前回の瑞巌寺からの続きです。

 

 


気になっていた葉山神社
何が気になるのかは、実際に行かないとわからないですね。

この葉山に対して、感が鋭い理由、秩父人だから。

もう、秩父の性!笑い泣き

秩父平家代表で東北行脚しているようなものだ。
だから、千葉家の妙見信仰と濃厚に繋がるのですね。

納得・・・

車ですと、湯の原の温泉から少し先へ進み、
右折し山道をすすむと、入口に石碑があります。

そこから林道になりますが、神社のそばまでいけるので、
道は問題ないです。
駐車スペースもあり。

 



明るい森で、涼しく、気持ちよい森です。


ホウノキの葉が新緑で美しい~。

 

 

 

 

葉山神社のこと

 

本尊は、瑠璃光薬師如来。

 



松島の総地主で、神威あらたかで創建年代は不明。
昔から有名で、瑠璃光は薬師のことで女人禁制。

現在のご祭神は、コノハナサクヤヒメ。


その前に祀られていたのは、
沖津彦、沖津姫(竈の神)

 

※神社庁サイトより護符の図。

 

台所の神様とされる火伏の神。

竈の神様は、塩釜周辺に祀られることが多いです。

 

カマ神様(宮城県文化財サイト)


カマ神様に関係する神とも言われます。

なぜ、コノハナサクヤヒメに変わったのかわかりませんが、
どうもここは、関東の武士の祈願所だったようです。

瑠璃光とは、薬師如来のことで、不老不死の意味をもちます。
そのため、「医王寺」も瑠璃光薬師を祀ります。

というのは、医学の知識をもった人の意味をもち、
病気を治す平癒の力をもつことからです。

そのため、遠方から信者がやってくる所とも言われます。
ガンに効く神様とのこと。

それは、後で書きますが、病を治した話があるからです。

 

小さい葉山さまも。

「小葉山神社」

 



あまり見かけない「三面大黒天」

大黒天、弁財天、毘沙門天。

 



仙台の七福神の秀林寺も三面大黒天を祀っています。
あまりお目にかかることはないです。

 

この下は線路で、電車が通る音がけっこう聞こえます。

 

 

瑞巌寺と葉山は、昔は繋がっていたのです。水で。

線路が切っている。
 

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本殿の横に、いくつか石碑があり、
これらの石碑から、多くの情報を得られることに。

宝物殿にあった山岡鉄舟の書から、

この石碑の意味がわかりました。

 



交流があった知人(医師)から頼まれて「葉山神社」の額を

書いた話でしたが、それがこの石碑にあります。

宝物館に記録されていた事を抜粋します。


大郷町生まれの医師 本名:立造(りつぞう)という方が、
幕末の頃、母の病気の身代わりになるために、神社に願掛けをしました。

「井戸水を七釣浴びて松島の葉山権現の方を向かい
「私を身代わりとして母の病気を全快させて下さい、
母の病気が全快しましたならば私は飲食を絶って三日三夜御山に
篭りまして身代わりに立ちます」と一心不乱にいのった」

すると翌日から不思議にも母の病気が回復した。 


その方は、千葉愛石(ちばあいせき)

 



和歌があります。

「年浪の 五十によりしは 松島の 葉山の神の 恵みなりけり」

 

本人自ら石碑を置いたと伝わります。

葉山の神への感謝を歌っていますが、なぜ、ここの葉山に?

 

その話から、黒川郡の人たちからも崇敬を集めているようです。

こちらも病気が治った祈願碑。(高橋家)

 

 

 

千葉愛石と山岡鉄舟との交流

 

千葉愛石という方、すごい方で、
明治天皇の主事医でした。

 

大郷町立大郷小学校かわら版より
https://ohsatoshou.jugem.jp/?eid=140

 


大郷町の出身。(粕川)

