今日は、青葉祭ですね。

すずめ踊りの。

 

 

 

 

入社したばかりの時、会社で新入社員は

すずめ踊りをする、と決められていて、

なんだその風習は・・・と思っていたが、

私の業務は土日も勤務だったのでやらずに済みました。

 

それから、仙台人になるには、すずめ踊りに抵抗を覚えてしまうと、

青葉祭が楽しめないほど、仙台人にとっては地元の祭として

新緑のこの時期は、盛りあがるのです。

 

今が一番きれいな仙台なので、さすが杜の都です。

この青々とした新緑の都市の輝きは、他の都市にはないです。

 

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さて、話題は松島。

松島は仙台から近いので度々、浄化しにいきます。

天気もよく気持良い海の風を受けたくなりまして、
久しぶりに瑞巌寺へ行ってみました。

私は姉、兄意外は家族がなぜか仙台に住むご縁があります。
まったく先祖と仙台は関係ないのに、いつも不思議に思っていました。

なぜ、うちの家族は仙台に暮らすご縁になるのか・・・

仙台への道をつくったのは、父でした。

私も大学が仙台だったので、母も行ったり来たり、
しばらく仙台生活を家族で過ごしていたのです。

そして、今年の春、甥子が晴れて大学進学へ。
仙台に暮らすことになったのです!

いや、うちの家族だけではない。
主人も仕事で仙台へ。
主人の両親も最期の余生は仙台でした。

介護が必要になり義理両親を
仙台と名取で看取ったのです。

 

この現象は・・・もしかして、
私が引き寄せているのかも?

それが、七不思議なのです。

なので、
伊達政宗に直談判しに瑞巌寺へ。ニヤリ

 

ちゃんとおりますぞ。

 


※画像は瑞巌寺のサイトより

とかって、行ったとて、イタコでもあるまいし。

新緑の明るい葉が、松島の海の風を受けて
そよそよと泳いでいる。

気持ちよい~~

 



ああ、眠い。
瑞巌寺の廊下でお昼寝をしたい。
上の段で。(こらこら)

結局、癒されておわった。チーン

 

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外国人観光客が多かったです。

連日ニュースで円安のことばかりやっていますが、

これだけ多く外国人が、日本に関心、興味、食も含め

日本の文化、食の美味しさに感動を覚える機会は、今までなかったのだと思います。

 

今日本は、精神面で多くの影響力を海外に与えています。

 



瑞巌寺で一番良かったのは、梁の葡萄唐草。
素敵なんですよ~。
和洋折衷が好き。

左甚五郎に影響を受けたという「刑部左衛門国次」の
作と言われ、本姓が「鶴」と名乗っていた人だった。


紀州郡賀郡根来鶴之門家次という人もいて、
安土桃山建築の巨匠とも言える彫刻家。

熊野の材木は、豊臣秀吉や徳川家康にも好まれ、
紀州の新宮市から江戸まで木材を運んでいました。

伊達政宗もその一人で、熊野の材木の良質を
よく知っていたそうです。

その時に携わった大工を紀州の根来から呼び寄せていたのです。

また、家次は、塩釜神社でも大工になっており、
鶴家一門、梅村家一門の両門となって造り上げたという。

だから、塩釜にこの梅の神社「梅宮神社」があったんですね。

 

※梅宮神社(塩釜)


梅村とは、菅原家に関連するのでしょうか?

神紋が梅です。
橘氏と繋がった神社→葛城氏。

ご祭神が、「酒」で京都から勧請しています。

 

鶴の家次の彫刻は、

室中・文王の間・鷹の間・松の間の廊下上には
鳳凰・孔雀・鶴・吐綬鶏・金鶏・山鵲・菊・牡丹など、
瑞祥的な意味を持ち、吉祥性を表す意匠が彫刻されています。

 



※瑞巌寺のサイトより(刑部左衛門国次作)

鶴氏である刑部左衛門国次の系譜はよくわかっていないそうです。

心柱の墨書に「坂本の番匠40人」の一人として
「刑部左衛門」という名前が記されているとして、
大崎八幡宮も、てがけていました。

坂本とは、根来寺(ねごろじ)に隣接する集落で、
大工集落だったそうです。

 

鶴氏は、100年にわたって大工職を継ぐ家系があったと言われます。

 

※根来寺は、新義真言宗の総本山。
高野山の空海から教えを受けた密教のお寺。

 

鶴さんの建築仕事↓

※詳細はこちらを。


これらの歴史をたどっていくと、「泰山」に繋がるのです。

※泰山・・・封禅の儀式をしていた所
帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式。

 

 

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いやいや、本来の目的は、瑞巌寺というよりかは、
行ってみたい所がありました。

なぜ、そこにあれがあるのか。

何かわかるかもしれないと思い、
本来の目的は「宝物館」

すると、企画展をやっていました。
「中原 鄧州(なかはら とうしゅう」という人。



 

・・・知りませんでした。

このことが、最終手的に知られざる明治維新に繋がってしまう。
裏の。

なんでそーなるかなぁ。

今回は、ちょっと道教の話になるので、
祈祷くさい話になります。

まあ、軽~い歴史程度に。

「泰山府君」(たいざんふくん)のこと。

ぜんぜん、軽くないっ!!www

 

■瑞巌寺の復興に尽力をつくした人-----------------------


その前に、企画展の話を。

先に瑞巌寺にきて良かったです。
そうでなければ、そこへいく気持ちが全然違ったと思います。

 



「瑞巌寺124世 鄧州全忠禅師展」
~没後100年を記念して~


簡単にご説明しますと(wikipediaに頼る)

「中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日
〈天保10年4月3日〉 - 1925年〈大正14年〉2月12日)は、

明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶。

諱は全忠(ぜんちゅう)、
別号として白崖窟(はっけいくつ)を持つ。

広く南天棒(なんてんぼう)の異名で知られる。

竹篦(警策)として常に南天の棒を携え、
全国の禅道場を巡っては修行者を容赦なく殴打した
明治時代屈指の豪僧として知られる。」

「容赦なく殴打した」っていうのは、今はタブーでしょう・・・

あの南天棒で、バチバチ叩いたんでしょうか?
けっこう、太くて堅そうな立派な杖でしたぞ。

で、この方は、あの蕃山も再興されていた方でした!

