翔んで埼玉。
あ、話は飛んで埼玉。
もっとディープな話になります。
山岡鉄舟のことを調べていたら、
埼玉県小川町の情報をみつけました。
前回の話と続いてますので、
話が見えてない方のために、おさらい。
松島の瑞巌寺の裏にある「葉山神社」が気になっていたので
行ってみると、知られざる明治天皇に尽くした人達の歴史がありました。
瑞巌寺宝物殿へいくと、
「中原 鄧州(なかはら とうしゅう」(通称:南天棒)の
企画展をやっているので見るはめに。
そこに「山岡鉄舟」の葉山神社の額の書があり、
中原 鄧州の影響を受けていた人でした。
鉄舟の書は、医師の人に頼まれて書いたとあります。
葉山神社へ行くと、その医師が「千葉愛石」であり、
明治天皇の主事医でした。
また、鉄舟の最期を看取った人という深い関係にあったのです。
その神社は、千葉妙見の守護神だったのです。
という濃厚な人たちと繋がった話のつづき。
きっと、鉄舟が繋いでくれたことと思います。(感謝)
舞台は、埼玉県。
山岡鉄舟と小川町のこと
秩父の隣、飯能に戊辰戦争の歴史があったとは、
知りませんでした。
会津だけではなかった。
江戸のために飯能が燃えていたのです。。。
こんな歴史があったのね~くらいでまとめておきます。
※舞台は★マーク。
まず、小川町の山岡鉄舟の会より参照。
「山岡鉄舟は幕臣でありながら尊皇攘夷に動きました。
その後徳川慶喜の命で、薩摩藩士益満休之助を伴い駿府の西郷隆盛を訪ね、
決死の談判の結果、江戸城明け渡しの会談を成立させ、
江戸城無血開城の道を拓き、江戸を戦火から救いました。
まさに、今日の日本をつくりあげた立役者の一人ともいえます。」
※wikipedia 結城素明画『江戸開城談判』
比企郡小川町。
比企=「ひき」=「ひおき」=日置部から転じた。
太陽信仰があるところ。
日置のルーツは、鹿児島県・・・
小川町は行ったことはないのですが、
アイヌ語のおっぺが転じて生越(おごせ)になった近く。
知人がそのおっぺに住んでいるので昨年遊びにいった所だった。
なぜ、小川町なのかは、山岡鉄舟の父の名は「小野」姓です。
「小川町には小野家の知行地があり、140石位でした。
総高約900石で、紹介には600石とありますが、
埼玉県県史編纂の知行調べを見ますと900石になっています。
鉄舟は嫡男ではありませんので、当然小野家を相続しておりません。
それで知行調べには名前は出て参りません。
小野家の知行は埼玉県小川町をはじめ寄居町・茨城県鹿島市に渡っていました。」
※小川山岡鉄舟会より
https://tessyuu.com/info-1.htm
飯能戦争とは、直接の関係はないのですが、
この争いに鉄舟がおさめた、ともあります。
江戸城無血
江戸城無血とは、江戸城の新政府への引き渡しの事。
「徳川宗家の本拠である江戸城が同家の抵抗なく」
無血裏に明け渡されたことから、そのように言われます。
これは、江戸を守るために徳川慶喜がその地を血で汚したくないと?
