com/course/enda/01/index.html

 

 

秋保氏は平清盛の長男で小松内大臣重盛の子孫といわれる平家出身。


つまり、丹生=秋保氏。

であろう。

 

<おまけ>

2016年にいった時のこと。

 


 


なぜかフラッシュになって撮れてしまった写真なのですが、
フラッシュにすると雨粒は光ってしまうのですがね。

不思議と3つに並んでとれたオーブなんですね~。

 

 

 

■弘法大師の神水池

 

今回は、雪があったのでいきませんでしたが、

いまも池はあるのでしょうか?

上から見えなかった。

確か、この泉からどこかに地下水が繋がっている
伝説があって、弘法大師がどーのこーの・・・

 

 

御霊水とよばれる清水が湧く底なし池があったと伝わる。


弘法大師が杖をつくと泉が湧き、池となった伝説は各地にありますが、
この泉が海に通じるとあり、杵を投じると

松島五大堂の橋の下に浮かびあがると。


または洗濯していたら衣が沈んで無くなったと思ったら、

数日後、海に浮かんでいたなどと伝えられる。


かつて祠があったが、その下の小石を変味した味噌に入れると、

味がよくなるといって小石を頂戴していく人もあったという。
 

 

 

ニライカナイの世界。

 

 


村田方面。

 


秋保探訪は、おしまい。