けっこう前の写真です。
10年以上前になるかな。
前回の石巻の猿麻呂の話からの~~
戦場ヶ原~
の、戦いで、男体山についた弓が上手な
猿麻呂が石巻(旭山)からよばれて応戦し勝利したという話。
これは、大噴火を起した土のムカデと
水の大蛇→沼地、大地ができたと五行説が入っているような
大地の再生物語です。
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「戦場ヶ原は男体山の西、
標高約1390mから1400mの平坦地に広がる高層湿原である。
広さは約400ha、もとは男体山の火山活動によって作られた湖であったが、
その後、土砂や水生植物の遺骸などが堆積して陸地化した。
本州で最大級の湿原の一つで、
平成17(2005)年には、湯ノ湖、湯川、小田代ヶ原などとともに
「奥日光の湿原」としてラムサール条約登録湿地となった。」
戦場ヶ原には、次のような話が伝わる。
その昔、男体山の神と赤城山の神が、
中禅寺湖の領有をめぐり争った。
男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足(おおむかで)に
姿を変えて戦ったが、やがて大蛇は劣勢に立たされた。
そこで、男体山の神が、鹿嶋の神に相談すると
「あなたの孫の小野猿丸(猿丸太夫)という弓の名手に頼んでみたらどうか」という。
決戦の日、加勢に訪れた猿丸が大百足めがけて矢を射ると、
大百足の左目に命中し、大百足は退散した。
その後、戦いのあった場所は戦場ヶ原、
傷ついた大百足の流した血が落ちたところが赤沼、
勝負が決まった場所は菖蒲が浜、
猿丸が勝利に喜び歌い踊った場所は歌ケ浜と呼ばれるようになった。
『赤沼』の地名の由来として、戦場ヶ原の伝説に、
二荒神に加勢した小野猿丸が放った矢が赤城神大ムカデの
眉間を貫き真っ赤な血を流しながら退散した際に水が赤色に染まったことに由来する。
「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」
という和歌があり、「猿丸」という名の人。
猿麻呂がどんな人物かは、諸説がありすぎて不明。
しかし、日光の栃木にこのような伝説が伝わる背景に、
皇位の継承まで企てて失脚した物部氏系の「弓削の道鏡」がそうではないか、と。
※道鏡の墓(塚)が栃木県にある。
もしくは、マタギとなって陸奥と下野国を行き来していた人。
猿丸の本拠は、現在の福島県の熱借山(阿津賀志山)や、秋田の小野など、なぜか東北が挙げられる。
あつがし山は、奥州合戦で源氏と奥州藤原氏がぶつかった所。
平将門の乱で、秋田物部氏は平家討伐側にたち、関東まで遠征にいっていた。
この坊主みたことないな~。
ラムサール条約の湿地
キルケーが出てきそうな森。
透明感がすごい。
蝶が指にとまったことを今でもよく覚えています。
ガチっと手にしがみつく蝶の足の感触が、
案外強くて。
なかなか離れなくて。
それから、主人と仙台へ住むことになり、
毎年平泉詣をし、毎度、奥州藤原氏の歴史を考察しながら、
巫女の役目も引き受けつつ、東北の風土を歩ける喜び。
エミシと共に。
そんなブログであることに感謝です。
次も、神秘の日光へ。