蕃山も「大梅寺(だいばいじ)」とよび「梅」です。

 

そうか、禅寺!

 

冬にいった大梅禅寺です。

 

 


 

『松島町史』によると、

明治維新、ほぼ廃寺になっていた瑞巌寺(松島寺とよんでいた)
を再興し、明治9年、天皇の巡幸が東北にきて、
本寺をとどめて伊達政宗が創建の時につくった上々段の間(帝鑑の間)
に一夜を過ごしたという。
※御座の間とも。

 

※上々段の間(瑞巌寺サイトより)


東京に戻り、明治政府より修理費用にあてるよう恩命をうけた
当時の知事松平正直は、すぐ修理にとりかかることができたという。

次いで、南天棒(中原 鄧州)が大梅寺へいき、
また瑞巌寺へも復興を行う。

当時は、80歳代の高齢だったという説があります。

「瑞巌寺においては、寺伝来の目録作成、

文化財の修復をしただけでなく、途絶えていた年中行事を復活させ、

拝観客のために説明文を制作しており、今日の瑞巌寺の基礎を築いた」


瑞巌寺に尽力をつくし協力した僧侶として、
企画展をやっていたわけです。

これも何かのご縁。
(棒でたたかれるのは、嫌だけど)

そこで、興味深いものがありました。

南天棒の影響を受けた人の中に「山岡鉄舟」がおりまして、
・・・聞いたことあるような、ないような。

 



在家者への教導にも力を注ぎ、
山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎などが彼の影響を受けたと。


山岡鉄舟は、非常に字が上手だったので、
たくさんいろんな人に文字を書き販売していたともいう。

「剣・禅・書」の人で、
「北辰一刀流」を学んでいる人だった。
デタ。
ただねぇ、あんまり、こう男子が強いのは、どうもねぇ。

 

「幕末の三舟」

幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である

勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名の総称。

 

(右:山岡鉄舟、中央:勝海舟、左:高橋泥舟)
 

 

そんな鉄舟が書いた額があったんですよ!
それが「葉山神社」だった。

そうです、今回の目的は、葉山神社だったからです!凝視

匂いま~~す。
ぷんぷんしま~す。

それを見てからの奥の院参りになってしまったわけです。

 

 

ここから、はじまった・・・

 



ところで、南天棒の「南天」というのは、
「縁起のよい木」の意味をもつ赤い実の南天です。

 



よく森にありますね。

赤なので「灯り」の意味があるとの事。
鳥は、南天の赤を「灯しび」

に見えるのだそうです。セキセイインコ青ヒヨコ

 

■宇宙に投げる鎮魂とは-------------------

 

さて、この後で葉山神社へいってみました。

 

 

 

瑞巌寺の横を歩いていくと、違った風景があります。

 

 

ただ、灯籠が倒れていてそのままになっているのが見えると、

見えないところで、雑にされている場所があるものです。

 

なぜ、そういった差がおきるのでしょうか?

 

 

 


 

歩いて行くつもりでしたが・・・

 

 



線路があり渡れません。

奥に階段がみえますが、あの上が葉山神社です。

 



仕方なく戻り、諦めるのです。

 



この時は、そこまで行けなくてもいいや、と思い、
宝物館で満足していましたもので。

しかし、タリーズで休憩していたら・・

タリーズに降臨?おばけ

いつの間にか、スタバがなくなったんですね。
タリーズに変わっていまして。

のんびり松島の海をみながら、まったりしていたら、
Hさんのブログに、「レムリアが沈んだ日」が目にとまり…
その日がそうらしい。

見つけてしまったからに~、
葉山神社があきらめきれず。

車で行けるかグーグルマップで調べたら、
簡単に行けたのです。笑


レムリアが沈んだ日(5月15日)というのが、
何をもってそうなんだかわかりませんが、

偶然なのか、中原 鄧州の生まれた日が旧暦4月3日(天保10年)

で、今の5月15日なんですよ・・・

源平合戦がオリオンの赤と白の星名になっています。
適当な話ではなく、人類もいつかは、星へ還る運命にあるのだと。

源融の和歌の話のように、大きな破壊をしてきた大戦争の大首長なる者たちは、
宇宙へ投げて鎮魂するわけです。

それは、「地球で受けとるには無理なほど」
壮大な破壊をしてきたからでしょう。

真蔵(枕詞)のように、人類が償う、供養するところが宇宙である。
なぜなら、宇宙は人類の憧れであり補陀楽の世界だから。

それは和歌の枕詞の地名が、陸奥から宇宙へ変わる時。

陸奥の枕詞にそって、私はそれを宇宙へ投げる。

なので、レムリアなりムーなり、
記憶の奥底に残してきた宇宙が発動し、
その葉山へいってみたら、すごい奥の院なのでした。

 

相変わらず、ディープ。

そこに鎮座していたのが・・・

思わず、感心してしまいます。


つづく。