つまり、「負けるために」その選択をした、という事でしょう。
徳川慶喜が退いた後で、ひと悶着が。
江戸に残る派→天野八郎と、
江戸を去る派→渋沢成一郎→飯能戦争へ発展。
という二人の頭・副頭(天野氏)らの内部分裂があったとも言われます。
元は、徳川慶喜の警護目的に結成された「彰義隊(しょぎたい)」
を、渋沢成一郎が頭となって組織するのですが、新政府軍に負ける。
これが「上野戦争」。
※なぜか本能寺合戦にしてる。。。
その後、上野戦争で負けた人たちを集め、
再び渋沢成一郎が組織「振武軍(しんぶぐん)」を作るのです。
これが、飯能戦争で、新政府軍と幕府側「振武軍」と戦い、
新政府軍に負け、飯能の町が焼けたということ。
上野から飯能へ。
そして、北上を続け、会津~北海道へ。
名前の由来がわからないのですが、上野戦争で離脱した者たちが
「田無」で集まって決めたそうです。
また、振武軍は、徳川家の名誉挽回の目的で結成されたそうです。
飯能戦争とは
飯能市のサイトより
「渋沢成一郎や尾高惇忠、そして渋沢平九郎といった栄一の縁者が
中心となって結成した振武軍などが、新政府方と戦いました。
飯能は、埼玉県内唯一の戊辰戦争の戦場となったのです。
旧幕府軍と新政府軍との間で行われた戦い。
振武軍ら旧幕府軍が田無から箱根ヶ崎を経て飯能の町へやってきたのは、
慶応4年5月18日のことでした。
彼らは、能仁寺など飯能市内の6つの寺に駐屯しました。」
※能仁寺
「慶応四年 (1868年) に官軍の一方的な攻撃により
敗走、多くの民家や、本陣であった能仁寺も焼失し、
本堂は昭和十一年に再建された。」
12年くらい前に登った天覧山と多峯主山の写真が少しありました。
「とうのすやま」
※天覧山の羅漢像・・・昔は愛宕山とよばれていました。
徳川綱吉の生母桂昌院が羅漢様の石像を寄進してから羅漢山と呼ばれ、
明治天皇が来てから天覧山とよばれます。→天がご覧になった山。
御嶽八幡神社と景色
雨乞池
・・・だから、そういうことなんですよ。
書かないと終わらない歴史とは、
この戦争は、ちょうど、今頃に起こった事だったからです。
松島の葉山神社の話を書いたのは、
飯能入りした日の18日でしたから。
ちょうどその日に、山岡鉄舟のことを調べていて飯能戦争を知ったからです。
して、進撃を始めたのは、5月23日。
戦いはわずか半日で終わったそうです。
あっけなく。
新政府方が勝利しました。
飯能市街(日和田山から)
勝った側の情報(MBC南日本放送)「褒美に豚」
豚・・・
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なぜ、舞台を飯能にうつしたのか、わかりません。
ただ、成一郎は、渋沢栄一とは親戚か従兄弟にあたるので、
深谷~飯能のパイプはあったのだと思います。
(中世の畠山重忠)
負けた後、渋沢成一郎は、栄一に勧められ大蔵省に入る。
別説では、山岡鉄舟と飯能戦争のことは、創作した物語とされていますが、
鉄舟は、飯能が江戸のために盾になっていたことは、
当然、痛感の思いでいたはずです。
この飯能戦争で亡くなった幕府側の人達の中に、
渋沢栄一と縁のある方(養子になった渋沢平九郎)
などもおり、渋沢一族が散っているのですよ。
新一万円札になりますから、このことについて、
今、知るべき歴史であることを、伝えているのではないですか?
渋沢平九郎について
飯能戦争の舞台になった所は、天覧山あたりです。
天覧山(標高195m)と多峯主山(とうのす)
(271m)の散策コースはゆっくり歩いても2時間半くらい。
ここは、日和田山だったと思う。。。(もっと吾野より)
当然、この時は知りませんでしたが、いろいろ伝説が多い所でもあり、
飯能は修験の山がとても多いので、よくこのあたり歩いてました。
飯能戦争で散った渋沢平九郎について、幕末の豪農出身の武士。
旗本時代の渋沢栄一の見立養子。
※渋沢栄一とは義理の父。
幕臣の子として彰義隊・振武軍に参加して
飯能戦争を戦ったが、敗北し自害した。
19歳になると剣術を人に教えるまでに上達した人。
新撰組は、皆、剣術をやっていたのでしょうか。
兄・惇忠の『渋沢平九郎昌忠伝』には、
平九郎は温厚で沈勇果毅な性格で、
所作は美しく色白で背が高く腕力もあると記されている。
自害について、こんな話があります。
「~戦いの後、成一郎や惇忠とはぐれた平九郎は、
飯能と越生の境にある顔振峠にたどり着いた。
峠の茶屋の女主人は、すぐに平九郎が旧幕府軍の隊士であると見抜き、
新政府軍の目の届かない秩父へ抜ける道を勧めた。
平九郎は百姓に化けるため大刀を預けたが、
何か考えがあってのことなのか越生方面へ下りていった。」
平九郎は黒山村の方へ向かうと、新政府軍に遭遇し、応戦するが、
その場で自害したと伝わります。
黒山の村人たちは、平九郎の壮絶な最期を讃えて
「脱走の勇士様」(だっそさま)と呼んでいるそうです。
東よりは、子の権現などがあり吾野方面~秩父との修験の道をつなぐ。
豆口峠
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そんなことで、知られざる飯能の戊辰戦争。
こっから妄想入りますが、平九郎が行こうとしていた
黒山の方とは、有名な「黒山三滝」がある所です。
※wikipedia
昔、役小角が修行したともいわれ、室町時代からの
山岳宗教の場です。
「吉野派修験」の地。
ですから、南朝。
明治天皇は南朝。
石巻に南朝の皇子が眠るとな・・・
東松島にもきていた。(明治天皇と大正天皇)
なんだか、南北朝の天皇家はどっちが正統なのか?