大郷町のサイトより。

弘化元年(1846年)4月12日に千葉重之進の長男として、粕川に生まれました。

千葉愛石(立造)は、大郷町から医師をめざすために上京しますが、
体が弱く、親の許しを得て医者を志し自力で上京したそうです。

上京した愛石は、明治天皇の侍医も勤めた
岩佐純医師のもとで昼夜勉学に励み
幕末の剣豪山岡鉄舟と交際するようになりました。

その後、岩佐病院塾長、副院長を務め、名医と呼ばれるようになります。
 愛石は、幼少の頃から体が弱く、度々病を患った自らの経験から
人生の危うきことを示すため、

山岡鉄舟や勝海舟など明治期の著名人の賛を記した
「累卵の碑」を糟川寺に建立しました。


千葉家は、代々、医師の家系だったようで、
その薬学、医学から薬師信仰を崇拝していたのですね。

山岡鉄舟との交流は、千葉愛石は、山岡鉄舟の主治医でもあったのです。
愛石は、山岡を師と仰いでおり、

山岡の最期を看取った方だったのです!びっくり


そして、山岡鉄舟(通称:鉄太郎)の妻が「山岡」姓で、
娘が松平家に嫁いでいました。→華族

むむ~、明治天皇は、北辰一刀流なり千葉家の名門たちを

周りに固めて、自身を現人神とし、

道教の最高神である「太一」の中心にした、という事ですね。

明治天皇こそが、「ゆるぎない最高神」である
ということを、明治政府は証明をしたかったのですね。

 

どうりで、秩父神社のフクロウが振り向きますよ。

※見返りフクロウ(北辰)

 



ゆるぎない→北辰

 

このフクロウが何をみているか。

 

明治天皇や明治政府というといろいろ闇の話が多いですが、

その影というか、見えない所で支えてきた人たちがたくさんいて、

その偉業を後世、称えられることもないまま。

 

密かに森に鎮座していたことが、驚きでした。

 

この、「瑞巌寺の裏の」松島で。


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この葉山が瑠璃光薬師であることから、

医師であった愛石の崇敬から治癒力にあらたかな神となったのです。

 

もう、お腹いっぱいなんですけど・・・

この話を知ったのは、もちろん、帰ってから調べたことですが、
気になったのは、出羽三山の葉山とは違う、と思うのです。

コノハナサクヤヒメに「変えている」ことも?

この葉山というのは、出羽三山信仰の葉山ですが、
端山の意味をもつ修験の場所です。

 


修験であることは、不動尊があることからわかるのですが、
この葉山神社は「瑞巌寺の創建に関係する」と言われています。
瑞巌寺の前から、何か痕跡があったと思いますがよくわかりません。

松島寺(現:瑞巌寺)は、天台記によれば、
 

「青竜山延福寺といわれ、828年に慈覚大師(円仁)開基。

住職の名簿があり、1263年まで記録があったそうですが、
瑞巌寺は、立石寺と並んで知られた天台宗のお寺でした。

隣にある円福寺は、天台から禅宗(臨済宗)に改め、
鎌倉のご祈祷所となり、鎌倉将軍家の祈願所でした。」


確かに、瑞巌寺には北条政子の書(写し)が残されています。

似ているのでは、伊達郡梁川にあった「浅間神社」で、
コノハナサクヤヒメを祀り、
伊達氏の祖「伊達朝宗公」の創建であるため。

また、陸奥国伊達郡の地に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請した
「鶴」との共通点です。

徐福も匂いますが。

 

ところで、他にこんな石碑も。

 


この石碑がわからないのですが「泰山」?

 

 

千葉愛石が生まれた大郷町は、「黒川郡」であり、

その関連から、黒川郡の村の名前がずらりと。

その中に「横須賀」

 



東北の天台宗の衰退は、
鎌倉の関東武士が関係していると思います。

 

『吾妻鏡』に登場する「千葉常胤」の一族が

黒川郡を治めていたことも関連するでしょう。

しかし、他、いろいろなモノが目についてしまいます。

 

境内にあった鐘。

 



気になって写真を撮ったのですが、
「玉崎山 玉泉寺鐘銘」とありました。

十一面観音菩薩とあり、この鐘は、
岩手県の玉崎からきているのです。
廃寺になっていますが、運慶作の十一面観音が伝わっていた所でした。
※観音様の写真をネットでみたらエキゾチックな人。

観音様というより誰かを模してますな。 

 

で、玉崎の玉泉を調べると玉崎駒形神社があり「人首」の地名。

蝦夷の長(おさ)がいた所ですね。
大武丸とか、アテルイの子だったりいろいろ蝦夷の
伝説があるところです。キョロキョロ

お寺ですから、蝦夷の末裔たちを供養している
歴史があるかもしれないですが、なぜここに?

鐘をならしてきました。

幕末明治維新、明治天皇、新撰組、
北辰信仰(北辰一刀流)、九曜紋の千葉家など。

 

ほんとに、瑞巌寺の奥のおく~の院ですね。

みちのくの奥なのでした。

 

葉山神社の奥の院

 

そんなことで、葉山神社をお参りしてすっかり満足してしまい、
それでさっさと帰ろうとしてました。

帰り道、「奥の院」があったことに気づく。

 



そうだった!
ここをお参りするつもりだった。www

 

天然

来る時に全く気づかないことに、びっくりする。笑

ここの奥の院がすごかったのです。

 



どんどん「下って」いくのです。
けっこう、階段を下りていきました。

奥の院というと、通常、上の方にある山奥ですよね。
ここは、下にあるんです。

 

入口に記念碑の石碑があったので、

参拝客(信者)が多いのだと思います。

 

 

 

階段をつくってくれたおかげで

簡単にお参りできるようになったのだと思いますが、

 

なんか、

ざわざわする。

 

ドキドキしながら降りると、お不動さんと穴。

まっくろくろすけの穴。

蝦夷穴とは違うな。・・・・

 

 

 



葉山清水の泉といわれ、枯れない水と称される。
遠方からも訪れる信仰の場です。

 

 



ちょっと水が乏しい気がしたのですが、

この水がどこに流れついているのか気になり、

流れに沿ってぐるっと回ってみると、

 

そこに奥の院が鎮座されておりました。

 

 

もっと、ぞわっとする。


・・・つおい、のです。

つおい→強いのMAX

つおい、って、甲州弁なんですね。
不思議。
じゃなくて、後でわかったことですが、

九曜紋だから千葉家の妙見ですよね。

 

相馬妙見=千葉妙見。

 

ここ、上まで登っていくのーーー?

けっこう急な階段。

 

秩父人は、おじけづく。

 

ここにも三面大黒天。

 

 

やめようかと思ったんだけど、中途半端に戻ったら、

南天棒に叩かれそうなので、笑

 

「なにしにきたんじゃいっ!」て言われる。

こーいうのが↓ニヤリ

ざわざわする理由・・・南天棒の自画賛。

 

 

絵心があるの。

いっぱいでてきたから。笑

 

御堂に祀られている姿が真っ暗でみえず。

まあ、みなくてよいのかも。コアラ

 

お不動さんの横にあった穴は、

奥の院に繋がっているのかな?

 

奥の院の洞窟は、もっと高い所にありますが、

葉山ですから、「おこもり」していたのだと思います。

 

帰りは、登り・・・

 

 

 

そんな千葉家の守り神でしたが、

病の治癒力は、確かにありそうな気がしてきます。

 

でも、明るい良い森でしたよ~。

 

解脱するところ

 

いろいろと調べれば、いろんな歴史がでてきますが、

最後に、

 

葉山神社を勧請したのが真山氏とあり、
「解脱院」の額が奉納されていたという。

解脱院といえば、松島海岸駅近くにある解脱堂があります。

 

 

それ以前の101世が建立した達磨堂があるのですが、
元禄8年(1695)、瑞厳寺101世鵬雲禅師により造営され、
中央に聖徳太子、左に達磨像を、右に鵬雲像を安置したというので、
聖徳太子信仰があるのです。

※南天棒は、124代目禅師です。

この場合の解脱とは、おそらく「達磨」のことでしょう。

企画展には、南天棒の達磨図がありました。

その達磨は、解脱を説くもので、
仏教が宇宙の真理を説いているから繋がったこと。

このブログが「道」というタイトルがそうであるように、
「TAO」であることを自分で宣言したからです。

「道TAO」に変えてから、以前より行動が明確になってきましたが、

より濃厚に見えない何かと繋がることが太くなりました。


次元が変わったと思います。

そんな、解脱の場で、
その鎮魂を宇宙へ投げる意味。

そうだった。
秩父に伝わる伝説「くびかざり座」を思いだした。

ギリシャ神話の「かんむり座」と同じ。

平家は、ギリシャ、ペルシャの人たちなので、
ギリシャ神話が多いです(叙事詩)

 



平将門が寵愛していた桔梗姫がスパイ行為をしたような話。
(城峯山の話)
桔梗姫が密かに相手方(敵)の藤原秀郷に情報を教えていたと。

それが判明し、平将門より処罰され桔梗姫は亡くなる。
それを憐れに思った秀郷が桔梗姫の首飾を天に投げた。

これが、星祭にもなっていたりしますが、

昔話の中では、この宇宙観が素晴らしい。

 

この宇宙の話は、泰山府君にも繋がるのですが、

これも濃厚なので後でまとめておきます。


お葉山さまの話は、いったん終わりにしますが、
今回、「山岡鉄舟」と繋がったことが、意外でした。

 

伝えたいことがあるのでしょう。
もうひとつ、知られざる新撰組の話を。

場所は、埼玉県飯能市。
まさか、あの山が・・・と思った歴史。
記録しておきます。カエルヒヨコ
 

松島探訪は、おしまい。