というのがあり、これらが戊辰戦争にも繋がっているようですが。
南朝正統派だと訴えてきた水戸藩が絡んでおり、
水戸光圀の時から。
「尊王攘夷(そんのうじょうい)」とは、
外に敵をつくり正統化する思想があり、
水戸藩がそうで、反対派を暗殺してます(例;桜田門外の変)
その影で散った若き武士たちも大勢いたわけです。
この峠へも歩いてきたのかもしれない・・・
飯能から秩父へ向かう吾野の峠は、東北にはない世界です。
「竹寺」は牛頭天王、
「子の権現」は天台宗のお寺で、龍神伝説がある。
牛のトーテム
子の権現と竹寺(元三大師ですから川越藩)
皆、多くの新撰組は、剣術を学んでいることであり、
鉄舟が北辰一刀流を学んでいたことも、気になる。
修験を開いた地で、自害することを
もしかしたら、望んでいたのかもしれない、
そんな風に思いました。
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その舞台になった所は「高麗郡」なので、
古くは、渡来人の住処になっているところでした。
高麗川
チャンスン(高麗駅)
天武・持統天皇の頃、三国征伐の時に、
帰化人(元倭人or日本に住んでいた人)
数千人を高麗へ住まわせ、衣食住を与えていました。
この麓に高麗神社があり、平九郎が逃れたという黒山は、
もっと秩父よりの吾野の山奥です。
そして、
戊辰戦争と菅原道真は、なぜかシンクロする気がします。
丹党加治氏は、多治比真人の本拠地。
所沢には、物部天神社と天満宮(小手指)があります。
境内には多治比文子(道真公の乳母)の御堂もありました。
多治比氏が、サンカ説。
所沢~飯能、秩父は、サンカがいた所でもあります。
サンカもこの峰を歩いたのだろうか・・・
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最後に、勝海舟ばかりが名をはせていて、
山岡鉄舟があまり知られていないのは、
勝海舟に手柄をたてるようにしたことがあったからと。
西郷隆盛と交渉したのは、勝海舟ではなく山岡鉄舟でした。
このことを、鉄舟はあえて報告しなかったそうです。
しかし、岩倉具視が、手柄は勝海舟に譲ればよいが、
「事実は残さなければならない」と
記録を提出するよう鉄舟に命じたという話がありました。
ということなので、多くは山岡鉄舟のおかげで
江戸が無血になったのです。
※宿老庵貫斎翁筆塚(勝海舟筆)
碑文「筆塚」は勝海舟、
碑の扁額「宿老庵貫斎翁」は七卿落ちの一人として
有名な東久世通禧の筆である。(岩倉具視使節団)
宿老庵貫斎翁は、ここで塾を開いて学問を教えてきた。
(水天宮)
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誰も引き受けたくないものを引き受け、
誰も背負いたくないことを背負い続け、
その失った命は「反逆者」と言われつづけ、
まつろわぬ民として、記憶されていく。
もう、引き受けることは、ないのです。
やまあいをぬう
まつろわぬたみのおもかげ
会津へ。
新たな6月を迎えられそうです。
おしまい。